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一の2
「こんなに土砂降りなのはあなたがお祈りしたからでしょ」
俺の視線は妖精に吸い寄せられていた。
妖精が目を何度か瞬かせる。口端をあげるとえくぼができた。
「そろそろわたしも咲きたい、と空にお祈りしました」
……おお。
「だから今日は雨降りなんですね」
改めて俺を見据えてくる。分かってるじゃん、って顔。俺もさっき同じ顔した。
「きみはなかなか面白い若者ですね」
「あなたも若者じゃないですか」
絶対老いてはない。俺よりは年上だけどお袋よりは年下だ。
いえいえ、と面白そうに僅かに首を横に振る。襟足の後れ毛が顎の輪郭を湿っぽくなぞっている。触れたい。
「わたしは紫陽花の妖精ですから……きみより百年も二百年も長く生きているんです」
この妖精面白いな。
違いない、と俺はしみじみ言った。
「妖精もカッパを着るんですね」
妖精は声を出して笑う。花擦れの音みたいだった。なんか俺微睡みそう。全身が痺れて溶けそう。
「妖精界隈でもカッパは雨の日しか着ませんからね、今日しか着られないものを着ない手はないでしょう」
「よく似合っています」
「ありがとう。きみもその長靴、大変よく似合っていますよ」
ああ。
俺はベンチを飛び越えてから今の今まで忘れていたことを思い出してしまった。現実に引き戻される。
足下を見た。黒と茶色の間の色の長靴。肥沃な土と同じ色。見目はちびっぽくないし、かといってこだわってもないところが超恰好いい。
妖精から目を逸らして俯いた。
「……これのせいで彼女に振られました、今日。つい一時間前に」
おやおや、となんでもないことのように妖精が相槌を打つ。
「長靴を履くなんて千年の恋も覚めた、って」
妖精はまたさっきみたいに声を出して笑った。俺は少しムッとする。
「三ヶ月も付き合ってたんだ。マジ好きだったし。尽くしたしキスだってしたし。それ以上ももうちょっとでできそうだったのに。今だって好きなのに。なんで長靴で振られたんだ。履いただけで……笑うな」
今週末に家デートする予定だったから。俺は尚更ショックだった。
妖精は雨の音に耳を澄ますように俺の激しい声を聞いていた。毅然としていて、おおらかで、堂々としていた。
「気に障ったのならすみませんでした。でもきみ、こんな雨の日に長靴を履かないなんてもったいない」
そして優しかった。
「きみの長靴だって、外の空気を吸いたかったに違いない」
妖精が俺に向かって笑いかけてくれた。ほだされる。だよな。長靴最高。
……なんか思ったけど。俺が怒っているのってセックスできなかったことにじゃね?
俺を宥めるように体ごと俺に向けてくれた。ベンチについた腕に重心をかけると透明のレインコート越しにゆとりのあるプルオーバーの襟ぐりから、透き通るような鎖骨が見える。髪のいくつかが細い束になって首筋に張り付いていた。
やばい。
顎のラインから辿って唇を見る。妖精が俺だけを見て微笑んでいる。
俺は口を開けずにはいられない。
「名前を聞いてもいいですか。俺は翠 。人間の翠」
唐突だったかな。構うもんか今日の俺は超絶やけっぱちだから。
くすくす笑った妖精はそのあと雨に溶けそうなしっとりとした声で囁く。
「わたしは紫 。妖精の紫」
紫は自分で言ったあと自分の言ったことに対して吹き出していた。
近くで紫陽花がとっても綺麗だった。
胸がきゅう、と生まれたてのつぼみのような音を立てる。
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