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第36話

先週は残業の席を先に取られた。 今週は定時に帰って行った高坂のデスクを遠目から眺めた住吉は、表情を変えることなく黙々とキーボードを叩く。 日々の色が褪せても、一瞬で恋が消えてなくなる事は無い。 木曜日の夜の予定が無くなっても、別段趣味が無ければ行く場所も無い。その上、以前のようにふらふらと街に出て遊ぶような気は起こらない。その事自体が自分らしくないとは思うものの、こうして仕事で時間を埋めて忘れようとすることも自分には似合っていない気がしている。 今まで占めていた箇所は、何をどうすれば埋められるのか。気が付くとそんなことばかりを考えているような日々が続いていた。 「住吉じゃねえか」 背後から声を掛けられた。いい加減疲れてきた目の下を指先で擦りつつ振り返ると、同期の男が意外そうな目をして立っていた。 「谷地」 外耳に軽く掛かった黒髪を揺らし、谷地が住吉の手元を覗き込む。住吉よりも細身の体に纏ったシャツのボタンも、その首に下がるネクタイも緩めているが、少し長めの前髪だけは丁寧にセットされていた。二重ではあるがやや釣り目気味の双眸の端が、何が嬉しいのか軽く下がっている。 「珍しいな。残業とか」 「…別に、」 別に今終わらせなくてはならない仕事を抱えているわけではない。 住吉の無愛想はとっくに知っていると言いたげに笑みを深めた谷地が、再びキーボードに触れた住吉の手の側に掌を載せた。斜め上から顔を覗き込む。 「今日は高坂さんと帰んねえんだ?」 「ーー…、」 ぱち、と住吉の目が瞬いた。間を置き、睨み上げる目に谷地は動じない。反応は全て予測していたような素振りで首を傾げて見せた。 「ほとんど毎週一緒に帰ってたろ。高坂さんと」 住吉はぴたりと口を噤む。元から自分のことを吹聴したがる男ではない。谷地の言葉は耳に入っていないかのように手を動かし始めた。ディスプレイに向けられた目は色を変えない。 「別れたの?高坂さんと」 「ーー…、何言ってんだ」 ようやく住吉の目がまた谷地へと向けられた。微かに怒気の孕む目に谷地がそっと目を細める。獲物を注視し、いつ飛び掛かろうかと距離を測っている猫に似ていた。 「お前さ、図星刺されるとキレるのなんとかしろよ」 「横からごちゃごちゃうるせえな。帰れよ。……なんの妄想だよ。馬鹿じゃねえの。別れるも何も」 図星を刺され、かわそうとする度に饒舌になる。高坂の前では決して見せなかった口調は同期の前ではぽんぽんと出てくる。次第に眉間に寄っていく皺に谷地が鼻から息を抜く。 図星を刺したつもりだろうが、谷地の見解はハズレだ。別れるも何もーー付き合ってもいない。 自分と高坂はなんの関係もなかった。 この数週間、幾度となく取り出しては確かめた形を辿る。胸が、音を立てるようだった。 「…あの人嫁いるだろ。帰れ」 「じゃあさ、また俺と付き合おうぜ」 この男こそ饒舌だ。だが住吉とは違って谷地は普段から弁が立つ。同期とはいえ今は別部署にいる谷地は営業に向いている。明後日の方を考える振りをした住吉は小さく目を見開いた後、ようやく苦笑するように頬を歪めてみせた。 「……お前で懲りたんだけど。社内の奴とは付き合わない」 何年前の話を掘り起こしてるんだ、と呆れるもそう年数は経っていないだろう。社会人になって初めてまともに付き合った男が社内の人間であったことは大いに勉強になった。何をするにもこそこそしなければならないことがまず面倒になったのは若さ故だろう。高坂とはずっとこそこそしていたというのに。 「高坂さんとは付き合ってたのに?」 「っ、だから、」 しつこい、とキーボードから離した手をデスクに付く。噛み付くような視線を向ける住吉に、谷地は一種恍惚とした眼差しをして見つめる。先に惚れた方が負けとはよく言ったものだ。谷地は、ずっと負け続けているらしい。その執着心と深く重たい情に住吉は内心で呆れていた。 「じゃあセフレ」 「……」 「付き合うとか無しに。俺もお前の事もう別に好きじゃねえし。けど最近男日照りだし?セフレ。良いじゃん。好きだろ住吉。そういう軽いの」 軽い提案は軽い口調で住吉の上から降ってくる。 空いた木曜日の夜。 空いた隙間。 忘れられない、感触。 その全てを埋めて、忘れるには。 ほんの一時でも構わない。 きっと代わりが必要だ。 「……良いよ。セフレなら」 谷地がまだ自分に惚れているなどとはとんだ自意識過剰だろう。別れてもう数年が経っている。いつまでも元彼を引き摺るような男ではない。誰かに触れていつかは忘れるのなら、セフレという手軽さは酷く魅力的なものに思えた。 なんにせよ、掌に染み付いた感触を消さなければいけない。できる限り、早く。 「じゃあさ、行こうぜ」 マウスを手にし、パソコンの電源を落とす為の作業に掛かる。その住吉の動作を見守っていた谷地が先に出ると背を向ける。 彼の顔がこの部屋に入ってきた時よりも一層明るく輝いていることに、住吉は気付いていない。

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