1 / 4

第1話

 俺は先生を見ると胸がドキドキする。  はっきり言って、これは恋だ。  先生を盗み見る。先生は赤ペンの後ろをこめかみに軽くあてて、答案を眺めていた。薄っすらと開いた唇や、シャツから見える鎖骨がたまらなくセクシーで、雑念が押し寄せてくるのを止められなかった。 「もしかして、もう終わっちゃった?」 「あっ、えっとっ……」  先生が採点の手を止めて、俺のノートを覗き込んだ。  個別指導用の個室は、2畳あるかないかの狭い空間で、丸テーブルが1つに椅子が2つあるだけだ。ホワイトボードは壁に取り付けられていて、その前に先生が座り、隣に俺が座っていた。  ただでさえ近い距離が、より縮まる。先生のサラサラした黒髪が香り、くらっとした。 「なんだ、全然終わってないじゃん」  先生が顔を上げて、頬を膨らませる。 「何を考えてたの? それとも、難しかった?」  先生に見惚れていたなんて言えない。俺は慌てて誤魔化した。 「いえ、なんかちょっと集中力が切れちゃったみたいで……すみません」 「じゃあ、ちょっと休憩しようか」 「はい」 「僕、飲み物とってくるね」  そう言って先生がセルフのお茶を取りに行くと、テーブルの上のスマホが震えた。見る気はなかったのに見えてしまった画面には、翼ちゃんと表示されている。胸がチクリと痛んだ。  先生は、同じ大学に彼女がいる。俺は男である以上、何をどう頑張ったって先生の恋人候補にすらなれない。その事実が苦しかった。  もし、俺か先生のどちらかが女性として生まれていたなら、少しは可能性があったのかな……。 「おまたせ、緑茶でいいよね?」 「はい、ありがとうございます」  先生から紙コップを受け取り、飲みながら窓の外を眺めた。  数日前、ニュースで梅雨入りしたと言っていたけれど、今日まで実感がなかった。だから、やっと梅雨らしくなってきた天気に、少しだけワクワクしていた。  俺は昔から、雨音が好きだった。 「雨、強くなってきてますね」  先生はドアにもたれて誰か(まぁ、翼ちゃんだろうけど)にメールを送ると、スマホをポケットにしまいながら窓際に歩み寄った。 「本当だ、結構降ってるね」  俺も立ち上がり、先生の隣に並ぶ。先生を見下ろすと、2人きりなんだと改めて実感した。  触れることも、愛を囁くこともないけれど……どんなカタチであれ、塾で過ごすこの時間だけは、先生は俺だけのものだった。 「そろそろ梅雨なんですかねぇ」 「だね。宗介くん、確かちょっと家が遠かったよね? 大丈夫?」 「傘あるんで、大丈夫ですよ」 「この雨じゃ、多分傘あっても意味ないでしょ。僕、今日車だから送ろうか?」  突然、先生が夢のような提案をしてきた! 「えっ、いいんですか!?」 「んー、じゃあ、この問題を全問正解したら送ってあげる」  先生が問題集の一部を人差し指でトントンと叩く。全15問、俺は全力で頑張って、見事に助手席をゲットした。 *** 「すみません」 「気にしないで。それより、塾長には内緒にしてね」 「はい」  地下にある駐車場へ着くと、迅速にミニクーパーへ乗り込んだ。 「先生の車が赤って、意外でした」 「何故か赤だけ安かったんだよね」  先生は肩をすくめて笑うと、エンジンをかけた。  先生の細く長い指が、俺の住所をナビに入力していく。先生の車にマーキングしたような感覚に胸を熱くしながら、それを眺めていた。 「俺のせいで遅くなっちゃって……翼ちゃんとの予定とかありませんでした?」 「一緒に住んでるし、連絡してあるから大丈夫だよ」  車がゆっくりと走りだす。  いつの間にか同棲へとステップアップしていた事実にダメージをくらいつつ、なるべく明るく返事をした。 「大学生って大人だなぁ~。翼ちゃんのご両親に挨拶とかしたんですか?」 「翼が引っ越してきた日に、一緒に食事したよ」 「K大生で親公認の彼女と同棲……受験生には羨ましすぎる話ですね」 「なら、充実したキャンパスライフのために、もっと頑張らなくちゃね」  先生がクスクスと笑う。 「僕と一緒にね」  そして、そう付け足した。  受験が終わったら、俺は先生と疎遠になるのだろうか? 今のままじゃ厳しいのは分かってる。でも、なんとかして先生と同じ大学に受かりたいと思った。恋人じゃなくていいから、もっともっと先生のそばに居たい。 「うわっ!」  と、突然、先生の声と同時にボコッと鈍い音がした。状況を把握できないまま、急ブレーキに目を閉じる。  やがでゆっくりと目を開くと、ボンネットの上に、青白く光るウサギが横たわっていた。 「ぬいぐるみ……ですかね?」 「さっきの歩道橋から誰かが落としたのかな?」  振り返る。雨で視界がはっきりせず、人影は確認できなかった。 「どうします?」  目の前のウサギを凝視する。ふわふわな毛は綺麗に水をはじき、その光り方は幻想的で、妙に高級感漂うぬいぐるみだった。 「ちょっと歩道橋を見てくるよ」 「あ、じゃあ俺が見てきます」  先生がシートベルトを外すのを止めて、俺は傘を掴んだ。 「待ってっ」  が、外に出ようとすると、先生は咄嗟に俺の二の腕を掴んだ。思わず心臓が跳ねる。 「なっ、ど、どうしたんですか?」 「これ、生きてるかも」 「へ?」  前を見ると、青白く光るウサギが、なんとフロントガラスに顔をくっつけて、こちらを見ていた。 「光るウサギなんているんですか?」 「悪戯で発光塗料を塗られちゃったのかも」  俺と先生は、2人して顔をウサギに近づけた。どう見ても生きている、本物のウサギだった。そのウサギが、後ろ足をダンッっと踏み鳴らした瞬間、なんと光が増した。  目を開けていられないほどの眩しさになり、俺は両手で顔を覆った。なのに、それでも視界が白く感じるほどの激しい光だった。  どれくらい経ったかは分からない。しばらくしてその光が収まった時、俺は恐る恐る目を開いた。  何故か目の前にはハンドルが――。 「っ……」 声のする方、助手席を見ると、そこには俺が座っていた。 *** 「あれ? え、あれ?」  俺は激しく混乱している。そして目の前の俺も、口をぽかんと開けて硬直していた。 「なんで俺が2人?」  俺は自分で自分を抱きしめ……ん?  激しい違和感を覚えた。妙に身体の幅が狭くなったというかなんというか、自分の身体じゃないみたいな感触だ。    その違和感を確認するため、バックミラーを自分に向ける。……そこには先生が映っていた。 「あのっ……先生、もしかして俺たち……」 「……入れ替わってるね」  どこかで観た映画のような台詞を吐きながら、俺たちはお互いの身体に触れ、夢か現実かを探った。

ともだちにシェアしよう!