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第1話:水野一生という男

 厚い雲が空を覆い、目に映る景色は陰鬱として仄暗い。  パタッパタッと大粒の雨が窓に水滴を付けたかと思うと、すぐに本降りとなって街を霞ませる。  蒸し暑く湿気の多い廊下をペタリペタリと底の薄いサンダルで歩けば、反響する足音が冴えた頭に響いて妙に苛ついた。 「マスコミが集まっているが、目隠しが張ってある。止まらず車に乗りなさい」  言われ、スウェット姿の少年は無表情のまま小さく頷いた。  ギィと軋んだ音を立てて鉄製の扉が開くと、聞こえたのは雨音ではなく、一斉にバシャバシャと焚かれるストロボの音だった。  絶え間なく焚かれるフラッシュが、目隠しのブルーシート越しでも眩しく感じられる。  雨と、無数のフラッシュと、それに混じる何人もの興奮したような人の声。  それでもたじろぐ事は無く、少年はしっかりとした――ともすると怒気を孕んだ足取りで用意された車両へ進んで行った。 「志藤会(しどうかい)の構成員を刺殺した少年が、いま、警察車両へと乗り込みました!」  ずぶ濡れのリポーターが、雨に負けじと声を張り上げる。  思えば、転機はいつも梅雨に訪れていた。 ***  早朝からしとしと降り始めた雨は昼頃に豪雨へ変わり、今や梅雨らしからぬ暴風雨となってアスファルトを叩きつけている。つい数分前からは雷も加わり、スコールさながらの荒天となっていた。  地上52階建て高層ビルの、上層10フロアを占める五つ星ホテル。最上階のスイートルームは、さすがに空が近い。  バチバチ窓を打ち付ける雨音と不定期に響く落雷の轟音が煩わしく、水野一生(みずのいっせい)は英字新聞から苛と目を離し、かけていたハーフリムのスクエア眼鏡と一緒に乱暴にサイドテーブルへ放り投げた。 「……鬱陶しいな」  革張りのカウチから立ち上がり、きっちりと絞めた藍色のネクタイを緩めながら窓際に移動する。いつもなら美しい夜景が眼下に広がっているのだが、この嵐である。視界に映るのは、霞みがかった中にぼんやりと光る街の灯りと、絶え間なくガラスを濡らす乱暴な雨滴だけだ。  チッと短く舌打ちをすると、呼応するように空が光る。  激しさを増す雷光は無遠慮に焚かれるストロボフラッシュのようであり、まるであの時みたいだと再度小さく舌打った。  指定暴力団桜東(おうとう)組若頭。  それが水野一生という男の肩書きである。  水野が初めて人を殺したのは、十五の六月。篠突く雨が長く続く、そんな時期だった。  ろくでもない両親がギャンブルで作った借金の取り立てに来たチンピラを二人、包丁で刺し殺した。 『性的暴行を加えられた少年が、暴力団構成員二人を刺殺』  そんなセンセーショナルな見出しのニュースはすぐに世間の注目を浴び、やれ生い立ちがどうの、親がどうのと騒がれたが、水野自身はさほど気にとめてはいなかった。水野にしてみれば、襲われたことで自分の中に芽生えた感情の方がよほどセンセーショナルだったからだ。  両の手足を拘束され、口を塞がれ、首を絞められ、ヘラヘラ笑うチンピラ風情の男二人に力ずくで犯される。  きっと事が済んだら殺されるだろうと、そんな状況の中で唐突に芽生えたのが、死んでたまるかという強い生への執着だった。  学校もろくに通わず、野良猫のような目付きをして、いつ死んでも構うものかと半ば捨て鉢に生きていた自分に、そんな想いが湧き出るとは思っていなかった。  死んでたまるか、生きてやる、生き抜いてやる。  半狂乱に叫びながら、気付いた時には既におんぼろアパートの一室は血の海で、男二人はこと切れていた。  血溜まりで動かない男たちを見下ろしながら、水野は返り血を浴びた口元をいびつに歪ませた。 ――やった。生きてやった。  それから間も無く隣人の通報により逮捕され、過剰防衛であったものの情状を考慮されて少年刑務所に入ること五年。  出所の日も、やはり長雨が続いていた。  傘もささずに歩いていた水野に声をかけたのが、桜東組の組長だった。  なんでも水野が殺したチンピラが以前に桜東組のシマで商売をしたらしく、オトシマエの手間が省けた礼をとかなんとか言っていたが、要はスカウトであった。「どうせ行く所もねぇだろう」とそう言って、立派なスーツを着た初老の男はニヤリと笑った。  行く宛など当然あるはずもなく、二つ返事で快諾し、以来二十年余り世話になっているが、水野はずっと必死だった。  生き抜くことだけを考えて、必死になって裏稼業に食らいついた。 「今の世の中、学がねぇといけねぇ」そうオヤジに言われ叩き込まれた英才教育は凄まじく、期待に答えなくてはという重圧もそれに比例して半端なものではなかった。  おかげで国立大に合格し経済学を身につけ、4ヶ国語を操り、組の『頭脳』として動き、画策し、若年ながら若頭のポジションまで上り詰めた。  死んでたまるか。生きてやる。  水野を奮い立たせるのは、いつもその想いだけだった。

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