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第78話

まだ冷たい風がビルの間を吹き抜けている。 朝の寒さから逃れるように身を縮めつつ出勤してきた住吉を始めに見かけたのは那月だった。彼女もまた今出社してきたのだろう。厚手のコートを羽織り、バッグを手にした姿でエレベーターの前に立っている。 「おはよ。早いじゃん」 「はよ…。やること、あるから」 始業時間にはまだ早い。エントランスの人気も疎らだった。噂は本当だったのか。那月が一人感心するように頷いた。 同期ではあるものの、所属する部署が違う那月には住吉が手に抱えている仕事の内容はわからない。ただ、何事にもドライな住吉と違って同期達との関わりを維持している那月の耳には噂は入ってくる。 住吉が随分真面目に仕事に励んでいる。 「忙しいんだ?」 「まあ…、色々、」 まだ眠気が残っているのか、眉間を揉みながら住吉が答える。 住吉が不真面目だった訳ではない。 ただ昔から、仕事は最低限にこなし、早出も残業も出来る限り回避し、必要な分だけ稼ぎ、周りの不興を買わない程度に立ち振る舞っていた節がある。 その住吉が仕事に邁進しているというのは那月にも、周囲の人間にも不思議なことだった。 やってきたエレベーターに肩を並べて乗り込む。 回数ボタンを押す男を見上げた那月の中に、不意に昔この男の事が好きだった記憶が蘇った。 「何階だっけ」 「5階、」 振り返って問い掛けられる。相変わらず愛想もへったくれも無い顔をしている。 この無愛想な男に惹かれたのはもう淡い記憶だ。 この男が自分に───他人に興味が無いのだと気が付いた瞬間にそれは深い場所に葬った。傷にならない、少女のような思い出である。 以前より少し逞しくなったような横顔を見上げて眩しげに目を細めた。 「噂は本当かもね、」 「噂…?て何、」 動き始めた回数表示を眺めながら、住吉に聞かせるでもなく呟いた。住吉がひょいと那月を見やる。住吉が降りるフロアは那月が降りる階の1つ上にあった。 「住吉ねえ、次の人事で昇格あるんじゃないかって」 「…え、」 「見てる人はちゃんと見てるってことでしょ」 高速のエスカレーターは猶予や余韻を残さず目的のフロアに辿り着く。降りる間際、同期の脇腹を小突くようにして叩く那月に、住吉が眉を寄せる。おめでと、気の早い一言を残した那月を引き止めようとした住吉の前で無情にもエレベーターの扉が閉まった。 そっちじゃない。 エレベーターの中で那月と別れた住吉は足早に自分の部署の自分のデスクに向かう。ルーティンとしてパソコンを立ち上げるスイッチを押してからロッカーへと向かい、コートやマフラーを箱へと収め、その足で部長を探した。 高坂と再会して以降、住吉はひたすら働いた。 それは以前───半年以上前に高坂と別れた後に隙間を埋めるように、心を殺すようにして働いていた時とは違う。 高坂と実に半年ぶりに夜を共にした次の日の朝に抱いた決意と希望を叶える為にはまず誰にも文句を言わせないように無心に働くことしか出来ないと思った。 裏表なく働くことで必ず評価は付く。それだけを信じて自分の場所で自分の役割を果たし続けた。 評価が欲しくて働いたことはなかった。出世など、微塵も興味がなかった。 那月が口にした「噂」は、例え噂の段階であっても自分が間違っていなかったことを裏付けるものだ。 だが、目指したものは那月が口にした「それ」ではない。 主任補佐、という曖昧なポストは高坂の仕事の引き続きが終わった今はほとんど返上されている。 だが、そのポストのひとつ上は自ずと予想がついた。 そこはかつてあの男が座っていた場所だ。 自分は、そこに座りたいわけではない。 自分はあの男と同じ位置に立ちたいわけではない。 自分は───。 那月から聴いた噂話が本当ならば、早いうちに自分の希望を伝えなければならないだろう。 目的の人間を探す住吉の視界に、廊下の端の手洗い場から出てくる男が入り込んだ。部長だ、と認識する住吉の足がまた速くなる。この上司も朝は早い。幸いを逃さぬよう、急いで歩み寄った。 「部長。おはようございます」 「やあ。住吉くん。早いね」 住吉の姿に気付いた男が軽く手を挙げた。年齢よりも老けて見えるこの男は人に安心感を与える笑顔を住吉に向けて距離を縮めてきた。少し上がってしまった息を整えつつ対峙する住吉に視線が合わされた。 「あの、」 「ちょうどよかった。話があったんだよ。住吉くん、次の春の───」 「あの、部長、」 人の良さそうな顔をした部長が口を開き始め、内心で慌てた。最後まで聞いてはいけない。咄嗟に、語尾に被せるようにして声を発する。そんな住吉に怒るでもなく、部長が促すような目をした。 「すみません。あの、俺も話があって、」 「……?」 真剣な目をした部下に上司が目を瞬かせる。 呼吸を整え、姿勢を正した住吉は、ずっと秘めていたその希望をはっきりと口にする。住吉の言葉を聞いて驚き、そして僅かに落胆の色を見せる上司の目を見据えた後、最後に深く、頭を下げた。 「よろしく、お願いします」

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