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第13話 にーちゃんとおれ
呻き声が聞こえて、ハッと目を覚ました。見ると、ソファベッドの隣で、布団を被ったにーちゃんが、身を捩りながら呻いてる。
「に、にーちゃん、大丈夫? お尻痛い?」
飛び起きて身体を布団の上から撫でてあげると、にーちゃんはまず「起しちゃったか、ごめん」と謝った。そんなの、どうでもいいのに。
「お尻はまだマシだよ。なんていうか、その、腰とか、脚とか……」
普段使わない筋肉とか使ったみたいで、ヤバイ。にーちゃんがそう言うもんだから、おれも慌てて腰のあたりを撫でてあげると、「うぅ~……」と辛そうな声を出した。
「にーちゃん、おれ、どうしたらいい? 何か出来る事ある? 湿布とかしたらいいかな?」
不安になって尋ねると、少ししてにーちゃんは、「湿布なら僕の部屋に有るから後で取ってくる、あと、お腹減った……」って呟いた。そういえばお昼のハンバーガーがレンジに入ったままだ。電気をつけて時計を見たら、もう二十時を過ぎていた。そりゃ、お腹も減るに決まってる。
「にーちゃん、ハンバーガー温めて来るね」
「……あ、アキト」
ソファベッドから出て行こうとすると、にーちゃんが引き止める。
「あの、そこの棚に、缶ビールが有るから、お隣に二本持って行ってくれるか……、ご心配かけましたって……その、悪いけど、僕、今ちょっと立てない……」
そう言えば七瀬さんには世話になったし、大体の事はバレてそうだ。傘も借りっぱなしだから返さないと。布団を出てとりあえず服を着てから、電子レンジをかけて、にーちゃんが指差した棚の奥から缶ビールを二本取り出す。近くに有ったビニール袋に入れてると、ハンバーガーは温まったみたいだった。二つともにーちゃんに渡して、傘とビールを持って七瀬さんの家へと向かった。
外は陽が落ちて寒い。寝巻で出るんじゃなかったと思いながら、隣のチャイムを鳴らすと、そう間を置かずに「ハァイ」と鈴音さんが出て来た。
「アラ、アキトちゃん。どうしたの?」
「あ、あの、すいません、七瀬さんは……」
「タツヤ? ちょっと待ってね、今呼んでくるから……あ、外寒いでしょ、玄関入って大丈夫よ」
鈴音さんがそう言うので、お言葉に甘えて玄関の中に入らせてもらった。にーちゃんの部屋と鏡映しみたいな構造になってるみたいだったけど、だいぶイメージが違う。白を基調とした木目の家具はピカピカに掃除されてて、花も何か所も飾ってあったし、レースの目隠しカーテンとか、なんというか、女の人が住んでるんだなあ、って感じがした。住んではないけど。
リビングにはでっかい観葉植物が置いてあって、二人掛けの革張りソファが二つ、ガラステーブルに向かって並べてある。その向こうに四十インチは有るんじゃないかと思うような大きなテレビが置かれてて、ニュースが流れてた。カーテンは花柄だし、アレ、ここって鈴音さんの家じゃなくて、七瀬さんの家だよな……? って一瞬考えたぐらいだった。
少ししたら、七瀬さんが奥から出てきた。暖かそうなスウェットに、上半身は裸で頭からタオルをかぶっていたから、風呂上りみたいで、間が悪かったなあと思う。それでも「悪いな、ちと筋トレしてシャワー浴びてたんだ。で、どした?」って気さくに声をかけてくれるから、本当に悪い人ではないんだなあと思った。
「あの、さっきはご心配とご迷惑かけました、これ……」
ビールと傘を差し出して、それから、普通傘は乾かしてから返すもんなんじゃ、と気付いて引っ込めそうになった。でも七瀬さんは「気ぃ遣わなくていいんだぜ」と笑っている。
「傘はどうせ俺が使って濡れてたしな。まあ、ありがたく受け取っておくわ。……アキト君、リクは今までずーっと自分の気持ちは知らないフリしてきた奴だろうから、あれでいてちと子供っぽいとこもあってな、まぁ、甘やかしてやんな。ホントはすごい甘えんぼなんだと思うから」
「あ、は、はい……」
「ま、仲良くするんだぜ。ここのアパートはちと古いが、妙に壁が厚いから心配はいらねえし」
七瀬さんはそう意味深な事を言って、ヒラヒラと手を振る。帰っていいよ、って事だろう。鈴音さんにも挨拶を、と思ったら、奥からパタパタやってきて、「はいどうぞ、お土産!」って可愛いラッピングのクッキーを渡された。これじゃ何をしにきたのか判らない。でも長居してもしかたないだろうから、すごすご家に帰った。
戻ると、にーちゃんはなんとか服を着たみたいだったけど、やっぱりソファベッドに横になってた。身体の負担は大きかったみたいだ。テーブルの上にはハンバーガーが一つ残っていたので、ありがたくもらって食べていると、玄関のチャイムが鳴った。にーちゃんはまだ出られそうになかったから、代わりに出てみると、ドアの外には知らない男の人が立っている。
短い黒髪で、黒ぶち眼鏡、背はおれよりちょっと高い。スラッとした細身で、人の良さそうな丸っこい目をしたお兄さんだ。スーツに革靴、アタッシュケースを持って行儀良く立っているから、たぶんサラリーマンだと思う。その人はおれを見て「あれっ」ってびっくりしたみたいに、一回家の表札を見てから、「リク先生は御在宅でしょうか!」と元気に尋ねてきた。
「リク、先生……?」
呼び方に首を傾げてると、「あ、あ!」ってにーちゃんが変な声を出しながら、ヨロヨロ玄関までやって来た。
「忘れてた、後で来るって、シロさん、書き置き残してたな……」
「あっ、リク先生! こんばんは! 先程はお留守のようでしたので、改めて来ましたが、原稿の進捗はいかがですか?」
「ちょ、あのっ、シロさん、ここでその話は……っ、あ、アキト、向こう行ってて……」
「アキトって、もしかしてあの、弟のアキト君ですか!? 初めまして、私はこういう者です!」
そう言ってサラリーマンが名刺を差し出してくる。受け取ってみると、出版社にお勤めの、霧島真白さん。だから、シロさんなのか。名刺には妙に可愛い花とかウサギとかが印刷されてて、もしかして、あのポストに入ってた可愛いメモはこの人のじゃないかと思った。どうも、って頭を下げると、シロさんは「いやぁ、かっこいい弟さんですね!」と笑顔を浮かべた。
「話は窺ってましたけど、本当に兄弟揃って美人さんで! しかもお兄さんは絵本の才能が本当にすごいし!」
「わ、ば、バカ!」
「え、絵本……?」
何の事か判らなくてきょとんとしてると、にーちゃんは「アキト部屋戻ってて!」って大慌てで言う。けど、シロさんは笑顔のままどんどん喋る。
「アレ、先生、弟さんに教えてないんですか? もったいない! 先生はうちの出版社から絵本を出されているんですよ! まぁなかなか、絵本っていうジャンルは大ヒットってわけにはいかないんですけど、挿絵が綺麗なのとお話が面白いので、密かに人気が、」
「わー、わー、わー! シロさん!」
にーちゃんが慌てふためいてシロさんの発言を止めようとしてるけど、シロさんは天然なのか意地悪なのか、ニコニコしたまま「先生、それで進捗のほうは!」ってやっぱり元気に聞いてる。
「もうすぐ! もうすぐ出来るから! とりあえず帰って! 次の日曜に打ち合わせに行くから! それ以上喋るな!」
にーちゃんはそう言ってシロさんを家から追い出した。玄関の外から「じゃあ日曜にお待ちしてまーす!」って大きな声がして、シロさんはそのまま帰ったみたいだ。にーちゃんは玄関ドアにもたれて、安心したように溜息を吐いてたけど、色々と手遅れだ。
「にーちゃん……絵本描いてるの?」
にーちゃんはびくっとして、一瞬おれを見て、それから小さな声で、「う、うん、まあ……」って呟いた。
「どんな絵本なの? おれも見てみたい」
にーちゃんの事をいっぱい知りたいって思ってたし、これはチャンスだと思って踏み込んでみると、にーちゃんは「り、リクは大人だから見なくていい」ってブンブン首を振る。都合の悪い時には大人扱いするなんて卑怯だ。
「どうして? おれ、にーちゃんのお仕事を知りたい。そういうトコから聞けって言ったの、にーちゃんじゃん」
「で、でも、ダメ、恥ずかしいから」
「どうしても、ダメ?」
ちょっと悲しげな感じで首を傾げたら、にーちゃんは「う」ってひるむ。本当ににーちゃんは、コレに弱い。それを判っててやってるおれは、やっぱりにーちゃんが言うような天使とは程遠いと思う。
「……わ、……わかったよ……でも、……わ、笑うなよ……」
にーちゃんはのろのろと腰をかばいながら、自分の部屋に入って行く。ドアは閉まらなかった。外で立ってると、「入って」って言われた。今まで厳重に鍵がかかってたにーちゃんの個室に、招かれたって事にビックリして、しばらくボケっとしてたけど、そそくさと中に入る。
やっと入れたにーちゃんの部屋は、散らかってるわけじゃないけど、物がいっぱいだった。ロフトベッドが置かれていて、ベッドの下側には服がいっぱいかけてある。壁にはスチール棚が置かれていて、そこにはたくさんの本や写真集や、画集が並べられてた。本は嫌いじゃないって言ってたけど、こんなに持ってるなら好きの部類なんじゃないかなと思う。
ベッドの奥には棚があって、そこにぬいぐるみがいくつも置かれてた。それはおれが小さい頃に、泣いてたにーちゃんにあげたおれの宝物の全てで、にーちゃんはどんだけおれの事が大事だったんだろうって改めて思った。棚の隣にはパソコンデスクが置かれていて、机の上には何かが描かれた紙が何枚も置かれてた。
にーちゃんはパソコンの電源を入れて、棚から「これ、完成品」って一冊の絵本を取って手渡してきた。表紙からしてほんわかした絵柄の可愛い犬が描かれていて、たぶん水彩ってやつなんだろう、色がにじんでて優しい感じがした。開いてみると、全部のページに柔らかい色合いの背景や、かわいいわんこが冒険してるのが描かれてて、「コレ全部にーちゃんが描いてるの?」って思わず聞いたら、そうだよって返ってきた。
「にーちゃん、すっごい絵、上手……」
「そうでもないよ……僕なんてまだまだだし、メルヘンすぎるし……」
「そんな事ないよ、すごく雰囲気あって、おれ好きだよ! ……あ、……にーちゃんこれ、もしかして……」
読み進めてたら、なんだかお話の内容に覚えが有る。そういえば、にーちゃんが子供の頃にしてくれたお伽噺が、こんな感じだった気がした。にーちゃんを見ると、照れくさそうに顔を反らしてパソコンに目をやる。
「……あ、アキトがあんまり続きを楽しみにするから、考えるのが楽しくなってきて……、折角なら絵も付けてあげたら喜ぶかなって思って……、でも、時間がかかって、その頃にはアキトは大きくなってて、もうそんな歳じゃなかったし、恥ずかしいから隠してたんだけど、その、ここに引っ越しして、少ししたぐらいに……」
にーちゃんは風邪を引いて熱を出してしまったらしい。一人でなんとかしようと、熱が有るのに買い物に出かけて、ヨロヨロ帰宅している途中、アパートの廊下で力尽きて座り込んでしまった。それをたまたま見つけた七瀬さんが、にーちゃんを部屋に運び入れてくれた。その頃は全然個室に物をしまったりしてなかった七瀬さんが、にーちゃんをソファベッドに寝かせて、それからテーブルの上に散らばってたイラストを見てしまったらしい。
それがきっかけで、今では話もするし、買い物も代わりにお互いやったりする仲になったらしいけど、同時ににーちゃんが今の生活スタイルに変わったみたいだ。
「……それで、個室にカギをかけるようにしたの?」
「だ、だって恥ずかしいじゃないか、見られるの」
「でも出版してるんでしょ?」
「な、七瀬さんが、あんまり褒めて、それで話を聞いた鈴音さんが、新人賞とかに出してみたらって言うから、試しに送ってみたら、シロさんから連絡が来て……でもぼくは恥ずかしいから知り合いには見られたくないんだ……」
おれとしては、こんなに綺麗な絵本が描けるならもうちょっと誇ってもいいと思うんだけど。にーちゃんは自信が無さ過ぎる。子供の頃から色々抑えてたせいもあるんだろうなあと思うけど、「でもおれはもっともっと見たいな」って言うと、にーちゃんはダメだとは言わなかった。
「……なんだか今日はにーちゃんの知らなかった事がいっぱい知れたなあ」
ちょっと嬉しくなって呟いたら、「今日は恥ずかしい事ばっかりだ」ってにーちゃんは溜息を吐く。
「でも、気持ちが軽くなったんじゃない? 隠し事って辛いでしょ?」
「……ん、まあ……」
「それに、おれ達気持ちが通じ合ってるって判って、幸せだよ、ね?」
「う、ん……」
にーちゃんは煮え切らない感じで返事をしたけど、少しして、「今、幸せかもしれない」って呟いたから、まあ今はそれでいいやと思った。ちょっとづつ、にーちゃんが素直になれたらいいなって思う。
「あ、……アキト、一つだけ、頼みが有る」
「? 何?」
「……名前で呼ぶのは、止めてほしい」
嫌なのかな、って思ったら、ドキドキしてまずいから、って言う。それってすごい事言ってるんだけど、にーちゃんは判ってるのかな。「でも恋人になったんだよ?」って言うと、「こ、こいびと」って呟いて、それからそれを否定するでもなく、「じゃあ、……ああいう時だけにしてくれ」ってボソボソ言った。それもすごい事言ってるんだけど、にーちゃん判ってるのかなホントに。
「判った! セックスする時だけにするね」
そういう事だよ、と念を押すように言ってみると、にーちゃんは「せ、」って顔を真っ赤にして、でもやっぱり、しばらくして、「う、ん」と頷いた。
にーちゃんは、最高に可愛いと思った。
「……あ、……それと、アキト……」
「まだ何かあるの!」
「……ここに、住む……?」
急にそんな事言うから、おれは一瞬何を言われてるのか判らなかった。少しして、「えっ」って声が出て、それから「いいの!?」って思わずちょっと変な声で言った。だってあんなに余所で暮らすように部屋探しとかしたのに。
「……元々、家を探してたのは、さっき言ってたのが理由だし……、アキトに一人暮らしさせるの不安だし……、二人で暮らした方が家賃とか食費とかも都合が良いし……、アキトさえ、良ければ、だけ、」
「住む! にーちゃんと一緒に暮らす! 大好きにーちゃん!」
にーちゃんの気が変わらないうちにと思って畳みかけると、にーちゃんは、「う、うん、じゃあ、転入届とか、大家さんに連絡とかしないとな……」ってちょっと嬉しそうに言った。おれも嬉しくって、にーちゃん大好き! ってにーちゃんを抱き締めると、にーちゃんは腰をかばって呻いたから、慌てて離れた。
世の中には良い事と同じくらいの、悪い事があって、たぶん、それは交互ぐらいの感覚で起きてる。だとしたらこんなに幸せなのがどっときたおれとにーちゃんには、もしかしたら悪い事が待ってるのかもしれない。でもそれも気持ちの持ちようでなんとかなるって思う。だってにーちゃんは今までずっとガマンしてたんだもん、これからその分幸せになってもらわなきゃ困る。幸せに感じられるように、おれもフォローしていきたい。
今おれは最高にハッピーだ、だってにーちゃんが笑ってくれるんだから。時々ちょっと困った顔はするけど、前みたいな悲しい顔はしなくなった、今はそれだけで、十分幸せだ。それで、これからにーちゃんともっともっと幸せになるんだ。小さな事を見失わないように気をつけながら。そう考えられる事がやっぱり幸せで、おれはにーちゃんと出会えて本当によかったと思ったし、こんな気持ちにさせてくれるにーちゃんのほうこそ、天使なんだと思った。
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