「ミチル、青い鳥はいつだってあなたのそばにいるわ。あなたが一人で泣いている夜も、嬉しいことがあった朝も、きっと寄り添ってくれる。だから、もう泣かないで。大好きなミチルの笑顔を私に見せてちょうだい」 　死の訪れを感じさせる母の手が、俺の頬を撫でる。 　泣いてはいけない、笑わなければ。それが母の最期の望みだとわかっているのに、どうしても上手く笑えなかった。それでもどうにか笑おうとして、口元を引きつらせながら必死に口角を上げる。あまりに下手すぎる笑顔だというのに、母はどこまでも優しく微笑んで俺の涙を拭ってくれた。くすぐったいと心から頬を緩め、その手に自分の手を重ねようとした瞬間、母の手からは生気が失われ、するりと俺の頬から落ちていく。 　なぜ、どうして、起きてくれ。いつもみたいに笑って、優しい声で『青い鳥』を読んでくれ。 　天蓋付きベッドに横たわる母はまるで眠り姫のように美しく、幼かった俺は母の死を認めることができなかった。ゆさゆさとその体に触れ「三千留、もうおやめなさい。王になる男が泣いてはいけません」と姉に言われるまで、母の体を揺らし続けた。 　今泣かないでいつ泣けと言うのだ。母の死を前に泣いてはいけないのなら、俺は王になどなりたくない！ 　泣きながら、母の部屋を飛び出したのに、誰も俺を追いかけてはくれなかった。青い鳥はここにはいない、俺のそばにはいないのだと深く絶望を覚え、家からも飛び出した。そのあと自分がどこへ向かい、どうやって家まで帰ったのか、いまだに思い出せない。 「……千昭、お前はなぜここにいる」 　目を開けてすぐ視界に飛び込んだのは、シルバーアッシュの美青年が愛しげに俺の髪を撫でる姿。俺の部屋で、俺のベッドで、どうしてしれっととなりで寝ているのだ、この男は。一度や二度のことではない、ほとんど毎日のように、俺が寝るタイミングではいないのに目を覚ますととなりにいる。そういう男なのだ、目黒千昭(めぐろちあき)は。 「ミチルの顔が見たくて来ちゃった」 「来ちゃった、じゃないだろう。百歩譲って来たのは許そう、なにをしれっととなりで寝ているんだ。俺様と千昭はつき合っていないのだぞ、そういうあれは、その、つき合っている者に許されるあれだろう！」 「ミチルは今日も可愛いね。ウブなところは特に可愛いなぁ、キスしていいかな？」 「俺様の話を聞け！」 　ルビーの瞳を細めた千昭は、当たり前のようにその大きな唇で俺の頬へキスをしてくる。どうしてお前は隙あらばキスをするのだと眉根を寄せて千昭の肩に拳を入れ、思いきりため息を吐いた。千昭は素知らぬ顔で微笑んだかと思えば、俺の顔をルビーの瞳でじっと見つめ、すりと頬を撫でてくる。その手が母と重なり、思わずビクッと肩が跳ねてしまった。 「可愛いけど、顔色が悪いね。またあの夢を見たの？」 　あの夢――母が息を引き取る夢。まだ三歳だった俺は、母の死を受け入れることができずにあの部屋から、家から逃げ出した。夢はいつもそこで終わる。 　幼かった俺はあのあとどうしたのだろうか。幼い頃から繰り返し母が読んでくれた絵本『青い鳥』のミチルとチルチルのように青い鳥を探しに行って、やはり青い鳥はどこにもいないと絶望して家へ帰ったのだろうか。あの日の記憶だけが、いまだに俺の頭の中からぽっかりと抜け落ちている。 　母が息を引き取る夢を見た朝は、必ず千昭に「顔色が悪い」と心配される。王になる男が、夢を見て顔を青くするなど情けないと前髪を掻き上げて笑ってみせた。 「俺様の顔色が悪いだと？　そんなわけはないだろう、よく見ろ。今日も俺様は美しいだろう」 「そうだね、今日も俺の王様は誰よりも美しいよ」 　俺の強がりを見抜いているくせに、千昭はにっこりと微笑んで俺の頬をまた撫でてくる。俺が聞かれたくないことを無理して聞こうとしない。聡い男だ、その点は気に入っている。今度は頬を撫でられようと肩を跳ねることなく、完璧な笑みを返してベッドから体を起こした。 　ウォークインクローゼットに入り、真新しい制服に身を包む。中等部は学ランだったが、高等部からはブレザー。制服は没個性で好きではないが、学ランよりは幾分かマシだと全身鏡に映る自分を見て頷いた。 　クローゼットから出ると、いまだにベッドで転がっている千昭の頭を軽く叩く。それでも千昭はベッドから起きず、それどころか俺の腕を引っ張り、ベッドに誘い込まれた挙げ句抱きしめられた。 「俺様はお前の抱き枕ではないぞ」 「抱き枕なんて思ったこと一度もないよ。ミチルは俺の愛しい王様だ」 「調子のいいやつめ。お前、ちゃんとバンド練習には参加しているのだろうな」 　じっとり千昭を睨む。千昭はどこまでも上機嫌に笑い、俺の前髪をサラサラと撫でる。 　何事にも縛られることを好まず、自由をとことん愛すこの男は『音速エアライン』というバンドでベーシストをしている、はずだ。俺の運転手としての仕事を優先しているせいで、本当にバンド活動をしているのか不安になる。バンド活動のためにバイトをするのではなく、俺に言われたからバンド活動をしている。千昭は世にも珍しいタイプのバンドマンだ。