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第1話

社会人になって十五年目。 これだけ長く働いていれば、多少の失敗で悩まなくなるし。どんな苦痛もどうでもよくなってくる。 例えば、毎日の残業なんてもう当たり前の事だと割り切れるようになるし。上司からの罵倒も聞き流せるようになる。 多分きっとこれが、社畜というものなのだろう。 ま、三十七歳にもなって結婚予定も趣味もないおっさんだし。仕事人間になってもしょうがないのかもしれない。 働いて、食って、寝て、また働いて。 当たり前の人生を、当たり前のように過ごす。 そして最後は、爺になって一人孤独に死んで終わる。 でもきっとこれが、普通なのだろう。 きっとこれが、皆の当たり前な日常なのだろう。 だから俺は、自分が普通で正しい人間でいるために、ずっとこのまま仕事を頑張り続けていくのだ。 「あの。平田(ひらた)……(ただし)さんですか?」 「え、あ、はい……」 ロボットのようにひたすらキーボードを打ってた手を止めて、俺の名前を呼んだ男性に視線を向ける。 「どうも。今日からお世話になる染井新一(そめいしんいち)です」 「あ、君が……」 そういえば、新入社員が入るって言ってたな。 どうせ一か月も持たずに辞めてしまうだろうな。とか思って、全然覚えてなかった。 「よろしく」 「はい」 それにしてもこの染井君。随分髪明るめだな。金髪に近い茶色って感じで、パーマもかけてるぽい。 というか、一応俺という上司の前なのにマスク顎にしたままだし。表情も明らかにやる気無さそう。 これでよく面接通ったな。 ま、この会社社員少ないからしょうがなく入れたんだろうけど。 「あの、平田さん」 「ん?」 「自分、なにしたらいいですか」 「え?それ俺に聞くの?」 「えぇまぁ。さっき部長から、平田さんが教育係だから。と言われましたし」 俺は何も聞いてないんですけど。 「あ、そうなのね。じゃあ今から仕事教えるから、その椅子座って聞いててね」 「あの平田さん」 「ん?」 「目が死んでますけど、ちゃんと寝てます?」 「……染井君も時期にこうなるよ」 この会社で働いてたらね。 なんて……あの頃は思っていたけれど。 染井君は、俺のようにはならなかった。 だって俺とは……いや。皆とは違っていたから。 「時間になりましたので先に帰ります。お疲れ様でした」 「……お、お疲れ様」 皆の視線が染井君に集まる。 その眼は、とても冷たい。 「はぁ~。アイツまたかよ」 「俺達は残業して仕事してんのにな」 「自分の仕事終わったんなら、俺達の手伝えって話だよな」 「なぁ~」 聞きたくもない愚痴が、嫌でも聞こえてくる。 でも、それも仕方ない。 染井君は、皆が残業していても平気で定時にあがってしまう人のだから。 しかもそれだけじゃない。 朝の出勤も時間ギリギリだし、上司からの飲み会に誘われても絶対に行かない。 彼だけがこの会社に、この社会に染まりきっていないのだ。 「なぁ平田。お前教育係なんだろ?なんかそれとなくさ~言っとけよ?」 「あ、はは……」 めんどくさい。果てしなくめんどくさい。 だから教育係なんて嫌だったんだ。 俺はただ一人黙々と仕事して、さっさと帰りたいだけなのに。 でも流石に俺もそろそろ怒られそうだしなぁ。めんどくさいわぁ。 「はぁ……仕方ないなぁ」 それから二時間後に仕事を終えた俺は、会社の喫煙所で一服した後。家に帰るため、ビニール傘を広げて外へ出た。 梅雨入りしてから一週間。雨は未だ止む気配すらない。 おかげでびちょびちょになった地面を踏むたび、黒い靴とズボンの裾は、毎日汚い水で汚れていく。 しかも洗濯してもなかなか乾かないせいで、スーツはいつも生乾きの臭い。 けど、大半のサラリーマンは俺と同じなはずだ。特に独り身の。 現に隣のオッサンからは、生乾き臭と加齢臭がする。 俺も多分こんな臭いがしてるんだろうなぁ。そりゃ女性も近寄ってこねぇわ。 「なぁ、アイツ大丈夫か?」 「ほっとけって。嫌な事でもあったんだろ」 俺の前を歩く同じサラリーマン二人が、なにやらひそひそと話しながら顔を引きつらせている。 まさか俺の臭いの事言ってんのか?なんて自意識過剰なことを考えてしまったが。どうやらサラリーマン二人の前を歩く人の事を見て言っているらしく。その人が少し気になってしまった俺は、不審がられないよう横から覗き込んで見た。 すると。 そこに居たのは、見覚えのある金に近い茶髪の男性。染井君だった。 スーツじゃないということは、一度家に帰って外に出かけたのだろう。 だがそんなことは、今は問題じゃない。 「染井君なにしてるんだ。傘もささずに……」 彼は右手に傘を持っていながらも、何故かその傘をさしていなかった。 おかげで彼は、頭から靴までずぶ濡れだ。 「風邪ひくよ」 今更遅いかもしれないが。とりあえず自分がさしてるビニール傘を傾けて、持っていたハンカチで、彼の顔だけも拭いてあげる。 なんだか野良犬を拾った時みたいな気持ちだ。 「平田さん……」 染井君に声を掛けられて、一瞬我に返る。 そういえば、どうして俺は彼に声をかけてしまったんだろう。 普通なら知り合いといえど、周りから不審な眼で見られている奴になんて声はかけない。寧ろ他人のふりしてさっさとその場を立ち去っているはずなのに。 どうしてだが、雨に打たれている彼がまるで泣いている様に見えてしまって、どうしても放っておけなくなってしまった。 「そ、染井君。ちょっと今は周りの視線が気になるし……服もびしょ濡れだしさ。こんなおっさんの家でいいならだけど。ちょっと寄っていくかい?」 うまく出来ない笑顔を引きつらせながらダメもとで聞いてみると、意外にも染井君は、首を縦に振ってくれた。

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