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第2話 小さな名探偵
「お前、大丈夫だったか?」
「あ、シュウ君、うん、ありがと」
保健室で二時間目は丸ごと寝てた。車酔いだろうって。熱もないし、もう吐くこともないだろう。顔色も大丈夫。そう診てもらって、教室に戻ってきたのは四時間目の途中。
「昼飯食えそう?」
シュウ君に心配をかけてしまった。同じクラスの友だち。足が速くて、勉強もできて、真っ白で細い僕なんかに比べたら、あれもこれもできてしまう、お兄さんみたいな同級生。そのシュウ君がとても心配そうにしている。
「うん。大丈夫」
「そっかぁ」
「あ、あのさっ、さっき知らない先生に保健室に連れていってもらったんだ」
あの先生はどこの先生だろう。シュウ君にだってわからないことはあるだろうけれど、初等科の先生じゃないのはたしか。あと特別科目の先生でもない。それなら。
「背が高くて、若い先生」
「えー? そんなん、たくさんいるじゃん」
うん、そうだよね。四時間目が終わった直後、職員室に行ったけれど、あの先生の姿は見かけなかった。何人かに声をかけたけれど、若い男の先生っていうだけじゃ、誰のことかわからなくて、首を傾げられてしまった。そして、四時間目が音楽で教室移動だったから、その後もバタバタしちゃって。
「それより早く給食、手、洗いに行こうぜ」
「あ、うん」
先をスタスタ歩いていってしまうシュウ君の後を小走りで追いかけて、手を洗って、そこで、ぴたっと止まった。
そうだ。僕のハンカチ、あの先生に貸してしまったんだ。
「……」
あの先生が持ってるんだ。
「葎?」
僕のハンカチを。
そう思ったら、あの爽やかなのに落ち着く匂いが、鼻先にほんの少しばかり残ってる気がした。
「ただいまぁ」
どこの先生なんだろ。カッコ良い先生だった。あんなにカッコいいんだから、女子が騒ぎそうなのに。
「おかえりぃ」
キッチンのほうからお母さんの声が聞こえてきて、ただ今ともう一度行ってからランドセルを置きに部屋へ。それから手を洗って……。
とくにイケメンな先生が来たっていう噂は聞いたことない。じゃあ、中等科か、高等科の先生なのかな。
職員室は全部の先生がいるけれど、なんか、中高のほうは先生が怖い感じがして、あんまり行ったことないんだ。
会議とかさ、全部の先生でやることとかないのかな。そしたら、イケメン先生って言えば誰かわかったりしないのかな。
ほら、ハンカチ返さないといけないでしょ? だから、その。
もう自分のうちだから、スン、って匂いをかいでみる。なんだかこれじゃ僕って変な人みたいだけど、だって、すごく落ち着いたんだ。あんなにクラクラして、胸のところが焼けたみたいに変な感じだったのに。
「?」
あれ? なんか、匂いがさっきと違う。
なんで? 僕のランドセルに入れちゃったから? 貸してもらった時はもう少し苦い感じがしたのに。あれに似てた。グレープフルーツとかを絞った時の匂いみたいな。でも苦いのに、すぅって、胸のところのイガイガして焼けた何かがあの匂いで落ち着いてくれたんだ。
「……」
もう一度、鼻先をそのハンカチに埋めて確かめてみると、ほら、やっぱり違う。なんだか、甘い? のかな。シロップを少し混ぜたみたいな。
「あら、ハンカチ?」
「! あっ、うん。今日、吐いちゃったんだ」
洗面所、洗濯機の前に突っ立っていると、お母さんが様子を見に現れて、俺はハンカチを慌てて口元から離した。
「え? なんで? 車酔い飲まなかったの?」
「うー、ん……ちょっと、飲まなかった。平気かなぁって」
お母さんは、「んもー」って溜め息混じりに言われちゃった。だって、平気だと思ったんだもん。それにバスのせいじゃないし。あの変な匂いのせいだし。
「それ、借りたの? 担任の先生?」
「ぁ、ううん。違う。知らない先生」
「洗っておいて上げるから、洗濯カゴ出しておいて」
洗わずに返す、なんてつもりはないけど。
洗ってもらえたら、ちゃんと返しに行く理由になると思ったんだけど。
「……うん」
でも少しもったいないなぁって思った。
洗っちゃったら、もうあの匂い、取れちゃうんだって、少し、残念だなぁって思った。
「ほら、宿題やっちゃいなさいね」
「うん。わかってる」
だってさ、吐いちゃったのに、ちっともイヤな顔をしないでいてくれた。
「……はぁ」
僕の、ハンカチに発信機が付いてたらいいのに。この前見たアニメみたいに、発信機がついて、あとはその信号を追いかければいいだけ、になってたら、あの先生のとこにとても簡単にいけるのに。
「名前、訊けなかった……」
机の上に突っ伏して目を瞑った。自分の手を頭に乗っけて。
当たり前だけれど、小さい手。あの先生の手と全然違う。目を開けて、今自分の頭に乗っけた自分の手を眺めてみる。
「大きかったなぁ」
それと、とてもあったかかった。
――ちゃんと返すの忘れないでね。
わかってるってば。
お母さんが洗ってくれたハンカチを奪うようにして自分でアイロンかけした。先生に借りたんなら、ちゃんとアイロンしないとよって言われたけど、でもちゃんとできたもん。
僕が借りたんだから、僕がアイロンかけたい。そんで、返さないと。
中等科? それとも高等科? でも、先生の数も多いからちっとも。
「……」
「はよー、葎」
ホント、多いんだ。中等科、高等科も合わせたらもう大変な数の先生がいて、イケメンとか若い先生とか言ったってわからない。もちろん生徒だってたっくさん。
ここの学校はでかいなって言ってた。まだ来たばかりなのかもしれない。でも、今、二学期が始まったばかりなのに?
この二学期の初めに? 進級とかのタイミングでもないのに?
「葎?」
「そっか!」
「? 葎?」
「なんでもない!」
「? ちょ、おい! 葎! また気持ち悪いのか?」
そっかそっか、そうだそうだ。
「だいじょうぶー!」
そう、二学期の初め。今は九月。新しい先生がやってくるのは大体四月、でしょ? だから、こんな中途半端な時期に来るって、あんまりないと思う。
「お、おい、そんな急に走ったら、また気持ち悪くなるぞ」
「大丈夫!」
あれは、朝のバスの中で変な甘い匂いがしたせいで、別に身体の調子が悪いんじゃないし。保健室でもずっと平熱だったし、ぐーぐー寝てたし。
「おはようございます!」
ランドセルの中の筆箱をガシャガシャ騒がしく鳴らしながら飛び込んだのは職員室。初等科のところじゃなくて、こっちの、いつもは用事なんてない、ちょっと怖い感じがする中等、高等科のほう。
うちは小中高の一貫校。
校舎だってものすごい大きさ。学校内にグラウンドと体育館が一つずつ。でも高等科が使うグラウンドと体育館が別の敷地にあるくらいのマンモス校。
そしたら、先生だっていっぱい。小中高のどこかにいる。名前も知らない。若い男の人の先生、なんて手がかりくらいじゃちっともわからない。
でも、手がかりが一つある。
「あ、あのっ」
今は、九月。だから、九月から来た先生っていえば、誰のことなのか、わかると思う。ね? きっと、これであの人を見つけられる。
「あのっ、九月から来た先生をご存知ないですか? えっと、昨日、具合が悪くてハンカチをお借りしたんですっ」
目の前にいた眼鏡が少しズリ落ちたおじいちゃん先生が目を丸くしていた。なんの教科の先生だろう。国語、とか? 社会とか?
「えっと、四年二組の、渡瀬律(わたせりつ)です。お借りしたハンカチを返したくて」
「四年生か、じゃあ、あそこは初等科四年の階だったわけだ」
「!」
低い声。
「体調は良くなったみたいだな。そんな元気に職員室入ってきたんなら」
頭の上に大きな手。
「ハンカチよかったのに」
先生がいた。
――その時はまだわかってなかった。けれど、その人は、僕の、僕だけの先生になる人だった。
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