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母親のすべて_05

「一期さんがあなたを連れて来た時、驚きました。あまりに一期さんに似ていると。私は一期さんに似ている子を産めなかったのに、たかが愛人が一期さんに似た子を産んだ。たかが愛人と唇を噛み締め、必死に我慢しようと思いましたが、政略的な結婚であった私と違い、一期さんは確かにあなたの母を愛していました。その事実に狂おしいほどに嫉妬し、自分の醜さに絶望し、一期さんに愛してもらえないことに悲しみました。そのせいで、清道さんにも……あなたにも、つらい思いをさせたと思います。私の醜い嫉妬のせいで、申し訳ありません」  あの母が、プライドが高く美しい母が、僕に頭を下げている。その事実に驚き、息を飲む。 「愛人の子に頭を下げるなんて母さんらしくありませんよ。それにあなたが謝る必要ありません。もちろん、僕も謝りませんよ。誰も悪くありません、いや、しいて言えば父さんが悪いですよね。だから、母さんの嫉妬は一生僕が受け止めます。それが僕の責任ですから」  母が顔を上げたタイミングで、七緒たちから優等生スマイルと呼ばれている笑顔を浮かべる。ふっと母から笑い声が聞こえ、また驚いた。僕に対して母が笑顔を浮かべる日が来ようとは思わなかった。 「……一期さんに似ていると思いましたが、あなたは一期さんよりしたたかですね」 「褒め言葉として受け取っておきます。したたかでなければ広尾家でも、芸能界でも生き残れませんから」  こんな話をまさか育ての母とする日が来ようとは思わなかった。母の前では萎縮し、いつも以上に優等生を演じていた。その僕が自分の言葉で母と話している。三千留あたりが見たら、褒めてくれそうだ。「広尾家から解放されたな」と。 「最初は仕事を選べませんが、そのうち自分の力で仕事を得られるようになってみせます。母さんがふしだらだと言うような仕事だって、未来の僕のために全力でやります。だから、ふしだらの一言で目を覆うのはやめてください。僕のことを、僕の仕事をちゃんと見てくださいね」 「……そこまでいうなら、見ていてあげましょう。ただし、そこまで言っておきながら芽が出なかった場合、どうするおつもりですか」 「芽が出ない、なんてことはありえませんのでご心配なく。なにがあろうと咲かせます、大輪の花を」  にっこりと笑みを浮かべ、席を立つ。  言いたいことはすべて言ったし、母の気持ちは聞いた。これ以上話すことはないだろうし、早く帰って一志さんに会いたい。母と自分の言葉で話せたことを伝えたい――いつか一志さんを僕の大切な人だと母に紹介したいということを伝えたい。 「五喜さん」  障子戸を引こうとした瞬間、母に名前を呼ばれ振り返る。美しい母は笑うともっと美しいと初めて知った。 「……あなたの世界で一番大切な人、いつか会わせてください」  なんて不器用に笑うのだろう。照れくさげに笑う母を見て、少し泣きそうになった。ぐっと堪え「……はい」掠れた声で頷いた。 「お帰り五喜、お母さんとちゃんと向き合えたって顔しているな」  扉を開けてくれた一志さんを真っ先に抱きしめようと思ったのに、抱きしめられていたのは僕のほうだった。ひだまりのように温かい一志さんの腕が背中に回り、ぎゅっと優しく抱きしめられる。それだけでじわりと涙が浮かんで、すーっと瞳からこぼれ落ちた。 「……ただいま、一志さん」  情けなく震える声で呟き、家の中に入ってから力いっぱい抱きしめ返す。  花のようなシャンプーの匂い、それと肉じゃがの匂い。こういう日はいつも肉じゃがを作ってくれる。僕は一志さんが作ってくれた肉じゃがが世界で一番好きだ。 「いつか、母さんに認めてもらえる仕事をすることができたら、一志さんのことを紹介するから、母さんと、ついでに父さんにも会ってくれる?」  顔を見えるように少し体を離し、一志さんの頬をすりと撫でる。一志さんは優しく笑うと、僕の手にすり寄ってくれる。一志さんの笑顔を見ていると、どれだけ僕が甘やかしているつもりでも、甘やかされている気分になる。 「ああ、もちろん」 「世界で一番大切な人ですって言うけどいいの。一志さんが嫌だって言っても言うけどね」  わざと意地悪い口ぶりで言ったのに、一志さんはちっとも照れることなく「いいぞ」と微笑むだけではなくちゅっと可愛いキスのおまけつき。肉じゃがの味見をしたのか、一志さんの唇はいつも以上に優しい味がした。 「俺も、五喜が世界で一番大切な人だと胸を張って言うつもりだ。五喜を俺にくださいって」  一志さんはいつだって僕がほしい言葉をあっさり上回る。ぼろぼろこぼれる涙を抑えることなく、一志さんの頬を両手で挟んで唇を重ねる。お互いがお互いを求めるように唇をすり寄せ、押しつける。  僕はなんて幸福なのだろう。この幸福は決して当たり前ではないことを、僕はよくわかっている。育ての母は父に愛されなかったこと、産みの母への嫉妬で僕にどう接したらいいのかわからなかったこと、きっといまだに母の傷は癒えていない。癒えることはないのかもしれない。僕がその傷を癒されるわけがない、むしろなにを言っても抉るだけだ。それなのに、母は世界で一番大切な人に会わせてほしいと言ってくれた。不器用だけど、優しい人なのだと初めて知った。 「一志さん、愛してるよ。今すぐ抱きたい」  唇を離して、耳元で囁く。欲に塗れた熱い吐息がこぼれ、一志さんの耳が赤く染まる。さっきまで男前だったけれど、こういう時はとことん可愛い。 「……肉じゃが、作ったんだが」 「肉じゃがの前に一志さんを食べたいな」 「……一回だけだぞ」  すっかりお決まりの言葉「一回だけ」と一志さんは言いながらも、きっと一回で終わらないことを知っている。二人でふふと笑い合い、いつものごとく一志さんをお姫様抱っこしながら「善処します」とお決まりの言葉を返して口づけを交わした。

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