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第1話 にーちゃんができた日

 世の中には良い事と同じくらいの、悪い事が有って、たぶん、それは交互ぐらいの間隔で起きてる。平均への回帰、って専門用語では言うらしい。例えば、良くも悪くもない普通の状態を「平均」にするなら、良い事が有っても、悪い事が有っても、それは普通から遠のいてる。だから、普通に戻ろうとする。そういう風に世の中は出来ている、らしい。  だから、良い事が起これば悪い事が起きるだろうし、悪い事が起きれば良い事が起きる。意味とは少しズレてしまうけど、塞翁が馬、っていうことわざも有るぐらいで、皆昔からちょっと実感してたんじゃないかな。でもさ、それって平均に戻ろうとしてるだけだから、良い事が起きなかったってだけで、悪い事とは限らないんだと思う。  なんだろ、上手く言えないけど、つまり普通の近くのものを、どれだけちゃんと「普通」だと思えるか、じゃないかと思うんだ。それで人生のハッピー! って感じが、だいぶ変わって来るんじゃないかな。  ほら、幸せだなあ! って時には小さな幸せって見えないから。そういうのも全部、あ、今こんな幸せが起こってる、って見えると、きっとずっとずっと幸せは続くんじゃないかな。逆にさ、不幸のどん底の時なんて、ちょっといい事有ったって見えなかったりする。だから、平均に近い、なんでもないような事が、ちゃんと見える、っていうのは、きっととても大切な事なんじゃないかな、と思うんだ。  例えば、おれの父さんは、小さい頃に病気で死んでしまった。らしい。それはおれにとって、すごく悪い事のはずだ。でもおれは、まだ小さかったから、父さんの事を覚えてない。だから、周りから見ておれは確かに不幸な子供だったんだろうけど、おれは何にも判ってなかったから、不幸じゃなかった。  まあでも母さんは随分塞ぎ込んでたから、子供心に、お母さんはいつも悲しそうだなあぐらいは思ってた。優しくて、いつも頑張ってて、いつも悲しそうだった。  それとは別に、父さんは外国人だったらしくて。おれは生まれた時から髪は金色のフワフワした天然パーマで、瞳は空色で。やっぱり子供の頃って、そういう異質なものって、嫌なんだろうね、おれは近所でいじめられてて、だから正直その頃は、父さんの事、嫌いだったかもしれない。こんな姿に生まれたのは、父さんのせいだーって。  まあそんなだから当時のおれは、たぶんそういう意味じゃ不幸だったのかもね。だからちょっとした幸せも見えてなかった。まだ六才だったし。そういう理屈とかって判らなかったから。母さんも良く判らないけどいつも寂しそうだったし、おれだって見た目の事で毎日憂鬱だった。かたおや、とか、はーふ、とか言われてさ。だから前髪なんか目にかかるぐらい伸ばして、いつも俯いて過ごしてたんだ。  そんなある日、母さんが再婚相手を見つけられたのは、きっと母さんにとっては幸せな事だったと思うし、おれにとっては、新しくにーちゃんが出来たって事が、最高に幸せな事だった。  だってすごい事じゃない、にーちゃんが出来たんだよ。弟や妹が時々出来るっていうのは知ってた。でもにーちゃんが出来るなんて初耳だった。それがどういう事なのかもまだ判らないぐらい幼かったおれは、そりゃあ嬉しかったんだよ、新しい父さんも、すごく優しそうな人だったし。  ただおれは心配だったんだ。見た目の事でいじめられてたから、にーちゃんにも好かれないんじゃないかって。折角出来たにーちゃんに嫌われたらどうしようって思ったら、初めて会う時は本当に怖かったんだ。  初めてにーちゃんに会った日の事は、今でも鮮明に覚えてる。秋を迎えた近所のちょっとした公園は、落葉したイチョウの葉で一面黄金色に輝いて見えた。それを見に来た人も多かったから、まだ六歳のおれは、おれより大きな人を見ちゃ、あの人が新しいにーちゃんかな、この人かな、ってキョロキョロしながら、母さんの後ろに居た。でもそのうち退屈になって、イチョウの木の下に行って葉っぱを拾い集めてたんだ。  これはきれいだな、こっちはだめだな、なんて考えながら、綺麗なのを集めた。秋も深まって少し寒かったし、おれは子供用のふかふかのコートを着て、髪を隠す為に赤いニット帽なんて被っててさ、逆に目立ってた気はするんだ、今にしてみれば。  そしたら隣に男の子が来た。サラサラの黒髪の、とっても美人な感じで、あったかそうな厚手の紺のカーデガンを羽織ってて、真面目そうなお兄さんだった。  当時にーちゃんは一二才だった。 「イチョウの葉っぱ、集めてるの?」  聞かれたけど、おれはなんだかドキドキしてしまって、うん、とそっけなく頷いただけだった。だっていつもいじめられてたから、声をかけられた時は嫌な事を言われるんだと思ってたんだ。 「きれいだね」  にーちゃんは物静かで、優しく微笑んでくれて、それでおれは、この人はいじめてこないかもしれない、と思った。それはとても嬉しい。でも当時のおれはそういう感情をどう表現していいかも判らなかった、それぐらい周りは敵ばっかりだと思ってたんだ。だけどどうにかして、嬉しいのを伝えたくて、それで咄嗟に、イチョウの葉っぱをにーちゃんに差し出したんだ。 「僕にくれるの?」  にーちゃんはちょっと驚いたみたいだけど、「ありがとう」って嬉しそうに受け取ってくれた。なんだかそれが照れ臭くて、おれはもじもじしてしまったんだ。 「僕はリクっていいます。君は?」 「……あきと……」 「アキト君、って言うんだね。僕は今日から君のお兄さんになります。仲良くしてくれるかな?」  にーちゃんは言い聞かせるように、ゆっくり丁寧にそう言った。おれは驚いて、こんなにーちゃんなら大歓迎だと思った。パアッと目を輝かせて、それからすぐにニット帽を押さえた。にーちゃんはこんな髪の弟で残念じゃないかって。 「どうしたの?」  にーちゃんは不思議そうに首を傾げたから、おれは怖かったけど、おずおずと答えた。 「みんなが、髪が変だって、だから、嫌じゃない? ぼくの髪」  言葉が足りないのは仕方ないと思う、おれはまだ小さかったし、それにいっぱいいっぱいだった。折角出来た素敵なにーちゃんに、嫌われたらどうしようって、怖くてたまらなかったんだ。  でもにーちゃんは「とっても綺麗な髪だね、僕は好きだな」と微笑んでくれて、おれはきょとんとしてしまった。そんな事を言われたのは初めてだ。いや、正確に言うと、母さんとかは一生懸命褒めてくれてたんだけど、やっぱりこういう年頃は、家族の言葉って届かないんだよね。だからその時初めて会ったにーちゃんにそう言ってもらえたのは、おれにとって衝撃的だったんだ。 「見せて?」  促されておずおずと帽子を脱ぐ。おれはこのふわふわの金髪が好きじゃなかった、でも「日の光でキラキラして、とっても綺麗だね、天使みたいだ」ってにーちゃんが言うから、おれもなんだか嬉しくなった。にーちゃんに気に入ってもらえるなら、この髪も悪くないって思えた。  だからおれの人生を変えたのは間違いなくにーちゃんだった。その日、優しい新しい父さんと、塞ぎ込まなくなった母さんと、素敵なにーちゃんに囲まれて、おれの人生は最高にハッピーになった。  そんなわけで、それからおれのハッピーレベルは下がるはずなんだけど、おれがお気楽というか、まだ理屈の判らない子供だったのもあって、結構長い間ハッピーデーが続いたんだ。  にーちゃんは優しくて穏やかで、おれが知りうる限り最高のにーちゃんだった。にーちゃんだからって威張ったりもしないし、おかしも分けてくれて、玩具も貸してくれるし、ジュースもこぼしたら拭いてくれて、転んだら撫でてくれて、泣きやむまで側に居てくれた。怖い夢を見てにーちゃんのベッドに飛び込んでも、大丈夫だよ、って言いながら背中をぽんぽんしてくれて、朝まで一緒に居てくれたんだ。  他にそんな優しいにーちゃんが居るなんて、聞いた事も無い。だから皆に自慢すると、サイコンとか、ツレゴとか、訳判んない事言うから、そりゃもう訳も判らないまま怒ったもんだよ。今なら意味も判るけど。  考えてみれば、にーちゃんはその時にはもう十二才だったから、どういう事が起きてたのか、判ってたんだと思う。でもにーちゃんはおれの目から見て、すんなり一緒の家族になってたんだ。それが結構難しい事なんだろうな、っていうのは、今なら判る。じゃなきゃ、再婚家族の絆が作られるまでのお話、とか、片方の子供が疎まれて、みたいなお話が、あんなに作られるわけがない。本当は簡単な事じゃないんだ。でも当時の俺はまだ全然そんな事情も知らなくて、気楽にハッピーを謳歌してた。  ただ時々気になる事は有った。にーちゃんはたまに、何も無いのに悲しそうな顔をしていた。公園で遊んでいる時、さっきまで笑ってくれてたのに、ふっと悲しそうにして、それで俺が不安になって、「にーちゃん」って呼んだら、また笑うんだ。子供心にその変化が気になって、おれはますます「にーちゃん、にーちゃん」するようになった。おれが構って構ってしてる間は、にーちゃんも笑ってくれたんだ。  だからおれはにーちゃんが笑ってくれるように、いい子にもしたし、時にはイタズラもしたし、おちゃらけてもみたし、甘えてもみた。にーちゃんは俺が何をしても優しく笑ってくれて、時々あんまり変な事するんじゃないって叱りもした。でもやっぱり、時々悲しい顔をするんだ。その寂しそうな横顔を見ると、力いっぱい抱きしめたくなる。  大丈夫だよ、おれがついてるよ、って言いたくなる。どうしてそんなに悲しそうなの? って聞きたくなる。不安になって抱きしめたつもりでも、おれは小さいから抱きついたみたいになって、アキトは甘えん坊だなって撫でられる。ほんとはにーちゃんを甘やかしてあげたいのに、おれの腕は短すぎて、にーちゃんを抱きしめられない。早く大きくなって、にーちゃんを抱きたいと思った。  ここまではまあ、涙ぐましい弟の努力なんだよね。おれもいつからそんな風になったのかハッキリは、いや、まあ、きっかけは有ったよ。中学の時の同級生に、お前のにーちゃん美人だよな、って言われたんだ。  美人、って言葉がすごくしっくりきた。にーちゃんは色白で線も細くて、ちょっと垂れ目で、当時一八歳だったのに男にしては小柄で、さらさらの黒髪はなんだかセクシーで、睫毛も長くて、爪も綺麗で指は細くて、ようするに、俺は無自覚だったけど、にーちゃんをそういう目で見ていたんだ。  笑ってほしい、おれの名前を呼んでほしい、ぎゅーっとしてあげたい。そんな気持ちのベクトルが、いつのまにか少しズレてしまっていたらしい。気付いたら、にーちゃんにキスしたい、抱きたい、おれだけのモノにしたい、ってなっちゃってたんだ。  でもおれにだって、その頃には大部分が判ってた。母さんと父さんは再婚した、元の父さんは病死してて、にーちゃんとは全く血の繋がってない他人で、そして男同士は結婚出来ない。全部判ってた。  だけど、にーちゃんにキスしたい。それがいわゆる変態的思考で、実際にやるのは変態行為で、そしてそんな事したら絶対にあの優しいにーちゃんでも怒るだろうし、そのまま嫌われると思った。頭では判ってたんだ。判ってた。  でも人間って止まれない時って、有ると思うんだよね。そういう空気になったら、そう、魔が差すって言葉も有るのは、皆そうだからだと思うんだ。言い訳にしかならないけど。

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