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第31話

智洋と。 たった三文字を呼ばれた夜から、病は加速しているようだった。 今日も用があるので。 いつもの所にいます。 会話になっていない会話に「既読」のマークを付けた事を後悔してる。 木曜の逢瀬を二週続けて取りやめた。さすがにおかしく思うだろうかと思いながらも今週もまた同じメッセージを送った住吉は、返ってきたメッセージに小さく呼気を逃す。高坂の事を不自然に避けているのは明らかで、フロアでも業務上の接触のみに留め、喫煙所でも食堂でも顔を合わせる事を避けた。 智洋、と。 その名を呼ばれた夜から、焦燥感が消えていかない。 ようやく自覚しかけていた自分の想いに拍車を掛けるような出来事だった。自覚したからには止めなければならない。住吉の深層に生まれつつある思いを裏付け、後押ししようとするような声と眼差しが脳裏に蘇る。 人の物を奪い、人の物を壊して喜ぶような趣味は無い。 ただの遊びだ。 なおも言い聞かせては、相反するように高坂を避ける自分がいる。 ーー互いに互いの想いを自覚してしまった時、その先にあるものが住吉にはわからない。 ただの遊びだ等と言い訳しているうちは、覚悟など決められる筈がないーー。 フロアの隅の倉庫のドアをそっと開く。壊れかけたブラインドの側に立つ高坂が所在なさげにスマホに視線を落としていた。その表情は、逆光によって伺えない。距離を詰めると上げる顔に安堵の色が浮かぶ様も、後ろ手に閉めたドアが小さく音を立てて塞がる頃にようやく視界に収めることが出来た。 「…なんすか」 「……うん、」 ぶっきらぼうに呟く住吉は高坂と距離を取って足を止める。スマホをポケットに押し込みながら高坂が視線をうろつかせ、そのまま目を床に落として呟いた。 「なんか…最近、…避けられてるのかなって」 住吉くんに。唇から零れる呼称に密かに安堵する。一方の高坂は、用件を口にしては窺うように住吉を見遣る。不安げな目をしていた。 「…別に…」 「避けられてるのなら、…俺が何かしたのかなって」 ーーずるい。 この人はずるい。 人の所為にはしない。 悪いのは自分だろうかと予測し、それを真っ直ぐに、悲しげな目をして突き付けてくる。 それか全て、この人が引き起こした事態ではなくとも。 「……別に、」 この目に絆されてしまえば、きっと自分はずるずると堕ちていく。戻れない場所に引きずり込まれる。 引きずり込んだのは、自分だというのに。 覚悟はない。 怖い。 自覚をすることも。 人の物を壊すことも。 人の物を、手に入れることも。 「…別に、…避けたって、…良いでしょ」 「……」 口角を歪めて見せる。不自然にならないように皮肉めいた笑みを浮かべたつもりだったが、上手く出来ているかはわからない。視界の端に、困ったように佇む高坂の姿が見えた。 「俺ら、…付き合ってるとかじゃないんですから。主任も俺も、カレシとか恋人ってわけじゃないんですから」 「……うん、」 「主任、わかってます?ちゃんと奥さんも子供もいるってこと」 高坂の相貌に動揺が走る。 ーーこの人はきっともう、自覚したのだ。 だからあの晩、自分を智洋と呼んで求めた。 ずるい。 ずるい。 覚悟を決めているのかはわからない。 それでも、自分より先に想いを手にし、自分を自分のものにしようとする。 だったら、それを留めなければならないのは、自分の他に誰もいない。 「そう、だね、」 微かに震える声に動揺した。 顔を上げると、途方に暮れた犬のように立ち尽くす高坂の姿が視界に映る。 ーーこの人は、ずるい。 わざと距離を取っていた住吉が歩みを寄せる。 悲しげなこの目を見ることは随分久しぶりであるような気がする。 関係を持った当初、男に身体を貪られ困惑と、妻がいながら別の人間と関係を持つ罪悪感とに揺れる目はこんな目をしていた。 見慣れていた筈の眼差しが住吉の胸を締める。 両手を伸ばし、頬を包み込んだ。 「…そんな顔、しないでください」 「ちひ、ーー…」 囁き、唇からこぼれ落ちようとする名前を制するように柔らかく唇を塞いだ。伏せる瞼を薄く開いた目で覗く住吉の額に皺が寄る。 とっくに、戻れない所に来ている。 頬を撫で、触れ合うスーツの上着を押しやりもしない手を握った。握り返される指にまた鼓動が早鐘に変わる。啄むだけの口付けを終え、鼻先が触れ合う距離で呟いた。 「…来週は、…会えますから」 「…うん、」 一度丸くなった目が穏やかな、照れたような笑みに弧を描く。指を解き、掌を重ねて絡め直す。戯れるようにまた唇を淡く塞ぎ、離れた。 最後にもう一回、会いましょうか。 口にしようとする端、胸が軋む気配を感じた。この人を傷付ける為の言葉は、今言うべきではないと飲み下しながら高坂へと背を向けた。

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