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第6話:「ロシアの地は広大だが、私の度量はそこまで広くはない」
会談は両国の政治的トップが顔を合わせているとは思えぬほど地味に始まった。
大理石のテーブルをはさんでプッチンと晋之介が向かい合って座る。
プッチンの後ろには金髪の側近が威圧するように仁王立ちで控えていた。
対する晋之介は単独だった。横に座る通訳もロシア側が手配した人物であり、晋之介の挨拶にも鼻を鳴らしたのみで非友好的な態度を隠そうともしない。
まさに孤立無援な状況である。晋之介はぎこちない微笑みを浮かべてプッチンをまっすぐに見つめていたが、その顔色ははっきりと青ざめていた。
(――阿呆の面構えをしている)
ちらりとプッチンはそう思い、すぐに頭を振った。
(いかんな。故なく相手を軽んずる思考に至るのは、その奥に脅えがあるからだ。いかに間抜
けた顔をしていようと、相手はこの若さで一国のトップに立っている男なのだ)
獅子は仔ウサギを狩るにも全力を持ってあたる。
プッチンは冷たく無表情な顔の下で改めて意識を研ぎ澄まし、晋之介をねめつけた。
しばらく双方無言のまま、相手の出方を窺う時間が流れる。
口火を切ったのはプッチンだった。
「――シンノスケ・アベには、今回の一件について迅速にこちらまで出向いていただき感謝する」
通訳が無感動に訳し終える前に、晋之介は慌てて首を振った。
「いえ、そんな。こんな折に恐縮ですが、お目にかかれて光栄で……」
「が、感謝と今回の悲劇は全く別物だ」
晋之介の言葉を遮り、強い口調でプッチンは言い放った。
「我が国は本件を、我が国の領土に不当に侵入された――領海侵犯に当たると判断する。我が国の国民が不当に傷つけられ、財産が損壊させられた件についての厳重な抗議を表明するとともに、謝罪と賠償を要求する」
ガツンと先制パンチを食らった晋之介は息をのんだ。
通訳がことさら冷たい視線を異国の若きトップへ注ぐ。
「ま、待ってください。僕は――」
「漁船の乗組員についてはこのまま収容所で預かる」
プッチンの淡々とした口調の中に一瞬、刃物のような殺意がきらめいた。
「我が国民の財産と命を脅かした罪は万死に値する」
「そっ……それは出来かねます! 彼らはれっきとした日本国民だ!」
口を開けたままだった晋之介が、飛び上がるように立ち上がってテーブルを叩いた。
晋之介の動きに反応し、即座にプッチンの背後に控えていた側近が懐から銃を抜き、晋之介へ向けて構える。
「っ……!」
「失礼」
絶句した晋之介の前でプッチンは立ち上がり――振り向きざまに、銃を構える側近の頬に鋭い拳骨を叩き込んだ。
「ごあっ……!」
「仔ウサギが跳ねた程度で何たるざまだ。私の顔に泥を塗る気か?」
「も、申し訳ありません、サー」
あふれる鼻血を押さえて頭を下げる側近を尻目に、プッチンは晋之介へと視線を戻した。
「部下が失礼した」
「いえ、僕の方こそ……かっとなって大変失礼しました」
頭を下げた晋之介は、ひとつ深呼吸するとハンカチを差し出した。
「そちらの側近の方、よろしければこれを使ってください」
「……私に?」
側近が唖然としてプッチンと晋之介を交互に見た。
「僕が不用意な動きをしたせいですから。優秀な警備の方ですね」
あくまでも穏やかな態度の晋之介に、プッチンはやや意外な思いを抱いた。
注意深く観察しても、突然の威嚇行動、および暴力に対する恐れは感じられない。
(怯えるかと思ったが……なるほど、そのくらいの肝は据わっているというわけか)
「……」
無言で微かに頷いたプッチンを見て、側近はおずおずとハンカチを受け取った。
「お大事に」
ふっ、と晋之介が微笑む。
「……む」
ふと、その目元がほんのりと赤いことに気が付いた時――まったく唐突に、先ほど触れた晋之介の感触が蘇った。
組み伏せた際のしなやかな肌。指を滑るさらさらとした髪。
当惑げにこちらを見上げる瞳は驚いた子鹿のようで――
「……閣下?」
いぶかしげな部下の声に、プッチンは我に返った。
「どうかなさいましたか、何やら考え込んでいらっしゃるようでしたが……」
「いや、何でもない」
平静を装って腰を下ろしながらも、プッチンは内心、やや動揺していた。
(私は今……何を考えていた?)
戦場における一瞬の気のゆるみは即、命とりである。
それは生粋の狩人たるプッチンの魂に刻み込まれている鉄則であるはずなのに、先ほど沸き起こった甘やかな情動は依然として胸にとどまり続けている。
それはいつも獲物を前に感じる高揚感とは趣を異にする、まったく異質なものだった。
(いくら哀れで無防備な獲物を目の前にしていると言っても、緩み過ぎだ)
憮然とした顔の裏で己を叱咤し、感情のさざ波を押さえ込んでいるプッチンの胸中など知らぬげに、晋之介はふと部屋の隅で赤々と炎を燃やしているペチカへ目をやった。
全体的に首相官邸の応接室とは思えぬほど簡素な部屋だが、ペチカだけは場違いなほど大きく、民族的な意匠が施されている。
「立派なペチカですね。美しくて、しかもこの広い部屋をしっかりと暖めてくれている」
「我が国は少々、貴国よりも寒さが厳しくてな。異国からの訪問者には堪えるらしい」
「はい、確かに寒いです」
晋之介は頷いて、窓の外へと視線を移した。
「特に、この十日ほどは強い寒波が押し寄せていて天候もずっと崩れているそうですね。ご存知でしたか?」
「この時期では別段珍しいことではない。何の関係が――」
「海も荒れていたそうです」
晋之介は、テーブルに広げた資料をそっと掬い上げた。
「衝突時、あのあたりの海域では時化が続き、濃い霧が発生していたそうです」
「それは報告書の中にあった。濃霧と時化のせいでお互いを見つけるのに時間がかかり、衝突を回避することができなかったと。だが、それは領海侵犯を犯した理由には――」
「時化と濃霧は前日から続いていました」
晋之介が思いがけず強い口調でプッチンの言葉を遮った。
「その時化により、我が国の船――山吹丸は接触事故の一時間前に、別のロシア漁船と接触事故を起こしていたのです」
「……何?」
「その漁船は密漁船でした」
プッチンはわずかに目を見開いた。
「衝突の衝撃で山吹丸のエンジンは破損。ただちに救難信号が発信されています。山吹丸は時化に流されて一時間後、再び別のロシア漁船と接触事故を起こしました……」
:ドンッ!
鈍器を固いものに思い切り叩きつけたような衝撃音が部屋の空気を震わせた。プッチンが握りしめた拳をテーブルに叩きつけた音である。
「言うに事欠いて、我が国の密漁船だと!? 貴様……ならばその船はどこだ、現場に沈んでいるとでも言いたいのか?」
「密漁船は接触後、速やかにその場から逃走したそうです」
「ほう、それは都合のいい話だな」
「我が方ではそのような報告は一切ありません、閣下!」
無言の威圧を感じ、側近が慌てて首を横に振る。
「ロシアの地は広大だが、私の度量はそこまで広くはない」
プッチンの胸筋が憤激に盛り上がり、シャツとスーツのボタンがまとめてはじけ飛んだ。
「言葉には気をつけろ、アベ。私の前でよた話をして無事に済むと思うな」
「よた話ではありません」
晋之介はまっすぐにプッチンを見据え、首を振った。額には汗が浮かんでいる。
「密漁船との接触の際、相手の船からは船員が二名、海へと落ちました」
「何だと……」
「船員は山吹丸に救助されています。先に救助された方の船員はおぼつかない日本語で何度も繰り返したそうです。仲間を助けてくれ、と」
晋之介は手にしていた資料を差し出した。プッチンは無言で受け取り、さっと目を走らせ、側近へと放り投げた。
「この聞き取りを行ったのは誰だ」
「僕です」
晋之介は微笑んだ。
「ここへ来る前に、山吹丸の船長さんが収容されているところへ行き、直接話を聞かせてもらってきました」
「……」
「山吹丸の船長室に備え付けられているレコーダーに、密漁船の船員とのやり取りも残っています。それも、直接確認しました」
ビシッ!
テーブルについたままだったプッチンの拳から、放射状の亀裂が大理石の天板に走った。
青を通り越して白い顔になった側近がわなわなと震えている。
「か、閣下……」
「失せろ」
プッチンは食いしばった歯の隙間から声を絞り出した。
「私が貴様の首をねじ切る前にな」
凍り付いた側近には目もくれず、プッチンは大きく深呼吸すると晋之介へ向き直った。
晋之介と目を合わせた時には、既に激情を完璧に押さえ込んでいる。
「……失礼した。資料はこちらで確認させていただく」
「我が国の見解では、これは天候不良がもたらした不幸な事故であると認識しております」
よどみなく喋る晋之介からは、相変わらず線の細い印象は抜けない。しかし対峙するプッチンには、その物柔らかな外見の内側にある恐ろしく強靭な芯が見えていた。
(……確かに、若くして一国を背負うだけの胆力はありそうだな)
「つきましては、接触事故を起こした船舶と船員の早急な返還を……」
プッチンの視線の先で、テーブルに置いた別の資料に手を伸ばした晋之介の身体がぐらりと揺れた。
「あ……」
「――危ない!」
気が付いた時には、反射的に体が動いていた。
テーブルを敏捷に飛び越え、倒れこむ晋之介の身体を受け止める。プッチンはほぼ一挙動でそれらをやってのけた。
かつてロシアの特殊部隊「スペツナズ」で最速を誇った身体能力はいまだ健在である。
「……う、ううっ」
プッチンは抱き留めた晋之介の身体が燃えるように熱く、そのくせがたがたと震えていることに気が付いた。
「何だこの熱は……貴様、こんな状況で交渉の席に……?」
「す、すみません」
晋之介はガチガチと歯を鳴らしながら視線をさまよわせた。
「先ほど、聞き取り調査を直接行ったと言っていたな。貴様、収容所に何時間いた?」
晋之介は震える指をプッチンの手に重ねて、うつろな瞳で見上げた。
「お願いです……山吹丸の船員たちの、待遇改善を……」
「ヴィクトル!」
ドアの傍で震えていた側近が、飛び上がるように駆け寄ってきた。
「はい、閣下!」
「熊のミーシャを連れてこい」
プッチンはスーツの上着とシャツを脱ぎ捨てると、ぐったりとした晋之介を抱えて立ち上がった。
「私は仔ウサギの実力を見誤っていたようだ。その礼はさせてもらうぞ、シンノスケ……アベ」
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