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第1話

 もう少しで涙が落ちる、その寸前のこと。 「大丈夫か?」  うずくまっていた小柄な少年に、少し高いところから声が落ちてきた。  何とか涙を堪えて見上げたその人は、短く柔らかそうな黒髪を風に靡かせながら立っていた。風によって散らされた前髪を煩わしそうにかきあげると、ぽんと少年に何かを投げてよこす。 「あ、これは……」  先ほど意地悪な同級生たちに取り上げられ、どこかに持ち去られてしまったばかりの教科書だ。それから少年の頭を、その人の手が励ますかのように軽く触れていった。 「ちゃんとやり返せよ、あんな奴ら。どうせ親の金でここに入ってきて、自分たちには力もなんにもないんだからさ」  見たこともないくらい美しい青みがかった紫色の瞳。整った面立ちなのにその人は言葉遣いが悪かった。手のひらは節ばっていて長い指をしている。器用そうな――何でもできそうな、指に見えた。 「大丈夫。さっき術を発動させるの見ていたけど、お前才能あるよ。あんなクズどもに負けたりなんかしない。お前は、お前のままでいいんだ」  声変りが終わったばかりの年頃だろうが、低いけれど聞き心地の良い声。笑顔は思ったよりも幼く見えて――その出会いは、とてつもなく強い印象を少年の中に深く刻み込んだのだった。 *** 「だーかーらー! どうしてそれを魔獣がやったことになるんだよ!!」  青年の怒声が静まり返った広い室内に響き渡った。「お、落ち着いて」と年配の役人がおろおろとしたように声をかけてきたが、それすら青年は睨み上げる。対してこの国の王が創立した大きな組織である護霊庁の一部署、王立研究所の制服を着た数人の男たちは冷静にそのやり取りを見ていたが、そのうちの一人がやがて口を開いた。 「むしろ、こんな残虐なことを神が愛する人の子が行うわけない。あの噛み痕を、貴殿も見ただろう?」 「あんなの、そこらへんにいる熊だのオオカミだってやるだろうがっ」  顔色一つ変えないで淡々と言い連ねてきた相手に言葉で噛みつくが、彼らは青年を相手にするつもりは毛頭ないらしい。一人が片手をあげると役人たちが遺体を安置している部屋へと慌てて入っていくのが見えた。 「所詮下町ギルドの人間がいちいち我らに口を出さないで頂きたいものだな。ご自身も魔獣の仲間という噂があるようだが? 気味の悪い目の色をしおって」 「こっちだって、いちいちあんたたちのそのおすまし顔を見に来ている訳じゃない」  不審な――特に魔術や魔獣に関わる事件が起こった場合、その遺体の検分には最低でも三か所、それぞれ繋がりのない機関から人を呼ぶのが決まりだ。今回も一昨日の夜に見つかった遺体について協議するために集まったのだが、いつも通りに護霊庁の研究所に所属する人間たちが早々に遺体を回収して役所を去っていった。 「エウレさん、いつもすみません……」  葬儀屋の新人だという小柄な女性が、申し訳なさそうに頭を下げてきたのには青年も頭を下げることで答える。ここまでが最近のお決まりパターンとなりつつあった。

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