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第32話
一週間は着実に過ぎていく。
高坂との距離は変わらずに保っている。月曜日から金曜日の五日間のうち、どこかで偶然を装って同じテーブルで昼食を取り、その後に喫煙所で何気ない会話を交わす。距離は変わらないままだったが、二人きりになることは住吉の方が避けていた。
今二人きりになると固めた決意が揺らぐだけでなく、それ以上の行為に走りそうな自分がいる。
あの手を取って攫ってしまえば何もかもが解決するような気がする上、高坂もまた自分の手を解かない予感があるが、それはただの夢想だ。実際には高坂には社内での地位もあれば家族もある。何もかも壊して手に入れようとするほど自分は子供ではない。
ーー子供には無い理性がもどかしく、その一方でその理性があることに安堵する自分もいた。
昼休みがまだ十分程残っているというのに課の中がどこか落ち着かない。時間を持て余した住吉がパソコンの枠の上から目だけを上げると、高坂がいつになく険しい顔をしてフロアを行き、出て行った。その後ろからまだ配属されて一年目の若い社員が泣き出しそうな顔で着いていく。二人が部屋を出ていくと、部署の中に淡い溜め息が満ちた。どうやらあの若い社員が何か「やらかした」らしい、という事を察して住吉はもう居ない背を目で追う。あの横顔はかつて自分も見た事がある。
新入社員だった年のことだ。
元々何をしても平均値を少し上回る程度の結果は出せた。大きな挫折は味わった事が無い。半端な平坦さは半端な自尊心と自信を備えたまま社会人になった。そんな住吉が高坂を指導員に置いて任された仕事で失態を犯したのは冬に差し掛かる前の時期だったことを覚えている。
取り引き先からの怒声混じりの電話に顔面が蒼白になった住吉の説明を聞いた高坂の顔からも血の気が引いた。
すぐに出掛ける、と上着を取った背中を覚えている。見上げる横顔は険しいもので、普段穏やかで柔和な雰囲気を崩さない高坂が初めて住吉に見せた表情だった。
「あの、俺、」
「大丈夫だから」
運悪く、社用車は全て出払っていた。乗り込んだタクシーの後部座席で肩を縮め、顔を歪める住吉がようやく口を開いた。叱られる。失敗した。迷惑をかける。取り引きを切られたのなら。様々な思いが頭を過ぎり、耐えきれずに漏れた声に高坂は普段と同じ柔らかな声で呟いた。
「大丈夫だからね。住吉くんは、俺に合わせて頭下げるんだよ。俺がちゃんとするから。大丈夫」
何か策があるのだろうかと思わせるには十分な声音だった。高坂は最後に一度だけ目を合わせ、ごく微かに笑ってみせた。
その後、取り引き先で高坂はひたすら頭を下げた。
怒る取り引き先の相手の前、膝に付くのでは無いかと思われる程に頭を下げ、ひたすら住吉の失敗を詫びた。その様子に半ば呆然とした住吉も慌てて同じように頭を下げ、謝罪した。
「全て指導者の私の責任です。この住吉の未熟さを見抜けず、仕事を任せた私の責任です。申し訳ございません。この失態は必ず取り戻します。住吉はこれから成長します。私もまた一からやり直します。どうかチャンスを頂けませんか」
深く頭を垂れたまま、高坂はそんな事を言ったと思う。折れる形になった先方の、高坂に免じて取り引きは今のままで、という言葉に高坂はまた深々と腰を曲げた。
駅まで歩こうか。
出てきた建物から充分に離れた場所まで来たところで、会社に取り引き継続の電話を入れた高坂は後ろを歩く住吉を振り返った。未だ泣きそうな顔をしている住吉に思わずという風に苦笑して声を掛け、周囲を見渡す。目に入った古いコンビニへと歩みを進め、店の前に住吉を待たせた。
「はい」
「…ありがとう…ございます」
店から出てきた住吉に少し温い缶コーヒーが手渡された。自動ドアの脇に設置された灰皿の傍に立った高坂は今買ってきたばかりの煙草の箱のパッケージを開ける。少し目を伏せた横顔は、普段と同じものに戻っていた。
「大丈夫だよ。今まで通りって言って貰えたから」
「……」
危うく取り引き先をひとつ潰すところだった。その失敗は住吉に大きな挫折をもたらそうとしている。その上上司にあんなに頭を下げさせた。
高坂は特別な上司だったわけではない。たまたま配属された先にいて、たまたま今回指導者になっただけの間柄だった。そんな高坂に、自分の為にーー会社の為であると言われたのならそれまでだがーーあれ程心からの謝罪をさせることになるとは思わなかった。
そして今、その高坂は自分を責める事も叱ることもせず優しい言葉を掛けている。その事にすら涙が滲みそうで、住吉は唇を噛んで浅く頷くことしか出来ない。
「でも住吉くんも俺も、今まで通りじゃいけないからね。まずは俺がしっかりしなきゃね。住吉くんにもちゃんと教えるからね」
今までだって、「ちゃんと教え」られてきた。
高坂は何も悪くない。
全て自分が「やらかした」ことなのに。
泣きたい。
泣いても何もならないということはわかっている。だが、この情けなさと悔しさをどう消化すれば良いのかわからない。眉を寄せた。また下唇を強く噛む。握ったままの缶コーヒーが、開けられない。
「…大丈夫だよ。住吉くん」
「ーー…っ、」
ふわ、と高坂のタバコの煙が舞った。白筒を指に挟んだそのもう一方の手が、住吉の頭に降りる。まるで小さな子供を宥めるような手付きで住吉の髪を撫でる上司の顔を上げられない目の端で見上げると、困ったような、慈しむような目をしているのがわかった。
「…なんだよ、」
あの時自分にそうしたように、今日もあの若い部下にそうするのだろうか。記憶を辿り、現在地に戻っては誰にも聞こえぬように悪態をつく。
あの手は今や自分のものだ。
自分だけのものではないが、自分のものだ。
あの手を取って、どこか遠くに攫ってしまえば、高坂のあの柔らかい手も、目も、本当に自分だけのものになる。
この一週間のうちに幾度も過ぎった夢想に立ち返る。それは不可能なのだと自嘲しては木曜日へと思いをめぐらせる。
最後の木曜日は、目前に見えていた。
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