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雨の日にはビールを

 子犬を拾ったわけではない。だが、俺がタオルで髪をガシガシ拭いてやっているコイツが派手に尻尾を振ってそうに見えるのはなぜだ? 「つけてきたんです」  コイツはそう言いやがった。 「鳴上(なるかみ)さんのおうちがどこか知りたくて」 「ストーカーじゃねぇか!」  びしょ濡れの坂下に全力でスポーツタオルを投げつけた。 「怒ってます?」  悲しげな上目遣い。そうするとよけい犬っぽい。 「あー、頭にきてる、梅雨だというのに天気予報も確認せずつけてきた間抜けな後輩に」 「ですよね。鳴上さん、仕事とプライベートは分ける主義って言ってましたもんね」  べそべそべそ…… 「髪の毛を拭けー!」  で、最初のガシガシに戻るのだ。  頭を拭いたぐらいでは埒があかない。 「お前、服ぬげ」 「え!?」 「うれしそうな顔をやめろ!」  坂下は坂の下に転げたようにしゅんとする。 「スーツとネクタイはクリーニング店に自分で出せ。ワイシャツと下着と靴下は洗ってやる。まずシャワーを浴びろ。それが終わったらスーツを浴室乾燥で乾かすから」 「靴はどうなります?」  細かいとこまで気がつくな、コイツは。 「靴用の乾燥機で乾かす。ただしスーツも靴も縮んでも責任持たないからな」  犬ならうれしげに吠えそうに「はいっ」と答えが返ってきた。  坂下がシャワー浴びている間に洗濯機を回して、靴に乾燥機をセットする。それから飯の仕度だ。と言っても冷凍ご飯を後で解凍し缶詰めのグリーンカレーを鍋で温めてかけるだけ。すぐに終わる。  俺は冷蔵庫から出した缶ビールを開けて一気飲みする。  今日は雨。だから飲む。飲まないとやってやれない。  雨音がとてもうっとうしい。 「出ましたー」  腰にバスタオルを巻き、髪を自分で拭いている坂下の体を見てビールを噴きそうになった。  同じ部署の後輩の坂下は俺より十センチ近く背が低い。顔は童顔。なのに腹筋がしっかり割れて、腕も筋肉で太いのだ。 「いい体してんな、お前」 「ありがとうございまーす! 筋トレオタクなんスよ」 「意外」 「よく言われます」  ドライヤーで髪を乾かさせている間に、二缶目のビールを開ける。 「いいなあ、ビール」  貸してやったバスローブに身を包んだ坂下は、指をくわえている。 「勝手に冷蔵庫から出して飲め」 「アザマス!」  だんだんくつろいできたようだ、コイツは。 「うわっ、なんスか、このビールの数!」 キッチンからの叫びを言葉で押さえつける。 「うるさい。構うな。飯食うぞ」  電子レンジで温めたご飯に鍋からグリーンカレーをかける。 「作ったんすか?」 「んなわけあるか。缶詰だよ」 「こんなのあるんだ。後で売ってるトコ教えてください」  坂下は気に入ったらしい。おかわりしたいというので、また一つ冷凍ご飯を解凍し缶詰カレーを使う。 「ほら」 「いっただきまーす」  犬に餌を与えているようだ。うれしげに食べているのが、正直かわいい。俺は三缶目のビールを飲みながら眺めていた。 「それ、何缶目なんスか?」 「三缶目」 「飲み過ぎじゃないっすか?」 「いいんだよ、こんな日は」  坂下が小首をかしげる。子犬か? 「前の会社でガチのストーカーに狙われたんだよ。支社の総務の新入社員の女の子。社長の遠縁だった。宴会で酒癖の悪い支社長に絡まれて、でも誰も助けない」 「え? なぜ?」 「みんな自分がやられてきたし、コネ入社なのが気に入らなかったんだろ?」  俺は肩をすくめた。 「とにかく俺が上司の気をそらしてやったんだ。そうしたら誤解された。後はお決まりのコースだな。付きあってると噂を流されたり、家まで着いてこられたり、電話をかけてこられたり。何せ総務だから個人情報取り放題だろ? あんまりひどくて警察にも上司にも相談した。始めは信じてもらえなかったけどな」  俺は真剣な顔の坂下に微笑ってみせる。 「アパートのゴミあさりまでされたぜ?」 「笑い事じゃないですよ」 「そ、笑い事じゃない」  俺は残っていたビールをあおる。 「何と会社に俺との結婚届を出そうとした。でも証明書類が足りないと部長がつっぱねてくれて、今度は役所に婚姻届を出そうとしてここも窓口で拒否された。夫も妻も証人二名も同じ筆跡だったからだそうだ」 「ひでぇ」 「だろ?」  沈黙が落ちて、雨音が急に激しくなった気がした。  四缶目を取りに立とうとした手首をつかまれた。 「もうやめときましょ?」 「雨の日には飲むって決めてんだよ」  振り払って取りに行く。 「俺は会社を辞めることにした。引っ越しもした。心底彼女が怖かったからだ」  冷蔵庫に寄りかかってプルタブを立てるとぶしゅっと音がした。口をつけてあおったら、顎の方に一筋垂れた。  確かに酔ってきたかもしれない。 『私のこと愛してますよね? だから助けてくれたんですものね。結婚式はいつにします? 新居にいいところがあったから契約しました。私、総務だから三ヵ月分の給与明細、鳴上さんの代わりに用意したんですよ。いい妻になれるでしょ?』  瞬きもせずに見つめてくる狂気をはらんだ笑顔が浮かびかけて、打ち消すためにビールをまたあおった。全然うまくない。 「雨の日、会社から帰って来たところをつけてきた彼女に包丁で切りつけられた。だましたのね、だってさ。幸い通りかかった人が警察を呼んでくれて、かすり傷ですんだ」  気がついたら坂下が目の前にいた。  缶を取り上げられ、抱きしめられた。  俺は言葉をつむぐ。 「晴れの日はいいんだ。つけられても足音でわかって逃げられるから。でも雨の日は足音がわからない。だから寄り道しないで、できるだけ急いで帰る、追いつかれないように、ちょっとでも早く。買物をしないですむように保存食を用意して、ビールも買い込んでおくんだ。そして酔って忘れて眠れるようにビールを――」  見上げる坂下が俺の首を抱き寄せて、キスをしてきた。  やめろと振り払えなかった。おれは相当酔っている。 「俺、今日ひどいことしちゃったんですね」  坂下の手が俺の背中をさすっている。 「俺、梅雨は嫌いだ」  涙がポロッと坂下の顔に落ちた。 「わかりました」  坂下が俺の目を見つめた。 「もう後をつけたりしません。一緒に帰ります。鳴上さんを守ります」  何言ってんだ、コイツは。  坂下が俺の頭を撫でている。 「俺んち、合気道の道場で、俺は四段です。無理矢理親にやらされて嫌だったけど、今習った意味ができました。鳴上さんを守れます」  坂下が俺の両手を握りしめた。 「雨の日は送ります。一緒に帰りましょう」  俺はぽろぽろと涙がこぼれるのを止められなかった。  坂下が抱きしめてくれる。 「好きです、鳴上さん。俺はあなたを守ります」  坂下が何度も何度もキスをしてくる。身長差で大変そうなのに気がついて、俺は寝室へ坂下を導いた。  が、俺と坂下の初夜は不首尾に終わった。飲み過ぎた俺が吐き気を催したからだ。 「だから飲み過ぎって言ったじゃないですか」  坂下は「一世一代の告白だったのに」とプンプンしていた。  俺は笑った。笑いこけた。涙まで出てきた。  むくれていた坂下も俺のようすに笑い出した。そして俺の首を抱え寄せてキスをくれた。 「楽しみは先に取っときます」 「ああそうかい」 「それからしっかりボディガードしますよ。安心してください」 「忠犬かよ」 「わん!」  ご褒美に俺からも唇を重ねた。  遅くとも次の雨の日には、俺たちは本当の恋人同士になるだろう。 ――了――

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