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第79話

 冬の間はどんよりとした黒か、薄く灰色がかったような鈍い青色を見せていた海が季節が変わるにつれて明るい色へと変化している。  その荒れた青色にちらちらと落ちる雪もすっかり見られなくなった頃、誰もが多忙を極める年度末が無事に終わった。  高坂にとっては、初めて迎える支社での年度末だったが、本社よりも幾分か仕事の量が少ないだけで、三月の末が忙しいことには変わりがない。時間に流され、忙殺されるような日々の中、社屋の近くにある港の海を何も考えずにぼんやりと眺めることが高坂の日課となっていた。  先週の末に年度内の業務が終わり、猶予のような、束の間の休息のような週末の休みを経て月と年度が変わった。四月の海はまだ波が高いが、ようやく春めき始めた朝の光を浴びて湖面が小さく輝いている。  元々出勤の時間はやや早めにすることを心掛けている高坂が、始業前に煙草を一服着けるという習慣は本社にいる頃には無かったものだ。この街では全てが緩やかに流れているようで、都会では最早は当たり前になっている喫煙所の減少という風潮も、この地方都市にはまだ届いていないらしい。  社屋に寄り添うように設置された灰皿に吸い終えた煙草を落とし、上着に着いた臭いをぱたぱたと払いながら建物の中へと入る。ワンフロアしかない平屋建ての小さな会社ではあるが、本社の時と同様に個人用のロッカーやデスクは備わっていた。まだ時間はあるかと腕の時計を見ながらロッカールームに向かう道すがら、廊下の端の方で上司の声を聴いた。穏やかな声音で誰かに話しかけている声を聞くともなく耳に入れる。どうやら社内の案内をしているらしい。  そういえば人員が増えるといっていたか。  うちは少数精鋭だからね、と茶目っ気を込めていた上司だったが、さすがに三月の多忙さには参ったらしい。人を回すように本部に言うけど、こんな田舎に誰か来てくれるかな、と半分諦めたように言っていたが、どうやらそれは叶ったのか。  一方で、高坂の配置は年度が変わってもこの支社の所属のままだった。  上司などは高坂が本部に戻りたがるのではないかと心配していたようだが、高坂本人にその気は毛頭なかった。配置転換から一年も経っていない上に、本部に戻りたいかと聞かれたところで、別段それを望んではいない。本部の中に自分の噂話や醜聞の残滓があるのか否かという点が気になる訳では無い。物理的に離れていれば、噂の類にもここには届いてはこない。そしてなにより、こののんびりとした地方の空気は自分の肌に合っているような気がしている。  本部に戻ったところで出世の道はないだろう。給料の額を頭に置きながら出世し、稼いで養う必要がある家族はもういない。それならば、流されたとはいえ自分が気に入った場所で穏やかに過ごす方が良いに決まっている。  ひとりが寂しくないかと言われれば嘘になる。  今までずっと家族と暮らし───住吉と、顔を合わせてきたのだから、それが欠けた暮らしは色彩が色褪せたような感覚があった。  住吉からは、時々連絡が来る。  相変わらず口下手で、電話は会話が長く続かないし、メッセージの類は素っ気ない短文が多い。それでも、二人の間にしかわからない空気の中で関係は続けられることが出来ている。住吉の方も随分多忙にしているらしく、次に会うのは五月の連休辺りになるだろうか。  それまでの辛抱だ。思いつつ、手にしたスマートフォンの画面を開く。朝、住吉に世間話程度の短いメッセージを送ったが返信はない。週末を挟んだとはいえ、忙しかったのは彼も同じだろう。寝坊などしていなければ良いが。スマートフォンを尻ポケットに収めながらフロアへと足を踏み入れた。 「ああ。来たきた。おはよう高坂くん」  給湯室の前に立て掛けられたパーテーションから上司が顔を覗かせた。おはようございます、自分のデスクに辿り着く前に声を掛けられた高坂がぺこりと頭を下げるも、上司はまたパーテーションの中へと引っ込んでしまった。 「良かった。待ってたんだよ。今日から新しい人が来たからね。高坂くん、色々教えてあげてね」 「はあ」  思わず苦笑が込み上げた。高坂とて、この支社に配属されてから一年も経っていない。四月に入ってくるというくらいだから新入社員だろうか。もし新卒の人間であれば果たして自分と話は合うだろうかと内心で案じつつパーテーションへと歩みを寄せる。 「ほら君も。しばらくはこの高坂くんに着いて貰うからね」 「はい、」  ───よく、知った声だ。  瞬間的に思っては立ち尽くす。まさか、と顔を向ける高坂の前に、パーテーションの影から青年が一人現れた。 「───…」  彼は本部から来たんだよ。上司による紹介を、信じられない思いで聞いた。目の前に立つ青年は、あたかも新入社員のように背筋を伸ばし、まっすぐに高坂の目を見上げた後、少し気恥しそうな、少し拗ねたような───いつも高坂が見つめていた色の目をしてから、深く頭を下げた。 「本部から来ました。住吉です。…よろしく、お願いします」 「…ああ…、」  声はあくまでも平坦だった。それを受けて零れた高坂の息には驚きが滲んでいる。顔を上げた青年、住吉が高坂の目を覗き、目配せひとつすることなく、それでも静かに、一瞬だけ、照れ臭そうな目をして見せた。 「───こちらこそ、」  既視感を覚える。  自分は以前も、遠い春の日にこうしてこの男と対峙したことがある。  だが、その住吉が纏う空気は記憶の中のそれとは違う。  積み重なったこれまでを携えた青年の目が少し緊張していたが、高坂が口を開くと微かな安堵の色を覗かせた。その様子が実に彼らしく───自分がよく知る、自分が好きだと思っていた住吉が見せる表情で、高坂の頬が自然と綻んだ。 「こちらこそよろしくね。住吉、くん、」  その名を口にした刹那、ふわ、と胸に宿る温かさは、さっき外で感じた春の日と風の匂いがした。                 (Fin.)

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