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「……何もしてない」  早くこの話を終わらせたいと、松原は素っ気なく言い放つ。 「何もしてないって……行きつけの歓楽街に連れて行かれたんだろう。あそこは一回で数万も飛ぶような場所じゃないか」  斉木の声が興奮で大きくなる。松原は慌てて、周囲に視線を向けた。  こちらの様子を気にしている人はいないようで、二人組の女性社員がコーヒーを飲みながら談笑していた。 「声がでかい」 「ごめん……まさか何もしてないだなんて。信じられない」 「相手に事情を説明して、さっさと帰ろうとも考えたんだが……」  松原は険しい表情で視線を下げる。すぐにでも帰らなかったのは、ハルヤのあんな顔を見たせいだった。 「まぁー松原は鉄仮面そうに見えて、優しいからな。魚飼ってるし。来てすぐ帰るのは、相手に失礼だとでも思ったんだろう」  別に魚が好きなわけじゃないと、松原は顔を顰める。  斉木が宅飲みしたいと言って松原の家に来た際に、飼い始めて二年ぐらいになる熱帯魚のベタに興味を示した。松原は酔いも手伝って、ベタの良さをビール片手に説いたのだ。それ以来、斉木は何かにつけて松原は魚好きだからと言ってくるようになった。 「魚じゃなくてベタだ。別に……気を使って、帰らなかったわけじゃない」  誤魔化すように、松原は残りの生姜焼きを口に詰め込んでいく。  ハルヤの寂しそうな表情。語られた一人の男の話が胸にしこりを残し、なかなか厄介な物になっていた。

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