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第5話 膝小僧

「イタタタ……」  やだな。砂利、洗わないとダメかな。  体育の時間、外で走ってて思いっきり転んじゃった。グラウンドの砂埃で真っ白な膝小僧は擦りむいたところだけ黒い砂利混じりの血が滲んでる。砂利、このままじゃダメなのはわかるんだけど。  やっぱりシュウ君についてきてもらえばよかった。だって、保健の先生いると思ったんだもん。  保健室は外側からも入れるようになっている。でも、鍵がかかってて、あれ? って思いながら、足をちょんちょん引きずりつつ校舎の中へ。そしたら保健室のところに「外出中」の札がぶら下がっていた。 「いーっ、タタタ」  どうしよ。 「どうした。転んだのか?」 「!」  声をかけられて、すぐに顔を上げた。 「何? 膝小僧擦りむいたのか?」  だって、その声が誰なのかなんて、僕にはもうわかってしまうから。 「……直江先生」 「保健医なら、今、生徒の付き添いで病院だ」 「え? 直江先生保健の先生もできるの?」  先生って、保健委員なの? じゃあ、先生がこれ、治療してくれるのかな。それだったら。 「何かあった時ように保健委員担当の教師が呼ばれたんだよ。別に医者の資格があるわけじゃないからな」 「……」  なんだ、先生になら痛いことされても平気だと思ったのに。 「って、まぁ擦り傷くらいなら別に治療っつうほどのこともないからな」 「! 診てくれるの?」 「あぁ、ほら、立てるか?」 「うん! って、イタタ」  ずっと曲げてた膝小僧。先生に良いところを見せたくて、スクッと立ち上がってしまったら、急に伸びてた膝が縮こまったせいで、擦り傷のところがぎゅうぎゅうに込み入ってしまった。 「手」 「!」  ったく、そう溜め息混じりに呟いて、そして、笑ってくれた。  カラカラって音を立てて開く保健室の扉、廊下の空気が消毒液の匂いを消すみたいに中に入って、ふわりって。 「そこ座れ」 「……」 「あーあ、こりゃ、ずいぶん派手に転んだな。体操着も埃まみれ」  ふわりって、ほら。 「これじゃ、水垂らして拭いたくらいじゃ用が足りないな。砂利、洗い流すから、あっちの洗面所のほういけるか?」 「ぁ、うん」  ふわり、ふわりって。 「ちゃんと掴まってろ」 「っ」 「沁みるし、痛いからな」 「う、うんっ」  ふわり、ふわり、直江先生の匂いがする。 「っ」 「掴まってろ。お前、これ、相当だぞ」 「っ」  ぎゅうって腕にしがみ付きたいけど、まるで子どもみたいだから、シャツを少しだけ掴ませてもらった、寄りかかるだけでも充分匂うあのグレープフルーツを必死に掻き集めて、それで。落ち着くからって。 「っ」  痛いけど。 「っ!」  早く終わって欲しいのに、早く終わるのがなんだかもったいない気がして。 「……ふぅ。頑張ったな」 「っ」 「砂利全部洗い流したから、後は消毒な。ほら、手、掴まれ。泣くな」 「だって、痛い」 「そりゃ、砂利、ほじって出したからな」  聞いただけで痛いし。 「あとは、これ、貼っておけ。傷用の絆創膏」 「あ、あの」 「剥がれたら取り替えろ。剥がれなかったらそのまましばらくつけてていい。無理に剥がさないで良いやつだから」  痛くて、コクコク頷くのが精一杯。  泣くなって先生が言うから、一生懸命に堪えてた。四年生だし、泣かないし。痛くないし。  痛いけど。 「着替え大丈夫か?」 「うん。ありがと」 「俺はこの時間、授業なくて保健室にいるから、もしも血が止まらなくて滲んできたら、保健室に来いよ。それかしばらく我慢か。次の授業の時は、もう保健医が戻ってるだろうから」 「はい」  痛いけど、泣かない。 「それじゃあな」 「うん。ぁ、あの先生」 「?」  この匂い嗅いだら、落ち着くけれど、落ち着かない。  保健室の扉のところまで見送ってくれた先生にぎゅっとしがみついた。ワイシャツのところに鼻先を近づけて、スンって、深呼吸を一度だけ。 「葎?」  落ち着かなくなるけれど、とても大好きなその匂いを鼻先で覚えて、それで、体育の授業に戻ったんだ。だって、埃の匂いが体育着からするから、すぐに消えちゃいそうでさ。匂いが、先生の消えて欲しくなくて、いっぱいに深く息を吸い込んで、胸のところに少しでもたくさん溜めておけるようにってした。  結局、絆創膏は翌日の朝には剥がれてしまっていた。寝てる間に取れてしまって。少し残念だけれど。もう保健室に行っても保健の先生がいるだけで、直江先生はいないから、もう行かない。 「それ、痒いのか?」  今日も体育の授業は外。その場のしゃがみこんで他の子の徒競走を眺めていたら、シュウ君が指差した。さっきからずっと触っている僕自身の膝小僧。 「ううん。痒くない」  そっとそっと撫でてた。先生に手当てしてもらった膝小僧の傷はもうすっかり乾いてカサブタになっていた。そのカサブタを指先で撫でると硬くて、なんだか不思議で。隙あらばこうして触ってる。 「ちっとも痒くないよ」  触ってると、あの日、痛かったなぁって思い出す。砂利が入ってすごくて、直江先生が貼ってくれた絆創膏はすぐに真っ赤になってしまった。そして、そこは今、まるで皮膚とは違う質感で、なんだか特別で不思議だから、ずっとずっとそこにあってくれたらって思っていた。 「あれ……先生が、いない……」  職員室、俺が小学生の頃とは席が替わって、っていっても、また窓際なんだけれど。真ん中の列の窓際。そこが今の直江先生の席。  けれどそこに先生はいなかった。 「あぁ、先生なら保健室にいるよー」  教えてくれたのは昔から同じ、おじいちゃん先生。実はこのなりで英語の先生だって知った時はびっくりした。  いつもどおり眼鏡を下にズラして、俺を見て笑ってる。本当に懐いてるねぇ、だって。 「ありがとうございます。先生」 「はいよー。いってらっしゃい」  保健室か。なら、ちょうどよかった。俺も保健室に用事があったから。  早く行かないと、お昼休憩が終わっちゃう。だから小走りで保健室へと向かった。 「直江先生?」  保健委員会の担当教師が保健室にいるってことは、つまり、保健医がいないってことでしょ? なら、今行ったらたくさん話せる。そう思うと小走りはいつの間にか普通に駆け足に変わってた。 「直江せんせー」 「……なんだ、葎か」 「なんだじゃないです。あの、先生、これ、ポスター貼るの手伝って」 「……」  細く鋭い眼差しをもっと細めて「めんどくさい」って顔をしてる。けど俺はおかまいなしに頼むんだ。直江先生のその顔はいつもことだし。俺がそれを気にしないのもいつものこと。 「俺の背じゃ届かないんだってば」 「牛乳飲んどけ」 「飲んでるけれど、伸びないんです。ね、先生、俺が押さえてるから画鋲を」 「……あぁ」  押さえてるといっても、途中まで、あとは先生におまかせだ。 「……」  後ろから覆い被さるみたいに手が伸びてきて、画鋲で上の二箇所を留めてくれた。  今でもクラクラする。 「葎」  今でも、落ち着くけれど、落ち着かない匂い。 「終わったぞ」 「! ぁ、ありがとうございます」  それをこっそりとスンって鼻先を鳴らして吸い込んだ。 「中等科は今日は五時間目で終わりか」 「はい」  そう、もう中学生になった。  中等科。  だから膝小僧も怪我しなくなったし、教室から数学準備室を見ることはできなくなった。それに職員室で算数を教えてもらうことはできなくなったけど。でも、中等科にきて、ようやく保健委員になれた。五年六年の初等科の時はなれなかったんだ。人気で、ジャンケンに負けてしまって、とってもとっても悔しかった。 「あ、先生、あのね、またわからない問題があるんだ」 「わからないって、また、お前、数学の成績いいんだろ」  うん。良いよ。どの教科よりもずっとずっと成績良いよ。  けれど答えず、ニコリと笑うだけしてみせると、先生も笑って、またいつもみたいに「ったく」ってぼやいてから、俺の鼻先をぎゅっと摘んだ。  だって、たくさんやってるもん。  初等科の頃からずっとずっと、算数だけはたくさんやってるもの。 「ね、教えて、先生」  直江先生が数学の先生だからたくさん予習をしてるもの。

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