1 / 56

名前を呼んでよ

 初めて満員電車に乗ってわかったことが四つある。  一つは、自分の容姿は思っている以上に女性の目を惹きつけること。もし、視線が刃のように鋭利なものだとしたら、僕の頬は血だらけになっているだろう。  二つめ、ヘッドホンの音漏れが激しい。本人が思っている以上に漏れている。安物のヘッドホンだからなのか、大音量で音楽を聞きすぎて音量が低いと物足りなくなったのか、どちらもだろう。  三つめ、ほとんどの人がスマホを触っている。動画を見る人、スマホゲームをする人、ネットニュースを読む人と様々。僕の顔を隠し撮りしようとしている人さえいた。お好きにどうぞ、どこから撮られても美しい顔だと自負しているからね。  四つめ、スマホを触っている人が多いせいか、誰かが痴漢をされていようと、ほとんどの人が気づかない。もしくは気づいていようとなにも言わない。男が男に痴漢をされていようと、なにも。  褐色肌にやわらかな黒髪。つり上がった黒い瞳はびっしりとまつげで縁どられている。異国情緒漂うその男は、この電車に乗っている誰一人と敵わないだろう品のある色香を放っていた。だから、と納得してはいけないだろうが、痴漢に慣れてしまっているようだ。扉のほうに体を向け、じっと時が過ぎるのを待っている。ときおり厚い唇から「んっ……」ともれる声は、とびきり甘い。ああ、これは痴漢を勘違いさせる声だ。きっと明日もあさっても、この美しい人は気持ち悪い男に尻を撫で回されることを我慢し続ける。  痴漢されている男を助けたところで、感謝されないだろう。むしろ男が男に痴漢されていることを周囲には隠したいかもしれない。だからこそ、この男は痴漢行為に堪えている。これからも、このさきも、ずっと――僕には関係のないことだ。なんら利益にならない。普段ならばそう割り切っていたはずなのに。  駅に着いたことで人の流れが変わる。それに生じて、痴漢男の手を自然に払いのけ、男の間に割り込み、扉に手を突く。ひたすら時を過ぎるのを待つために扉のほうへ体を向けていた男がゆっくり僕のほうへ振り返った。  ああ、きれいな男だな。遠くから見ていても色気のある男だと思ったけれど、近くで見るといっそうに色気がある。ふわふわした黒髪から、うなじから、花のような香りがする。くたびれたサラリーマンがこの男の色香に酔うのも頷けてしまう。 「電車が混んでいて思わず扉に手を突いてしまいました。驚かせてすみません、大丈夫ですか?」  小さな声で目の前の男に言うと、男はゆるく首を縦にふる。「……大丈夫です、ありがとうございます」  僕が痴漢男だと勘違いされたらどうしようかと思ったけど、杞憂だったようだ。男は僕の顔を見て、心底安心したように穏やかに微笑んだ。  そういう顔、やめたほうがいいですよ。男を勘違いさせる。  そう言ってしまいたくなるほど、目の前の男は色っぽい。ガードは堅そうなのに、どこか隙がある。  男たちの間に割り込んだことで、僕の尻が撫で回されるなんてことはなく、痴漢男はものすごく気まずげにスマホをいじり始めた。最初からそうしていればいいのにと思いながら、自分が壁ドンに近い体勢をしていることに気づく。気づいたとして、学校の最寄り駅が来るまでこちらの扉は開かない。いまさらやめるわけにも行かず、最寄り駅に着くまでの間、窓の外を眺めるふりをしながら、僕の腕の中にいる男をときおり見つめた。  痴漢男よりよっぽど気まずげにしている男も、ときおり僕のほうを見てはにかむ。年上だろうその男を見て不覚にも可愛いと思ってしまった自分を誤魔化すように、微笑み返した。  駅に着くと早足でホームへ降りる。礼を言われるつもりで痴漢から助けたわけではないので、声をかけられる前に改札からでた。  電車に乗ったことがない幼なじみに今日の出来事を話そうか話すまいか、悩みながら学校までの道のりを歩く。いつもは車から眺めていた道を、自分の足で歩くことは案外気持ちいいということは、幼なじみ――白金三千留(しろかねみちる)に教えてやろうと思った。  幼稚舎から通っている百花学園の入学式は正直飽きていた。新入生代表として、三千留がでてくることだけは面白い。初めて三千留を見るものはわかりやすく騒ぐ姿を見ると「僕の幼なじみはすごいでしょ」と少し自慢したくなるものだ。  僕が初めてザワザワという音を聞いたのは、幼稚舎の入学式、新入生代表として三千留が登壇した時だった。  陶器を思わせる白い肌、サラサラ指通りの良い金髪、世界で一番美しい青を閉じ込めた瞳。初めて三千留を見た時、天使は実在するのかと驚いた。中身は天使というよりも王様というギャップが僕にとって最高に面白く、一生三千留という男に飽きることはないと思う。 「美しい」と声を上げる者、声にならない声を上げる者、はっと息をのむ者。痴漢にあった男が同性を惑わす男だとしたら、三千留はあらゆる人間をひれ伏させる美の化身。絵画から飛び出てきたような圧倒的な美。美形大国スウェーデン人の母親を持った三千留は日本人にとっては眩しすぎる存在だろう。  三千留が登壇するまでなにをしようか。となりに座るもう一人の幼なじみ・本郷七緒(ほんごうななお)としゃべって暇でもつぶそうかと考え、ふと教師席へと視線をやる――今朝痴漢されていた美形男が誰よりも背筋を伸ばして座っていた。あの色気で教師とか、生徒が変な気起こしたらどうするんだろうね。  入学式どころか、高校三年間、いい暇つぶしができそうだと眼鏡のブリッジを押し上げて微笑んだ。

ともだちにシェアしよう!