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第4話 準備

「せんせー! 算数教えてー!」  シュウ君が少し怪訝な顔をしてた。なんだよ、最近、給食終わるとどこにそんな急いで行ってんの? って。  職員室だよって言ったら、「はぁ?」って変な顔してた。 「あれ? ……センセ?」  職員室、高等科のほうの一番奥、窓際のとこに直江先生の机がある。お昼、急いで食べて、食器を片付けて職員室へと走るんだ。じゃないと、直江先生は人気があるから、誰かが直江先生と話を始めてしまうかもしれない。  急がなくちゃ。  それでなくても先週は給食当番があったせいで職員室に来られなかったんだ。 「おや、初等科の」 「ぁ、こんにちは」  おじいちゃん先生が眼鏡をまた下にズラして、こっちをその眼鏡の隙間から覗くように見上げた。 「ずいぶん懐いてるんだねぇ。直江先生なら数学準備室じゃないかな」 「すう……」 「四階に行ってごらん。ここじゃなくて西棟のほうの」  西……僕らの初等科があるのが南棟。すごくヘンテコな作りをしている学校だから、西にも南にも東にだって校舎は伸びている。西棟の四階、あんまり行ったことないや。 「ありがとうございます!」 「どういたしまして」  頭を下げて、今度は急いで西棟へと向かった。一階の保健室を通り過ぎて、僕が吐いてしまった流しのとこを通って、階段を上がっていく。三階の左側には僕の教室。でも、四階だ。もうワンフロア上に上がると、びっくりするほど静かだった。  ここの、数学準備室。数学――。 「あ!」  思わず声に出しちゃった。  数学準備室。扉のところには中の様子がわかるようにと、一箇所ガラス張りになっている。背伸びをしてそこから中を伺ってみた。 「直江先生だ」  いた。窓のとこ。  二回、ノックをすると、低い声が返事をしてくれた。そっと、そっと扉を開けて。 「あ、あの……」  開けてからちょっとだけ後悔したんだ。仕事してる最中だったかな。今、お昼休みだけど、ダメだったかなって。それに、こんなところまで来たら、少し迷惑というか、追いかけすぎかな。 「……葎」 「あの……」 「どうした?」 「ぁ、あっ!」  バカバカ。 「葎?」  さっき、おじいちゃん先生と話す前に直江先生の机の上に算数の問題集を置いてきてしまった。 「あの」 「なんだ、忘れたのか? 算数」  ぁ、笑った。呆れて笑って、窓を開けてるから、風に直江先生の髪が揺れる。 「って、どうせ、三年生で今習ってるところよりずいぶん進んでるんだろ」  うん。とってもたくさん進んでる。でももっともっと、ずっとずっとたくさん進まないと直江先生が教えてるところに辿り着かないもん。そこにいかないと、そして、そこの問題をスラスラ解かないと、僕は飛び級で直江先生に教えてもらえないでしょ? 「ぁの……入ってもいいですか?」 「……あぁ」  大きな三角定規にコンパス、それにブロックだって置いてある。あとは読んでもつまらなそうな数学の本達。  でも、直江先生は準備が終わってしまったのか、何もせずにただ窓の外を眺めてた。  カッコいい横顔。  目を細めて、眩しそうに外へ視線を向けて。風がユラユラヒラヒラ、先生の前髪を踊るように揺らしてる。  休憩してるのかな。  それとも……僕が毎日のように職員室に行くからうるさくて、やだったのかな。  逃げられちゃったのかもしれない。隣に立っても、先生は外を見たまま、何も話さず外を。 「あ! あそこ、僕の教室だ」 「……」 「ね、先生、僕の教室、あそこだよ」 「……」 「四年二組」  ここが西棟で、僕ら四年生の教室が並んでいるのは南棟。だからちょうどL字の形になっていて、ここからだと、ほら、直角になっていて見えるんだ。 「ワー、僕の教室、ここから見えるんだ。あ! あそこ、僕の席。窓際の二番目のとこ。わかる? 後ろから三つ目の席が僕だよ。すごーい! あっちからも、先生のこと見えるか、な……」  ね、どうだろうって顔を上げると、直江先生がこっちを見てた。じっと見て、そして、頭を撫でてくれた。撫でて、笑ってくれる。 「……せんせ?」  今日は風がたくさん。  直江先生の髪がそよぐくらいの風が吹いてる。  だから、先生が頭を撫でてくれた瞬間、少しだけ、ほんのちょびっとだけ匂った。 「……どうだろうな」  あの、良い気持ちの匂い。グレープフルーツのちょっと苦いけれど、落ち着く匂い。 「けど、俺もここにずっといるわけじゃないからな」  落ち着く、はずなのに。 「そ、そっか、そうだった」 「……あぁ」  心臓のとこ、すごい、走ってきたみたいに落ち着かない。 「行くか」 「!」 「算数、忘れてきたんだろ?」 「う、うん!」  先生は、もう準備終わったの? 大きな三角定規も、ブロックも、コンパスだって使わないみたい。何も持たずに、そのまま準備室を出て行った。施錠するからって急かされて、僕はグレープフルーツみたいなあの匂いをもう少しここでかいでいたかったけれど、先生の後を駆け足でついていった。  一つ上の階が算数、じゃなくて、数学の準備室。ぁ、どっちだろう。二つ窓が並んでる。ここからじゃ、同じカーテン、同じ天井が見えるだけで手がかりになりそうな本棚とかはちゃんと見えない。  右かな。左かな。 「えーそれでは、この円の面積を求める式を」  うーん。あの時、四階に上がってすぐじゃなかったから、じゃあ、左だ。左が、数学準備室。  先生は授業中? 職員室? おーい、そこにませんかー? 「渡瀬―」  僕は今算数の勉強をしてますよー、センセー。 「わーたーせ」 「は、はい!」  えっと、えっと円の面積は。  ふふーんだ。もうそんなの勉強しちゃったもんねーだ。このくらい余裕だもんねーだ。 「円を求めるには直径かける……」 「授業中の余所見はダメだぞ」 「! え? なっ、なんで」  職員室、いきなり僕の不良なとこがなぜか直江先生にバレていて、大きな声を出してしまった。おじいちゃん先生がびっくりして顔を上げた瞬間、眼鏡がいちだんとズリ落ちた。 「なんで? だって、先生いなかった」 「いたよ」 「いなかったってば」 「いた。四つ目の窓のとこ」 「えええええ?」  そんな右と左だけじゃなくて、左は三つもあったってこと。 「空間考察が苦手かもな。葎は」  僕はてっきり窓二つ分くらいがちょうど西棟の数学準備室の辺りだと思ったのに。実際はもっと長くて、もっとずっと左側だった。 「でも、僕ちゃんと答えられたしっ」 「へぇ、そりゃすごい」 「へへーんだ」  だから、頭を――。 「えらいえらい」 「!」  撫でてくれた。すごく嬉しくて、掌の感触を、あの時の良い匂いをたしかめたくて目を瞑った。 「ふぐっ」  けれど、鼻先は匂いどころか直江先生に摘まれてちっとも匂いがしなかったけれど。 「んもおおおお!」  怒ったら、先生が楽しそうに笑ったから、なんだかとても嬉しかった。

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