1 / 1
空色の雨傘
その人はかわいくて変なお兄ちゃんだった。
田舎のばあちゃんのタバコ屋の店先、祖母ちゃんが昼ご飯を食べる間だけの一時間半の土曜日の店番は、俺の小遣い稼ぎだった。
今なら中学生がタバコなんか売ったら祖母ちゃんが警察あたりから大目玉を食らいそうだが、なんせ三十年も昔の話だ。世間はタバコに寛容というか、ユルユルだった。
店番の後は、母ちゃんか父ちゃんが迎えに来るまで時間をつぶす。ちゃんと宿題もやるんだ。
今は梅雨。外は雨。
奥で祖母ちゃんが連続ドラマの再放送を見ている音と目の前の雨音を聞きながら、俺は祖母ちゃん手づくりの座布団の椅子に座って客を待つ。
「セブンスター一つって、繁ちゃんか。婆ちゃんは昼休み?」
傘を差した常連さんがやってきた。
「そうですよ、奥でドラマ見てるみたい。はい、セブンスター一箱」
金額を言わなくてもお互いわかり合っている。本当は顔を見ただけで銘柄までわかるほどの常連だし、注文は有名銘柄だ。
お金をやりとりして「毎度ありがとうございましたー」と送り出す。雨なのに傘の中ですぐに封を切って吸い出すから、流れる煙の香が微かに届いた。
ごほごほっ
誰かの咳の音がした。首を伸ばして店の外を覗くと近所の高校の夏服のお兄ちゃんが学生鞄ときれいに巻かれた傘を持って立っていた。ぼんやりと空を見上げている。
(客じゃねぇな)
田舎なのでタバコの自販機はほとんどない。跳ねっ返りの高校生がタバコを買いに来ることもあるが、制服を着ていれば絶対に売らないし、そうじゃなければ祖母ちゃんを呼ぶ。売るか売らないかの年齢の見定めは祖母ちゃんの仕事だ。
それにしても軒の隅っこで何をしているんだろう。傘を持っているのだから行く先があればさっさと歩き出すはずだ。
「ねえ、あんた、何してんの? 待ち合わせ?」
窓口から顔を覗かせて大声で訊ねた。
「ひゃっ」
お兄ちゃんはびくんとすくみ上がって俺を見た。目がまんまるで大きい。女の子みたいな可愛い顔をしている。
「すみませんっ」
お兄ちゃんは傘を手に握ったまま雨の中に走り出した。
(悪いことした?)
白いシャツの背中を見て俺は申し訳ない気持ちになった。
「どうした、繁?」
祖母ちゃんが出てきた。
俺はさっきの高校生の話をした。
祖母ちゃんはうんうんと頷いた。
「最近毎日来るんだよね、あの子」
「毎日?」
「学校帰りなんだろうね。雨の日の夕方に来るんだ。今は梅雨だから毎日ってわけ」
「じゃあ今日は土曜だから早いんだな。今まで知らなかったよ」
「静かな子だからね。さ、ありがとよ。代わるよ」
俺は祖母ちゃんに場所を譲った。
次の週の土曜日も、あのお兄ちゃんはいつの間にか軒の隅っこに立っていた。
俺はお兄ちゃんが立ちっぱなしに疲れているのかもじもじしているのに気がついた。
「はい、椅子。座ったら?」
俺は木のスツールをお兄ちゃんの横に置いた。
「ひっ」
また跳び上がるほどびっくりしている。だが、今日は雨の中に逃げ出してはいかなかった。
「ありがとうございます」
案外と可愛い声で俺に丁寧に頭を下げると、素直に腰を下ろしほーっと息を吐いた。
「じゃ、俺は店番に戻るから」
客の九割は常連のこの店で、誰もあのお兄ちゃんのことを何も言わない。もう風景の一部と化しているのだろうか。
祖母ちゃんが店に出てきたので、俺はお兄ちゃんのところへ行った。
「誰か待ってんの?」
直球で聞いてみた。お兄ちゃんは座ったまま俺を見上げ、また雨に目を戻した。
「はい」
「ふーん」
訊きたいことは訊いたので、奥に戻ろうとした俺にお兄ちゃんは言った。
「この傘を貸していただいたんです。だからお返ししたくて」
「律儀だねぇ」
持ち手が竹で空色の生地の高そうな傘だ。返さなくてはと思うのもわかる。それでも祖母ちゃんの話では一年近くここに通っているらしい。普通なら諦めるだろう。
「ここで待ってるってことは、ここで会ったの?」
「はい、ここで雨宿りをしていて借りました」
なら常連の誰かか?
「車から降りてみえて『貸してやる』って差し出されて――」
俺は常連じゃないなと思った。農家の多いこの町で車にこんないい傘を積んでいるなんてあり得ない。観光客? そんな人めったに来ないし、大していい景色もない。ただ、峠だけは蜜柑の木々の間から山裾から海へと続くなだらかな町並みが見えて、俺も割と気に入っている。雨に煙ると海は見えなくなるがそれはそれでいっそう風情があるのだ。
「お兄ちゃん、家はどこなの?」
お兄ちゃんは不思議そうに俺を見上げた。
「峠の向こうに――」
どうりであまり見かけない顔だと思った。
もう話したくなさそうに見えたので、今度こそ俺は引っ込んだ。
暗くなった頃、車が店の前に止まる音がした。
「わかば」
低い男の声がした。祖母ちゃんがいつもより丁寧に応対している。馴染みの客ではないのだろう。
『来た』
家の中なのに、あのお兄ちゃんのうれしそうな声が聞こえた気がした。その声は決して大きくないのに。
車が去る音を聞いてから外を覗くと、木のスツールが店の出入り口の中に置いてあった。
(傘を返したのかな)
でもそんな会話は聞こえなかったと思う。では車に乗せてもらったのか? 外はもう暗い。
そこで俺は気がついた。お兄ちゃんは雨なのにいつも返すための空色の傘しか握っていなかった。自分の傘を持っていないのだ。
それから二、三十分も経った頃だろうか、火事の時の半鐘が鳴り響いた。
「何があったんだい?」
祖母ちゃんが近所のどこかへ走る男衆に怒鳴っている。
「峠の崖から車が落っこちた」
それからは大騒ぎだった。だが夜だし、雨で地面はぬかるんでいるし、峠道は狭いしで、警察が車の落ちた現場の斜面を確認できたのは翌日のことだった。
落ちていたのは、祖母ちゃんがタバコを売った男の車だったそうだ。
車の中には三人。後部座席には高校生が手首、足首を縛られて転がされており、運転席と助手席に三十がらみの男たちがいたという。車のフロントガラスに古びた空色の傘が突き刺さり運転席の男の喉を潰していて、助手席の男も外の蜜柑の木の枝が胸に突き刺さって絶命していたという。
後部座席の少年はふたりにさらわれたのだった。雨の中傘を借り、人目のないところで車に押し込められた。幸いにも手首を縛った細いロープがドアロックに引っかかり、車の外に投げ出されずにすんだらしい。
そして、車の落ちた場所に死後一年ほどと思われる白骨死体があったのも騒ぎをいっそう大きくした。
峠向こうの家から「預かっている親戚の男子高校生が帰ってこない」と一年前に届けが出ていたこともわかった。
そして何より、生き残った少年の話が奇怪だった。
雨宿りをしていて、高そうな水色の傘を借り、歩いていてさらわれた。男たちはどこで少年を犯すか相談していて、絶望していたときに車が急に止まったと言った。ブレーキを踏んだようではなく突然動かなくなったのだと。
その時フロントガラスいっぱいに人の顔らしきものが映り、頭に声が響いてきて――
(よくも陵辱して投げ落としたな。この恨みはらさでおくべきか。借りた傘も返してやるぞ)
そして車が崖から落ちたのだという。
新聞社やテレビ局といった連中が去り、町がようやく静かになった頃、俺は祖母ちゃんに座るように言われた。あらたまった話のようで正座をすると、祖母ちゃんが話し出した。
「あの子が見えていたのは、わしとお前のふたりだけだったんだよ、繁」
驚きと同時にやはりと思った。雨の日に借りた傘一本しか持たず、雨の中に飛び出しても肌に張り付かなかったワイシャツの夏服。
「お前に悪さをするようならお祓いを頼むことも考えたが、お前が優しくしたらあの子はそれに応えた。だからそのままにした」
俺は口を引き結ぶ。
「恨みを晴らすことがよかったかどうかは、人であるわしらにはわからんことだ。だから、このことを他人に話しちゃいけない。わかったね」
黙って頷いた。
そして祖母ちゃんのところの仏壇にふたりで並んで手を合わせた。
(あの人がちゃんと成仏できますように。できることなら次の生は幸せに長生きできますように)
その夜はなかなか寝付けなかった。やっととろとろし出した頃、やさしく名をよばれた。
『しげるくん、繁くん』
目を開ける前から誰の声かわかった。こんなにやさしく俺の名をよんでくれるのはあのお兄ちゃんしかいない。
『あの時は椅子を貸してくれてありがとうね。話しかけられるなんて思わなくて驚いてごめんね』
「気にしなくていいよ。お兄ちゃんは大丈夫なの?」『大丈夫。大丈夫だよ。心配しないで』
死んだ人の本当のところは俺にはわからない。でも大丈夫じゃないのかもしれない。
「俺、いろいろ考えたんだけど、お兄ちゃんはいいことをしたんじゃないかな」
『え?』
その顔はこわばっている。俺は祖母ちゃんと話した後に考えたことをそのまま口にした。
「あの、別のお兄ちゃんを助けたじゃないか」
お兄ちゃんは口を手でおおった。
「あいつらは地獄にでも堕ちて酷いひどい罰を受けるだろう。でもその最後の一回分の罪はお兄ちゃんが止めたんだ、自分を犠牲にして」
お兄ちゃんの顔が歪んで、涙がぽろぽろこぼれた。
「恨みの気持ちが強かったのかもしれないけど、それはそれで償うのかな? おれにはよくわからないけど。でも、全部が全部間違いだったと思わなくていいよ。俺はそう思う」
お兄ちゃんは両手で顔をおおって声を上げて泣いた。
頭を撫でてあげたかったけど、手は空を切った。だから俺はお兄ちゃんが泣き止むまで、その顔を覗き込んでいた。
『ありがとう』
泣きやんだお兄ちゃんはさっきより明るくほほえんだ。
『繁くんの言葉ではげまされたよ。もう怖くない』
「よかった」
『ありがとうね』
お兄ちゃんの体がだんだん淡くなる。
『軒先を貸してくれたお祖母様にも御礼を伝えてください、やっと行けますと』
「わかったよ」
俺は消えていくお兄ちゃんに手を振った。
「縁があったら、また会おうね!」
『ありがとう。ありがとう、繁くん。さようなら』
「さようなら、聡お兄ちゃん!」
報道で知った名前を呼ぶと聡お兄ちゃんは目を丸くした後、また泣きそうな顔をしてからしっかりと微笑み、消えた。
はっとしたら、目覚まし時計が鳴っていた。寝覚めはとてもすっきりしていた。
(寄っていってくれたんだな)
そう思うと俺は安心できた。
自宅の仏壇に線香を上げ、手をあわせる。
(どうか聡お兄ちゃんがこれから幸せに過ごせますように)
心の底からそれを願った。
あれからもう三十年。
俺は今も梅雨が来ると仏壇にそう祈って手を合わせるのだ。
――了――
ともだちにシェアしよう!