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第35話

「あ、そうだ。ねえパパー?」 小さな子供たちに囲まれるようにして朝食を取っていた高坂は妻に呼ばれて顔を上げた。今日もいつもの様に早く起き、メイクも朝の支度も済ませてしまう妻の心意気のようなものには毎日の事ながら関心してしまう。二番目の子供の口に小さなスプーンを運びながら、妻の史華はにこりと笑った。 「今日木曜日でしょ?パパ遅い日だから、子供たち連れてお義父さんとお義母さんとご飯食べに行ってくるね」 「……、あ、…そっか、」 高坂の両親は同じ市に住んでいる。そう言われれば、忙しさにかまけてしばらく顔を出していない。だがそれよりも、今日が木曜日ーー予定の無い木曜日だということを高坂は失念していた。 箸を持ったままぽつりと呟いた高坂に史華が首を傾ける。形の良い眉が下がった。 「それともパパも行く?早く帰ってくる?」 「……いや、…行っておいでよ。よろしく伝えておいてね」 木曜の夜は遅くなるから。 遅くなる理由は先週の木曜日に無くなった。 嘘をついて夜更けに帰宅する理由は無くなったというのに、言い出せないまま頷いた。 隣から幼子が袖を引く。俯きかけた父親の横顔に何か感じるものがあったのか、じっと目を覗かれた。なんでもないよとまた呟いて柔らかい髪を撫でる。声をあげて笑う子に、目を細めた。 不自然に避けても仕方がないと思っている。 避けたところで、同じ部署に所属している限りは同じフロアで働くのだ。住吉はあれから何事も無かったような顔をしている。彼のようにーー男と関係を持っては別れる事を繰り返している人間ならば、やはり自分との関係も彼の言う「遊び」であり、後を引く事の無い類の物なのだろう。 涼しい顔をしてフロアを行く住吉の横顔をデスクトップ越しに眺める度に、自分でもおかしいと思う程に胸が苦しくなる。呼吸が浅くなる。 そしてその傍らで、先週彼が言っていた言葉が蘇る。 あれは遊びに過ぎなかった。 自分が恋を自覚した所で彼にとっては関係が無かった。 独りよがり。 住吉の言葉を反芻し、先週の夜の事を思う度に心が沈む。 独りよがりの恋は、消えて無くなるのを待つしかないのだろう。淡い溜め息が無意識に零れたその時、退勤時刻を報せるチャイムが鳴った。 ざわざわと人が立ち上がり、動くフロアで高坂は席を立たない。胸中の事などおくびにも出さず、退勤していく人間に穏やかな笑みを向けて小さく手を挙げて見送る。デスクの上には、片付けてしまおうと積んでいるファイルがまだ残っていた。 出入口に向かう人の小波の中、不意に足を止める気配があった。顔を上げ、そこにいる人物にやはり無意識に鼓動が跳ねる。 普段と変わらない、あまり表情の無い顔をした住吉が、不思議そうに自分を見つめていた。 「…帰らない、んすか」 皺を寄せた眉の下の目がちらりとファイルを見遣る。早鐘を打つ鼓動を知られぬように笑う高坂は、キーボードに載せた手を離さない。 「うん、これ、キリの良い所までやっちゃおうかなって」 「……そう、…ですか」 今日、木曜日ですよ。 帰りましょうよ。一緒に。 何度その会話を交わしただろう。 先週も、先々週も、先月も、その前も。 住吉は同じように自分を誘った。自分も同じように誘いに乗って、彼に着いて行った。 先週のあの夜が最後なんて、何かの間違いだったんじゃないだろうか。 今日もまた、彼は同じように自分を誘うのかもしれない。だから足を止めたのかもしれない。 ちらりと住吉の手を見遣る。早鐘が止まらない。唾液を、飲み下した。 「…それじゃあ。…お疲れ様、です」 今日、木曜日だね。 喉から出かかった言葉を、飲み込んだ。 どこか逡巡するような間を置き、目を伏せた住吉は小さく会釈してから背を向ける。高坂は、他の社員に向ける笑顔と同じものを住吉の背に向けて送り出した。 やがてフロアから人が引いた。パソコンを睨んでいた高坂は手を止めて深く息を吐き出すと、椅子を引いてそのままデスクに額を伏せた。 お疲れ様。自分は上手く、自然に返すことが出来ただろうか。 浅ましい期待など匂わせず、彼に手を振ることが出来ただろうか。 やはり終わったのだ。 正確には、終わっていたのだ。 住吉と過ごす夜はきっともう訪れない。 空いた木曜の夜、住吉はどこで誰と過ごすのだろう。 嫉妬には遠い、まだ恋慕の玉子のような感情が胸に留まり続け、身体を芯から熱くさせる。 あの手は、もう。 「…会いたいなあ、」 フロアにいる時とは、昼間とは違う彼に。 自分に触れる手に、自分を見つめる目に。 思う程に熱を帯びる芯が、胸を痛め付ける。 失恋の痛手を治す方法など、とっくの昔に忘れてしまったことに気が付いた。

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