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第30話
綺麗に片付けられた部屋、綺麗に整えられた朝食を取る。生まれて数ヶ月の赤ん坊に食事を与える史華の正面、高坂の隣で長女の聡華は不器用にフォークを使って玉子焼きを口に運んでいた。
毎日繰り返される穏やかな朝の風景をどこかで俯瞰しながらコーヒーを啜り、高坂は立ち上がる。
「ごちそうさま」
「はーい。あ、パパ今日遅いのよね?」
視線は赤ん坊に向けたままの史華からの問い掛けに高坂の鼓動が一瞬跳ね上がる。悪い事をしている。その自覚は始めからあった。
木曜日だから。身を止めた夫の姿を見上げる目に慌てて壁のカレンダーを見遣る。曜日は確かに木曜だった。
「…うん、」
木曜日の夜の夜は帰宅が遅い。
他の曜日はほとんど定時に上がって帰宅してくる夫は、木曜日を残業の日と決め、終電に間に合わせたような時刻に帰ってくることにしているのだろう。妻の理解は概ねそんな風に得られたと思っている。
実際夫が何処で何をしているのかなどーー知らない筈だ。
「じゃあまた晩ご飯食べてるね」
「ん、」
夕食は会社で摘むから。
そう伝えたのももう随分前のことになる。
にこりと微笑む史華を見下ろした高坂がふと緩く首を傾けた。
「今日…ママもどこかお出かけ?」
「……え、」
カレンダーの隣、衣類を掛けてあるハンガーラックの中に史華のスカートが下がっていることに気が付いた。子供が出来てからスカートを履いてる場合じゃないのよと笑い飛ばしていたのはいつの事だったか。あれは新婚の頃に史華が気に入って履いていたスカートだった。
「…うん、…お隣の奥さんとね、たまにはランチでも行きましょうかって。子連れでも行けるわよって誘われて」
「そっか。楽しんで来てね」
息抜きは当然必要だろう。
高坂も家事や育児を全くしない訳では無いが、平日の昼間はどうにもならない。どこか饒舌に答える史華に目を細め、高坂は頷いた。
ネクタイを締め直し、上着を羽織る。子供用の椅子から降りてきた長女が足元へと歩み寄ってくる。この時間になるとパパは家から消えてしまう事を知っている目が名残惜しそうに見上げていた。
「聡華ちゃんも美味しいご飯食べてきてね」
胸が痛まない訳ではない。
ただーー言い訳の出来ない、言葉にすることの出来ない想いが在り続けている。
頷く娘の頭を撫でた。
鞄を手にし、玄関へと向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
木曜日の夜は帰宅が遅い。
その理由も、出がけに微かに高鳴る胸も、よく出来た妻は何一つ知らない。
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