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第1話 おとなの人

 ねぇ、先生。 「内緒にする。先生」  手伝って欲しいんだ。 「内緒に、して欲しい? 先生」  俺の初恋を綺麗なままにしたくない。ぐちゃぐちゃでかまわない。汚くていい。誰にも触られなくないから、綺麗にしときたくないの。  汚れてたら、誰も触らないでしょ? 「内緒に、してあげるから、先生」  キラキラピカピカな綺麗な初恋じゃなくていい。 「俺のこと、また葎って呼んでよ」  キスしたかった。ずっとずっと、先生のこの唇にキスを――。 「先生」  どうしよ。酔い止めを飲んでくればよかった。 「っ……っ」  気持ち、悪い。  一時間目の体育、やっぱり休めばよかった。先生だって、きっと休ませてくれた。  トイレの個室に入れば、吐いちゃうとこは見られないかな。でも、個室なんて出てくるとこを見られたら、それも笑われちゃいそうだし。どうしよう。どうしたら。  気持ち悪い。 「葎、どうかした?」 「……」  シュウ君だ。なんでもないって、言うのも無理そうで首をただ横に振った。口を押さえながら、外の空気を吸いに行こうと思ったんだ。 「葎?」 「んーん」  それだけをどうにか言って、少し外へ――。  最近、酔い止め飲まなくてもどうにかなってたのに。  っていうかさ、バスの中で、あの、あんな変に甘い、甘い果物が腐ったみたいな匂いがしたからだ。あれが気持ち悪くさせたんだ。 「っう」  その匂いのことを思い出したら、急にまた来た。ずっとあった吐き気が悪化して、胸のところがムカムカしてきて。  もう……そう思って、保健室へ急ごうと思ったんだ。保健室、保健室って、慌てて。 「っんんっ」  無理かも。でも、でも。出せないよ。廊下に人がいっぱいいる。クラスメイトがあっちこっちに。 「大丈夫か?」 「!」  一瞬、目の前が陰って、そして、頭の上から聞こえてきた低い声。  僕は口元を一生懸命両手で押さえながら、その陰を作った正体を見上げたんだ。  知らない大人。ネクタイしてるから、たぶん、先生? 「吐きそうなのか?」 「っっっ」 「水道がある」 「んんんんっ」  手は口をきつく押さえつけたまま、頭をブンブン横に振って、そしたら余計に気持ち悪さが増したけど、水道のとこなんかで吐いちゃったらってどうにか頑張って。 「平気だ」  や、やだってば。なんだよ。やめてよ。誰かに見られたら笑われる。 「っんん」 「ほら……」  背中を大きな手がさすってくれる。ゆっくり、ゆっくり。あったかくて。 「吐けそうにないか?」 「っん、ん」 「保健室まで持たないだろ。顔が真っ青だ」  四年生の教室は少し遠い。一年の頃は教室を出てすぐが保健室だったけど、四年生は一階まで降りないといけなくて。 「少しだけ、我慢な。大丈夫、他の子には見えないから」 「ん、んんんんっ」 「力抜いてろ」 「っんーっ! げっほ、ん、ごほっ」  汚い、でしょ? 僕の口の中に、指、なんて、したら、汚いよ。 「気にするな。力を抜いて、そのまま」 「んんんんっ」  ベロをぐって押されて、苦しいよ。苦しくて、そして押されたからなのか、胸のとこのムカムカが一気に込み上げてくる。お腹の底までひっくり返ってしまいそうなものすごい勢いで。 「んんんっー!」 「平気だ。大丈夫」 「ん、んっ、ん」  内側を掻き混ぜられる。 「んんんんっ」 「……楽になっただろ?」  先生の手、汚れっちゃったよ? 「は、はぁっ、はっ」 「無理やりしてすまないな。戻せなくて苦しそうだったから」 「ごめっ」 「いいから。うがい、できるか?」  頷いて、うがいを二回。それから、ハンカチをくれた。青いチェック柄のハンカチ。そして、その先生が口のとこを拭ってくれる。ハンカチ持ってていいって、笑って、僕が汚してしまったんじゃないほうの手で頭を撫でてくれた。額に触れて熱はなさそうだって、また笑って。そして自分の手を洗うついでに、僕が汚した流しを綺麗にしてくれた。 「あ、あの、これ、どうぞ」  僕にハンカチを渡してしまったから、先生は手を拭うハンカチがなくなってしまって、だから、貸してあげたんだ。 「あぁ、悪いな」 「……ううん、あの、ごめんなさい、その」  僕のハンカチを。この前動物園に行った時に買った、シマウマのハンカチタオル。子どもっぽいそれがちっとも似合わない人。 「気にするな。歩けるか? 保健室まで」 「あ、はい」  背が高い。 「ハンカチ、気にしなくていいからな」  僕よりずっと大きな手。 「それにしても、ここの学校はでかいな」  あと、あったかい手。 「まだ全然覚えられてない」  あの手に、指に、さっき、ベロ、触られた。いっぱい、触られた。 「ほら、着いたぞ。先生、いらっしゃいますか?」  その人が僕の背中をずっと支えてくれた。大きくて、あったかくて、椅子の背もたれよりもずっとあったかい手が歩くのを手伝ってくれていた。  保健室の扉を開け中にいた先生に、吐いてしまったこと、顔色が悪かったこと、うがいをさせたこと、それと熱はなかったこと、たくさん僕の代わりに話してくれる。あの大きな手で、僕の熱を測ってくれたんだ。 「じゃあ、あとは先生が見てくれるからな」 「……」  大きな手で頭を、ポン、ポン、……って。行ってしまう大きな背中に大きな白いワイシャツ。 「はーい、そしたらね、少し横になろうか。洗面器置いておくから、様子しばらく見てようか」 「はい……」 「ん? 吐きそう?」  僕がハンカチで口元を押さえてたからだ。違うの。なんかね。 「平気、です」 「そう?」  ハンカチ、良い匂いがする。なんだろ、これ、すごく良い匂い。 「寝ててもいいですか?」 「どうぞー。またしばらくしたら様子見に来るからね」  あの先生の匂いが、すごく――。 「……は、ぃ」  すごく――。

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