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第3話 彼は純真で、
清晴、という名前をつけた両親は、物心ついた時にはもう居なくて、俺は祖父母に育てられていた。離婚した父は何処かへ消え、母は新しい男と暮らしていたらしい。不倫、という言葉を幼い頃に何度も聞かされた。祖父母は「どうしてあんな子に育ったのか」と母をよく詰っていた。彼らは俺をぞんざいに扱うことは無かったが、別段愛されているとも感じなかった。
両親がいないことを理由に、学校ではいじめられた。彼らは偶然手に入れた幸福を振りかざして、俺を見下した。そんな彼らのことを俺も見下した。抵抗もせず泣きもせず、ただ受け入れると、そんな姿にすぐ飽きて、彼らの標的は他に移った。
改めて考えても、俺の人生には何も無かったと思う。
仲の良い知り合いはいたかもしれない。俺にとってはただの知り合いだった。彼らにとっては、替えのきく多くの友人の一人に過ぎなかったろう。現に今となっては連絡を取る相手などいない。
恋もした事がない。人を愛することができないんだろう、と思っている。愛されないんだから、愛したところで虚しいだけだ。
無気力に育ち、成長して、社会の決まりで大人になった。大学まで行かせてくれた祖父母には、感謝はしている。別段好きでもないが、もらった恩ぐらいは返そうかと、仕事を探した。さして希望も無く、売り手市場という幸運な時代が俺を会社員にした。
やる気はないが、サボるわけでなく、規律は守り、従順に働き、文句も言わない。仕事のことは、好きでも嫌いでもない。働くのは面倒だが、金は欲しい。
理不尽な上司に振り回され、頭を下げ、図々しい同期に友人面をされるのも、存外疲れる。毎日トボトボとワンルームの自宅に帰ると、スーツだけを脱いで床に座り、ぼうっと壁や天井を見つめる。気が向いたら、コンビニ飯を食べて寝る。それだけの暮らし。
俺はずっと一人で話していた。隣に座っていた幽霊は、何も言わずにじっと耳を傾けている。
思えば、その頃の俺は少し疲れていたのかもしれない。
仕事にも慣れた24歳の春。寒さが和らいで、世間が浮かれ始めても、俺の暮らしは何も変わらなかった。俺の苗字と同じように、夜霧に包まれているみたいで、何も見えない。毎日が同じことの繰り返し。これまでも、これからも、ずっと同じ、霧の中。
朝目を覚まして、仕事に行き、家に戻って飯を食い、寝る。同じカップラーメン。同じ発泡酒。同じ服。同じ額の給料。何の予定もない土日。何の変わりもない、孤独。
慣れきったはずの、無音の部屋。何も貼ったりしていない白い壁を見つめながら、誰かの笑い声が微かに聞こえる、夜。
そんな日々で、俺はふいに、考えてしまった。
誰でもいいから、そばにいてほしい。
そんなことを考えたのは生まれて初めてだった。だから、すぐにそのことは、忘れていた。
誰でもいいとは思ったが、幽霊は別に、望んでいない。
疲れきった頭が幻覚でも見せているのかもしれない。俺は一度頭を振って、それから彼の方を見た。
彼は、何故だか涙を流していた。
「ちょ」
泣かせるような事なんて、何もしていない。動揺していると、彼はポロポロと綺麗な涙のようなものを零す。
そもそも彼は幽霊なのだから、液体を流したりするのかどうか。俺にはもうわけがわからなかった。
「どうして」
泣くところなんて何も無かった。俺のつまらない人生体験をグダグダと語ったに過ぎない。なのに、彼は悲しげに呟いた。
「私はあなたではないから、あなたの気持ちを正確に汲み取ることはできません。でも、……私にはあなたの言葉しかありません。……あなたは……清晴さんは、とても、今まで、さみしいのを我慢してきたのですね……」
何のことを言われているのか、俺にはわからなかった。この薄気味悪い幽霊は、俺に同情しているのか。幽霊に同情されるなんて、たまったもんじゃない。
「よしてくれ、俺は別に……」
「いえ、いえ。ごめんなさい。……私には記憶がありませんから、あなたの事を我が事のように受け取ってしまって……。私なら、とても辛いと感じてしまっただけです。ごめんなさい、気に障ったのなら、謝ります」
彼は目元を拭って、それからまた、微笑みを浮かべた。
「お話ししてくれて、ありがとうございます」
そんな風に丁寧に礼を言われても、困る。
俺はどうにもこうにも、その場を立ち去りにくくなったし、また、彼を拒みにくくなっていた。
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