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第1話
俺は先生を見ると胸がドキドキする。
はっきり言って、これは恋だ。
先生を盗み見る。先生は赤ペンの後ろをこめかみに軽くあてて、答案を眺めていた。薄っすらと開いた唇や、シャツから見える鎖骨がたまらなくセクシーで、雑念が押し寄せてくるのを止められなかった。
「もしかして、もう終わっちゃった?」
「あっ、えっとっ……」
先生が採点の手を止めて、俺のノートを覗き込んだ。
個別指導用の個室は、2畳あるかないかの狭い空間で、丸テーブルが1つに椅子が2つあるだけだ。ホワイトボードは壁に取り付けられていて、その前に先生が座り、隣に俺が座っていた。
ただでさえ近い距離が、より縮まる。先生のサラサラした黒髪が香り、くらっとした。
「なんだ、全然終わってないじゃん」
先生が顔を上げて、頬を膨らませる。
「何を考えてたの? それとも、難しかった?」
先生に見惚れていたなんて言えない。俺は慌てて誤魔化した。
「いえ、なんかちょっと集中力が切れちゃったみたいで……すみません」
「じゃあ、ちょっと休憩しようか」
「はい」
「僕、飲み物とってくるね」
そう言って先生がセルフのお茶を取りに行くと、テーブルの上のスマホが震えた。見る気はなかったのに見えてしまった画面には、翼ちゃんと表示されている。胸がチクリと痛んだ。
先生は、同じ大学に彼女がいる。俺は男である以上、何をどう頑張ったって先生の恋人候補にすらなれない。その事実が苦しかった。
もし、俺か先生のどちらかが女性として生まれていたなら、少しは可能性があったのかな……。
「おまたせ、緑茶でいいよね?」
「はい、ありがとうございます」
先生から紙コップを受け取り、飲みながら窓の外を眺めた。
数日前、ニュースで梅雨入りしたと言っていたけれど、今日まで実感がなかった。だから、やっと梅雨らしくなってきた天気に、少しだけワクワクしていた。
俺は昔から、雨音が好きだった。
「雨、強くなってきてますね」
先生はドアにもたれて誰か(まぁ、翼ちゃんだろうけど)にメールを送ると、スマホをポケットにしまいながら窓際に歩み寄った。
「本当だ、結構降ってるね」
俺も立ち上がり、先生の隣に並ぶ。先生を見下ろすと、2人きりなんだと改めて実感した。
触れることも、愛を囁くこともないけれど……どんなカタチであれ、塾で過ごすこの時間だけは、先生は俺だけのものだった。
「そろそろ梅雨なんですかねぇ」
「だね。宗介くん、確かちょっと家が遠かったよね? 大丈夫?」
「傘あるんで、大丈夫ですよ」
「この雨じゃ、多分傘あっても意味ないでしょ。僕、今日車だから送ろうか?」
突然、先生が夢のような提案をしてきた!
「えっ、いいんですか!?」
「んー、じゃあ、この問題を全問正解したら送ってあげる」
先生が問題集の一部を人差し指でトントンと叩く。全15問、俺は全力で頑張って、見事に助手席をゲットした。
***
「すみません」
「気にしないで。それより、塾長には内緒にしてね」
「はい」
地下にある駐車場へ着くと、迅速にミニクーパーへ乗り込んだ。
「先生の車が赤って、意外でした」
「何故か赤だけ安かったんだよね」
先生は肩をすくめて笑うと、エンジンをかけた。
先生の細く長い指が、俺の住所をナビに入力していく。先生の車にマーキングしたような感覚に胸を熱くしながら、それを眺めていた。
「俺のせいで遅くなっちゃって……翼ちゃんとの予定とかありませんでした?」
「一緒に住んでるし、連絡してあるから大丈夫だよ」
車がゆっくりと走りだす。
いつの間にか同棲へとステップアップしていた事実にダメージをくらいつつ、なるべく明るく返事をした。
「大学生って大人だなぁ~。翼ちゃんのご両親に挨拶とかしたんですか?」
「翼が引っ越してきた日に、一緒に食事したよ」
「K大生で親公認の彼女と同棲……受験生には羨ましすぎる話ですね」
「なら、充実したキャンパスライフのために、もっと頑張らなくちゃね」
先生がクスクスと笑う。
「僕と一緒にね」
そして、そう付け足した。
受験が終わったら、俺は先生と疎遠になるのだろうか? 今のままじゃ厳しいのは分かってる。でも、なんとかして先生と同じ大学に受かりたいと思った。恋人じゃなくていいから、もっともっと先生のそばに居たい。
「うわっ!」
と、突然、先生の声と同時にボコッと鈍い音がした。状況を把握できないまま、急ブレーキに目を閉じる。
やがでゆっくりと目を開くと、ボンネットの上に、青白く光るウサギが横たわっていた。
「ぬいぐるみ……ですかね?」
「さっきの歩道橋から誰かが落としたのかな?」
振り返る。雨で視界がはっきりせず、人影は確認できなかった。
「どうします?」
目の前のウサギを凝視する。ふわふわな毛は綺麗に水をはじき、その光り方は幻想的で、妙に高級感漂うぬいぐるみだった。
「ちょっと歩道橋を見てくるよ」
「あ、じゃあ俺が見てきます」
先生がシートベルトを外すのを止めて、俺は傘を掴んだ。
「待ってっ」
が、外に出ようとすると、先生は咄嗟に俺の二の腕を掴んだ。思わず心臓が跳ねる。
「なっ、ど、どうしたんですか?」
「これ、生きてるかも」
「へ?」
前を見ると、青白く光るウサギが、なんとフロントガラスに顔をくっつけて、こちらを見ていた。
「光るウサギなんているんですか?」
「悪戯で発光塗料を塗られちゃったのかも」
俺と先生は、2人して顔をウサギに近づけた。どう見ても生きている、本物のウサギだった。そのウサギが、後ろ足をダンッっと踏み鳴らした瞬間、なんと光が増した。
目を開けていられないほどの眩しさになり、俺は両手で顔を覆った。なのに、それでも視界が白く感じるほどの激しい光だった。
どれくらい経ったかは分からない。しばらくしてその光が収まった時、俺は恐る恐る目を開いた。
何故か目の前にはハンドルが――。
「っ……」
声のする方、助手席を見ると、そこには俺が座っていた。
***
「あれ? え、あれ?」
俺は激しく混乱している。そして目の前の俺も、口をぽかんと開けて硬直していた。
「なんで俺が2人?」
俺は自分で自分を抱きしめ……ん?
激しい違和感を覚えた。妙に身体の幅が狭くなったというかなんというか、自分の身体じゃないみたいな感触だ。
その違和感を確認するため、バックミラーを自分に向ける。……そこには先生が映っていた。
「あのっ……先生、もしかして俺たち……」
「……入れ替わってるね」
どこかで観た映画のような台詞を吐きながら、俺たちはお互いの身体に触れ、夢か現実かを探った。
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