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第33話

傷付けないように、傷付けてしまおうと思った。 退勤後は、一週間前と同じように夜を過ごした。 簡単な食事を済ませ、その足で適当にホテルへと向かう。どこだって良かったはずの場所を、今日は使ったことの無いホテルを選んだ。慣れたホテルに、跡を刻みたくはなかった。 いつもと同じように住吉の後ろを着いてきた高坂は、後ろ手にドアを閉めた後にどこか安堵するような表情を見せた。木曜の夜が、普段と変わらずにやってきたことに対する安堵のように思えた。 背を向けたまま上着を脱ぐ住吉へと高坂が歩み寄る。備え付けられたテーブルの上に、小さな音を立てて銀のリングが載せられた。ーーその動作はいつから自然の物になったのか覚えていない。ただ、枷の無くなった左手を目にした時、今だけは自分のものだと気が付いた瞬間の興奮と欲情を覚えている。 それでも。 「智洋、」 その全てを、引き剥がさなければいけない。 この人を引き摺り下ろすことも、自分がこの人の全てを壊して奪うことも、あってはならない。 想いは引き合い、恐らく重なり合っている。 けれどそれは、踏み込んではならない場所だ。 「ーー…何か、勘違いしてませんか」 求めるように住吉の背に身体を添わせる高坂に息を詰め、その事すら悟られないようそっと掌で高坂の胸板を押しやった。可能な限りに冷たい声を作り、振り返る。驚いた眼差しが酷く純粋そうで、ほんの微かに意思が揺らぐ。 「…この間も言いましたよね。俺と主任は、恋人でもなんでもないって」 「……」 小さく見開かれた目が動揺し、逸らされる。その中に浮く落胆の色を見付けては、住吉の呼気が乱れるのを感じる。 傷付けないよう、傷付けてしまわなければ。 二度とこうして自分と会おうと思わぬように。 踏み込もうとしている道が誤っていると気付くように。 「ーー…それとも主任、…もしかして、俺の事好きになっちゃいました?」 似合わないセリフを吐いている。 皮肉に相応しく口角を歪め、一息に言っては笑って見せる。高坂の眼差しが激しく揺れた。 「まさかね。…自分の身体好き放題扱って、無理矢理ケツ犯したりするような男に惚れたりしませんよね」 はは、と小さく声を上げては高坂へと詰め寄る。揶揄するような声音に羞恥を覚えて目元を赤く染める上司の胸ポケットから煙草の箱を抜いた。呆然と立ち尽くす高坂の前に立ったまま箱を開けると、数少ない白筒の脇にライターが同居している。一本抜き、唇に寄せる。弄ぶように揺らしてから中のライターで穂先を焦がす。数年ぶりの煙草の味に顔を顰めた。 「困るんですよね。俺はただ、遊んでるだけだったのに」 「…智洋」 「確かに俺が悪いですよ。始めたのは俺だし、奥さんいる人に…主任に手出したのも俺ですから。でも、遊びですよ。遊び。奥さんまでいるノンケの男が…真面目で優しい自分の上司がどんな味なのか知りたかっただけです」 煙を吐き出す。むせ返りそうになる感覚を堪え、目を細めてまたフィルターを唇に寄せた。今にも泣き出しそうな高坂の顔が視界の端に映る。 傷付けなければいけない。 自分の事など、嫌いになるように。 そしてこれは、自分に言い聞かせる為の作業だ。 「人の物じゃなきゃいけないほど不自由してないんですよね。…それに多分、主任」 深く息を吸い込む。毛脚の短いカーペットに向かって煙をかけ、横目で高坂を見遣る。まだ上着も脱がない腕を視線で辿ると、指が少し震えている様が目に入った。 「もし俺が好きとかなら、やっぱり、勘違いしてるんですよ。…初めて寝た男が俺だから、本気になってるような気になってるだけです。新しい世界見せた男がたまたま俺だったってだけでしょ。俺じゃなくてもーー」 「違う…!」 ようやく、高坂の声を聞いた。 弾かれたように漏れた声は、困惑と悲痛さが乗っている。小さく頭を振り、住吉に向かって顔を上げる。乞うような、目をしていた。 「違う。違うよ。俺は…智洋が、」 「ーー…、…もう、」 言ってはいけない。 口にしてはいけない。 踏み込ませてはいけない。 戻れなくなる。 まだその覚悟は出来ていない。 全てを壊す覚悟などない。 怖い。 怖いから逃げる自分は卑怯だ。 怖いから現在の全てを避けようとする自分は卑怯だ。 想いは、確かに重なっているのに。 「もう、…こうして会うの、やめた方が良いですね」 言葉を遮り、諦念したような表情を作る。 頑固な男を宥めるような目をして見せた。 苦笑気味に眉を垂れる住吉の顔を再び呆然と見詰める高坂が唇を噛む。いよいよ泣いてしまうのではないかと思うような目が伏せられた。ぎゅ、と音がしそうな程、固く拳が握られた。 「……せっかくですから、…最後に一回シておきますか?」 自分は、上手く傷付けられただろうか。 一分の情も無い振りをして、ただの遊びの振りをして、散々身体を貪り本気になった途端に捨てるような男を装えただろうか。 自分の情は、伝わらずに隠しきれただろうか。 「…智洋、」 弱々しい声が室内に響く。一歩を踏み出す高坂の動作に、住吉がテーブルの上の灰皿に吸いかけの煙草を押し付ける。高坂の指が頬に触れた。求めるように顔が傾く。伏せた目を覗き、引き寄せられるように唇に触れた。降ろしたままの指が、離すまいとするように高坂の指に捕えられた瞬間、住吉の脳裏に後悔が走る。 ーー失敗だ。 きっと傷付けることは出来なかった。 自分の想いも高坂の思いも翻し、嘘だと、気の所為だと思い込ませる事は出来なかった。 背を向けようとした想いとは裏腹に、シャツもネクタイも着けた胸板同士が重なる。 これが最後だと言い聞かせればするほど、高坂の唇から離れがたくなる自分がいる。 これが最後の夜になる。 意思は固めてきた。その意に従うように高坂の指を振りほどき、そのまま双丘を強く掴んだ。緩い苦痛に歪む顔を見上げ、精一杯の、虐げるような、侮蔑するような目で笑ってみせた。 「最後ですから。たくさん、可愛がってあげますよ」

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