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第3話 不貞腐れ屋はご機嫌が良い
高等科の数学の先生なんだって。高等科の先生が妊婦さんになったから、代わりに来たって教えてくれた。
数学、だから、算数の先生。
「直江(なおえ)、先生」
名前は直江宗司(なおえそうじ)先生。
「あぁ」
先生を呼ぶと低い声が返事をしてくれた。初等科の先生とは全然違う、低くて、大人の人っぽい声。大きい声を出されたら、大迫力でびっくりしてしまうかもしれない。
「あの後、大丈夫だったか?」
「はい」
「そっか。ならよかった」
顔は、少し怖い。ハンサムだけれど、一重だからか睨まれたらとても怖いかもしれない。
「あぁ、そうだ。俺も借りてたな」
でもやっぱり、ハンサムだ。
「あ、あの、直江先生」
シマウマの、ハンカチタオル。白と黒の縞々で、真ん中のところに黒いマルが三つプリントされている。目と鼻の黒い丸ぽち。
ハンサムでカッコいい直江先生にはちょっと似合ってない僕のハンカチ。
「あの、ありがとうございました」
「あぁ」
「これ、アイロンかけたの僕なんです。だから、ちょっと皺が」
「へぇ、上手いじゃないか」
「!」
頭、撫でてもらってしまった。
褒めてくれるかなって思ってアピールしたんだ。ハンカチのアイロンかけしたんですって言ったら、優しく褒めてもらえて、僕の印象が良くなるかなって。
「気にしなくてよかったんだぞ」
「い、いえ! そんなっ」
大きな手。今日は、シャツが縞々だ。僕のハンカチと同じ縞々模様。
「……クス」
あ。
「いいのか? そろそろ朝の予鈴なるぞ?」
「え? ぁ、ホントだ」
笑った。
先生が笑った。
「廊下、走らないように」
「は、はい!」
頬杖をついて、僕を見て目を細めた先生が、飛び上がって駆け出した僕に手を振ってくれてるのが見えた。あの大きな手がヒラリヒラリって、左右に揺れて。
素敵で。
前言撤回だ。
ちっとも怖くない。
「あぁ、そうだ」
「! はい」
「名前、なんだっけ?」
笑ってくれた。名前を尋ねてくれた。ドキドキして暴れてる心臓につられて、爪先立ちになってしまいそうなくらい。
「葎です! 渡瀬、葎!」
「……葎」
先生はハンサムで。
「アイロンがけ、ありがとうな」
「!」
低い声は怖いどころかとても優しかった。
「葎、お前なぁ」
「うん。なぁに? 直江先生」
「……」
なになに? 何か手伝うことある?
「……子どもは風の子、って知らないのか? 外で遊べ、外で」
「今日はお外遊びは控えましょうって先生に言われてる」
九月なのにまだまだ夏で、今日もお昼頃には四十度近くまで気温が上がる予報になっていた。だから、外遊びは控えて教室や図書館で時間を有意義に過ごしましょうって言われたんだ。
「ね? ここで、有意義に過ごしてる」
「あのなぁ」
勉強してるんだもん。算数。数学の先生なら教えてくれるでしょ? 数学は算数の仲間じゃん。
うちは小中高と一貫校ですから、そのうち直江先生に教わることもあるもんね。だったら今から教わって、たくさん勉強して飛び級できたら、もっとずっと早く教えてもらえる。ね? 僕、頭いいでしょ? 飛び級できちゃいそうでしょ?
「ったく」
溜め息混じりそうぼやいて、一生懸命に机に齧りつく僕の頭を撫でてくれた。
嬉しい。
今日二回目だ。撫でてもらったの。昨日は三回撫でてもらえたから、今日ももう一回くらいは撫でてくれるかな。そのためにもこの算数の問題をどうにかして解かないと。
「直センセー」
ガラガラガラって、少しうるさく職員室の扉が開いた。そして、ダルそうな声が直江先生を呼ぶ。入り口のとこ、そっちを見ると、高等科の女子が二人立っていた。直江先生は重たい溜め息を吐いて立ち上がると、その女子二人の話を聞いてあげてる。
なんの話かはわからない。センタク科目がとうとかって。算数のこと。
でも真っ赤な口を開けて笑ってる。
お化粧って、うちの学校しちゃいけないんじゃなかった? 初等科だけの校則じゃないよね? あんなの、いけないんだ。
「ほら、早くプリント提出しとけよ」
「はーい、ね、直センセー、あの子、かわいー。初等の子だよね。あ、もしかして隠し子?」
「アホなことを言うな」
その真っ赤な口をした高等科の人が僕のほうを見て笑った。
やな感じ。
直江先生が手に持っていた何か紙を丸めたメガホンで頭をぱこんって叩かれて、真っ赤な口を開けて、今度は「いたーい!」って騒いでる。
痛いわけないのに。あんな紙をくるくるってしただけので叩かれたって痛いわけなんてないのに。誰が見たってわかるくらいかまってもらいたいんだ。あの人。直江先生に。
「担任の先生に提出だぞ」
「はーい」
やだな。
ちょっと直江先生が笑ってた。
「……ったく」
でも、少し笑ったくらいだから、全然、そんなにたくさん笑ってあげたわけじゃないし。
「……僕、隠し子なんかじゃないし」
「へぇ、お前、その言葉の意味わかってんのか?」
「わかってるよっ」
そのくらい知ってるし。僕は先生が思っているよりもずっと大人のことをわかってるんだ。
「お前のこと可愛いって褒めてたぞ」
「そ、そんなの言われたって嬉しくない」
「まぁな、男だからな。でも」
あんな校則破る人に褒められたって、ちっとも、ちぃぃっとも嬉しくなんてない。
「でも、可愛いけどな」
「……ぇ?」
「ご機嫌直ったか? 不貞腐れ屋」
顔を上げたら、直江先生が笑ってた。クスって、目を細めて笑って。大きな手、長い指で僕の算数のノートをちょんちょんってした。
「そこ間違えてる」
「えっ?」
円の面積を答える問題、間違えちゃったんだって教えてくれた。僕が大きな声で返事をしたら、また笑った。ちゃんと、たくさん、僕に笑ってくれた。
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