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1話
ドアベルが軽やかな音を立てると、マスターが渋い声で「いらっしゃい、好きな席に座って」と21時を過ぎ、空席が目立つ店内を一瞥した後、お冷をカウンターの上部に置く。客の話声が狭い店内のあちらこちらから聞こえる。暖色の照明は照度を落とし、コの字型のカウンターと右端に4人掛けテーブル席が2席用意されている店である。
平日のお小遣いが300円しかない蟹江皐月 が一週間節約し、味わう毎週金曜日の楽しみだ。
「マスター、牛乳多めのコーヒー一つください」
顔も憶えられているのかわからないのに、いつもの、とは言えず、いつものセリフを口にする。しゃれたコーヒーの名前を見ても、説明がないとわからないし、43になっても苦味と辛味が強い食べ物が苦手なのだ。
7年前に、たまたま店を見つけてから、週に一度は通っている。メニューもお手頃価格だし、どれをとってもおいしい。本当なら、毎日通いたいくらいだ。
「甘めのコーヒーだよね。ホット、アイスどっちがいい?」
「ホットで」
黒い斜めかけの通勤用カバンから、パソコンを取り出し、メールチェックと持ち帰ってきた仕事をし始めると、カウンターの上部にホットコーヒーが置かれた。
「こぼしちゃ悪いで、ここ置いておくよ」
「ありがとうございます」
コーヒー一つで、閉店ギリギリまで粘ろうとする嫌な客である。皐月は、カウンターと4人掛けテーブル席を見回す。彼はいないのだろうか。
「嵐 、嵐」
マスターが奥に入り、小声で名前を呼んでいる。
(今日はいるんだ)
彼の名前はマスターが呼んでいるから知っている。「嵐」だ。
途端に無表情で疲れ切った表情だった皐月の顔に、笑みが浮かび、瞳孔が開く。おいしいものを食べた時のような笑みだ。
端正な甘いマスクに、くりくりとした二重まぶたのりりしい顔。弟系の俳優にいそうなほど小顔で長身だ。奥から白い皿を持って現れた。
パソコンを横にやり、コーヒーを飲みながら、彼を見る。見ているだけなら赦される。仕事の疲れや土日の憂鬱も吹き飛ぶのだ。
「いらっしゃいませ、カットに失敗したサンドウィッチ食べて行ってください」
白い平皿に盛られたフルーツサンドウィッチとハムと卵のサンドウィッチは、皐月の好物だ。失敗していないものが大半で、皐月が怪訝そうな顔をすると、ニッと笑った後細長い指を唇に当てる。くらりと眩暈がした。
「ありがとうございます」
嵐の好意に涙がにじんだ。
(歳を食うのが嫌だな)
客足が少なくなると、嵐たちは皿洗いをする。生活音を聞きながら、サンドウィッチを食べながら、仕事やら読書をする。一段落着くと、嵐は皐月の隣に座り、パソコンを操作し始める。
「サンドウィッチ、ありがとうございます。おいしいです」
手を伸ばせば届きそうな距離。コーヒーを取るフリをして、触れてもいいだろうか。適当な資料を見るフリをして、見てもいいだろうか。逡巡する心は、現実に引き戻される恐怖に怯えている。
「よかった。皐月さんやせているから、ちゃんと食ってるのか心配になりますよ」
「ありがとう。独り身だと料理を作るのが面倒なときもあるんです」
「じゃあ、作りに行きましょうか?」
冗談めかした言葉は多分、社交辞令だろう。
「気持ちだけ受け取っておきます」
「俺、嘘は言ってませんよ。食べさせ甲斐がありますし、皐月さんに手料理をお腹いっぱい食べてもらいたいんです」
いつになく真剣な目をして、触れてくる少し冷たくかさついた手を振りほどけない。
「あ、ありがとう」
嵐と会話をできるこの時間のために居座っているのかもしれない。が、閉店間際の店にい続けるのもよくないので、料金を支払っている最中、スマートフォンが震えた。
「電話に出たほうがいいじゃないですか?」
「急ぎの電話じゃないので」
しょうがなく電話に出ようとしたとき、「スピーカーモードにしてください」と嵐がいい、マスターも頷いた。
『おい、さっさと出ろよクズ。メール確認したか?』
ドスのきいた女声に身がすくんだ。間髪入れずに、
「遅れてすみません。しました。明日の特売に行ったら必ず買いに行ってきます」
小声で何度も頭を下げながら、別居している妻の怒りを鎮めるしかない。彼らにはどう見えているのだろうか。
『ならいいけど、忘れたら許さないから』
「はい。リストを作っておきます」
『昼前までに運んで来いよ。待ってるから』
「承知いたしました」
言いたいことだけ言って切電された。
「お見苦しいところ見せて、すみません。どこから出ればいいですか?」
「裏口を使ってください」
そそくさと出て行こうとする皐月の手首を嵐が痛いほど強く握った。眉根を寄せて、にらんだ。いいや、彼に当たっていい資格などない。当事者同士が解決する問題だ。
「痛いです」
「これ、俺の恩師の連絡先です。あなたの意思決定に踏み込んではいけないと思いますが、もしよろしければ受け取ってください」
上手く笑みを作れているかわからないが、「ありがとう」といいそれを受け取り、独りで住んでいるアパートに帰った。
「明日、あのスーパーに行くんですか?」
返答はせず、降り出しそうな重く湿った夜闇を歩いた。
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