55 / 56

母親のすべて_04

 テレビの豪邸訪問に出てきそうな家。それが、広尾家だ。白金家には負けるが、洋風な造りをしている白金家とは違い、広尾家はとことん和風。茶道の家元として恥じない外観をしている――けれども、僕にとってはあまり好ましくない場所。実家と名乗っていいのかわからないほど、感慨深さがない。今年の三月まで、離れではあるがこの家で暮らしていたはずだ。それなのに、もう実感がない。本当に僕はこの家で暮らしていたのか、そう声に出しそうになる。 「お帰りなさいませ、五喜様」  久しぶりに踏み入れた母屋。すれ違う使用人たちは、淡々と僕に向かって頭を下げてくる。お帰りなさいませって、僕は母屋には暮らしていなかったけどねと皮肉を噛み砕きながら「ただいま」と笑顔を貼りつけた。  母の部屋の前に立ち、深呼吸する。そういえば、母の部屋に入ったことなどあっただろうか。父の気まぐれで母屋に呼ばれて父の部屋に訪れたことは何度かあるが、母の部屋に入ったことはいまだかつてない気がした。愛人の子である僕が、母の部屋に足を踏み入れていいのか、目の前の障子戸を空くほど見つめる。 「五喜さん」  ピシッと背筋を正してしまう母の声が聞こえ、思わず肩を跳ねる。ゆっくり振り返ると、日曜日であろうとしっかり着物に身を包んだ母が立った。 「お久しぶりです」 「誕生日以来ですね――眼鏡はどうしたのですか」  母と会う時は必ずかけていた眼鏡を今日は家に置いてきた。一志さんが「本当の意味で向き合いたいなら、眼鏡は外すべきだ」と背中を押してくれなければ、僕は眼鏡をかけてこの家を訪れただろう。 「眼鏡をかけていたら、本当の意味で向き合えないとある人に教わりました」 「ある人……三千留さんかしら」 「いえ、僕が世界で一番大切に思っている人です」  母は瞬きひとつせず「そう」と短く呟くと、すーっと障子戸を引く。本当の母ならば、どんな人なのかと聞いてきそうなところだが、僕たちはまだ親子になれていない。一日二日で本当の親子になれるわけがないか、ため息を飲み込んで「失礼します」頭を下げて部屋の中へと入る。  母の部屋は、まるで高級旅館のようだ。生活がなく、それでいてどこか冷めた空気が流れている。母をそういった目で見ているせいかもしれないが、とてもではないが長居したいとは思えない。父が、この部屋に訪れているところを僕は見たことがない。そもそも僕は離れで生活していたから、父と母がどの程度仲が良いかなんて知らないけれど、僕の目から見て二人は『仮面夫婦』でしかなかった。  座椅子に座る母を見て、母の前の席に腰を下ろす。しばしの沈黙、破ったのは「五喜さん」鋭い母の声だった。はい、と声に出したものの、緊張のあまり掠れた声が出てしまう自分に眉を寄せる。 「一期さんが同意書にサインしたそうですね。一期さんの同意は広尾家の同意ですが、私は五喜さんの芸能活動には反対です。あのようなふしだらなコマーシャルは、どう考えても広尾家にとって益となるとは思えません。あなたは腐っても広尾家の次男、そのことをゆめゆめ忘れないでください」  さっきまでの鋭さを感じる声ではなく、ひたすらにキンキンと高い声だ。ああ、怒っている。顔を見ずともわかるが、ゆっくり母の表情を盗み見る。母は目を合わせたくないのか、僕の襟元に視線を寄せていた。  ふしだらなコマーシャル。確かにふしだらな、そうではないかの二択ならふしだらになるだろう。それでも僕にとっては初めてのコマーシャル。アクシデントがありながら、今の僕ができる最高のパフォーマンスを見せたつもりだ。それを母が「ふしだら」という言葉で括ってしまうのなら、なにも言うことはない。  だけど、僕の活躍が広尾家にとって益にならないという言葉は納得がいかない。今はまだなんの益にならないだろう。だけど、いずれは広尾家の益になるはずだ。いや、なってやる。 「僕の活躍が広尾家にとって益にならない、それは僕が気に入らないという個人的な感情からですか」  ぴくり、母の肩が微かに跳ねて眉根を寄せる。あ、さらに怒らせたなと気がついた時には遅い。母は黒い瞳に炎を宿し、息を吸った。 「確かに私個人としては、あなたのことを認めてはいません。いえ、認めたくありませんが、個人的な感情で益にならないとは言いません。あのようなふしだらなコマーシャルは、広尾家の評判を落とすことになると危惧しているのです」 「あのコマーシャルは、与えられた仕事を僕なりに受け止めて真摯に応えたつもりです。それを母さんがふしだらと括るのならば仕方ありませんが、広尾家の評判を落とすつもりはありません。いずれ、僕のおかげで門下生が増えたと父さんに誇ってもらえるように精進します。広尾家では取ることが出来なかった一番を、芸能界で取ってみせます」  まっすぐ母を見つめ、言い切る。これまで母に対して自分の意見を言ったことはなかった。ほんの少し声が震えていたかもしれない。それでも、自分の言いたいことを口にすることが出来た。なんにだってなっていいと言ってくれた一志さんのおかげだ。  母はゆっくり視線を上げ、僕の顔を見つめると美しい口元がひどく歪んでいた。 「……憎たらしいほどに、一期さんの子ですね。野心を秘めた心も、凛とした声も、美しい顔も、どこをとっても一期さんに似ている。本当に、憎たらしくて、羨ましい。あなたを産んだのが、私だったらどれだけ良かったことか」  え、と声を上げそうになり飲み込む。  母の瞳からすーっと涙が一筋流れる。けれども、決して悲しみに満ちた表情をしていない。強い瞳でしっかりと僕を見つめ、いや、睨んでいた。ぞくり、背筋が震える。恐怖ではない。母の強さに体中が震え上がった。

ともだちにシェアしよう!