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第6話 「好き」

 初等科から中等科への進学の際、外部からの入学者もいて、初等科に比べると生徒数も、クラス数も増えた。同じ学校なのに進級しただけで、急に進学校らしさが出てきた気がする。  外部からの入学者の雰囲気もあるのかもしれない。入るの、相当難しいんだって。だから、初等科からここにいた俺らよりもずっと、なんというか、進学校に通っているっていう雰囲気をまとっていることが多くて。そのせいもあるのかな。初等科の頃に比べると中等科は教室の雰囲気もピリリとした緊張感が少しあって。まだクラス自体も馴染んでなくて。そんな諸々が積もり積もってきた感じがする六月の終わり。  なんだか。 「はぁ、疲れたぁ」  ね、溜め息ついちゃうよ。  一日の授業が終わる、そのチャイムを聞くと、どっとさ、疲れる。 「シュウ君、朝練するからだよ」 「葎だってしてんじゃん」 「俺のは練習じゃなくて、弓道場の掃除」  中等科の担当だからね。朝の掃除は。 「そういえばさ、葎、お前、選択科目、数学にしなかったのな」  シュウ君とは中等科二年でまた一緒のクラスになった。もう初等科からの幼馴染。家は学校を挟んで正反対の場所にあるから、数えるほどしか行ったことがないけれど、やっぱりどこか特別というかさ。  シュウ君はこんがりと日焼けして、黒髪は短く刈り込んで、けっこうモテてる。この前も一つ上の先輩に告白された、らしい。 「あー、うん、英語にしたね」 「ふーん、なんで? お前、数学超得意だから、数学にするんだと思ってた」  俺らはあんまりそういう話をしない。シュウ君にはどうやら片想いの相手がいるらしいけど、あまりその話をしたがらないから、俺も訊くことはしない。そして、俺には恋愛感情ってちょっと難解でさ。  わからないんだ。  誰かを好きとかそういう気持ちがちっともわからなくて、今のところ、クラスの男子たちが楽しそうに好きな子の話で盛り上がっているのを、恋愛話をしたがらないシュウ君と二人、ちょっと離れたところから観察していた。だからそもそも俺には話せそうな恋愛にまつわる話がない。 「数学は得意だから、選ばなかったんだ」  なんて、本当は嘘だけれど。 「なるほどなぁ」 「……うん」  本当は直江先生以外になんて教わりたくないから、数学は一切考えてないってだけだけれど。 「シュウ君は数学にしたんだね」 「まぁなぁ。本当は図画工作とかさ、音楽とか保健体育とかがあれば、そっちにしたかったんだけどさぁ」 「なにそれ、一つも選択科目にないじゃん。それに図画工作って懐かしすぎ」  美術じゃないんだよ。図画、工作、がしたいんだってシュウ君が力説してくれた。つまりはあまり勉強はしたくないんだ。  とはいっても、シュウ君の成績はそう悪くないのだけれど。 「さて、と、部活行くかなー」 「久しぶりだもんね。部活、ずっと雨が続いて」 「そう! ストレス発散しねぇと!」 「それで、朝練、はりきりすぎて、一日睡魔と格闘の後、授業中に叱られてたら本末転倒な気もするけどね」  うっさいなぁ、って、シュウ君が笑った。  シュウ君はサッカー部だから、外が雨降り続きだと室内でのフィジカルトレーニングになってしまう。 「そんじゃーな。葎、ガンバレよー! 弓道」 「……うん。ありがと」  俺は弓道部。雨の日は弓矢の手入れをしてから、やっぱりフィジカルトレーニングだけれど、少しだけ、いや、けっこう、かな。サッカー部に比べると談話時間が長い。 「あ、あの……渡瀬君」 「……」  声をかけてきたのは女子だった。中等科、の子。でも、どなたなのかはわかっていないから、きっと外部からの子だと思う。 「あの、渡瀬君のことが」 「……」 「その」  たまに、こういうことに遭遇する。遭遇っていってもいいのかわからないけれど、予兆もなく、急にさ、どーん、って手渡されるこの言葉は、ある意味「遭遇」っていうのが一番合ってると思うんだ。 「好き、です」 「……」 「もし、よかったら、付き合って、いただけませんか?」  けれど、わからないんだ。俺には、彼女が真っ赤になって、少し苦しそうに告げるその「好き」って言葉がわからなくて。  だから、とても困ってしまう。 「ごめんなさい……」 「っ! あ、いえっ、こちらこそ、ごめんなさいっ」  彼女の持っている「好き」がわからない。言って、そして、こうして謝罪の言葉を口にすると、申し訳なさそうに首を振って、去っていく。その後、その「好き」は受け取ってもらえなかったと、捨ててしまうの?  それとも、ダメだったら、ふわりと消えてしまうの?  だから、こういうのはとても苦手。  だって、俺の謝罪の言葉で彼女の「好き」は消滅させられてしまうんだろうから。なんだかとても、申し訳ないことをしている気持ちになって、イヤなんだ。  初等科のときはこういうのなかったのにな。 「……いえ、こちらこそ」  彼女は走り去ってしまった。とても、ものすごく、俺の言った言葉のせいであんな悲しそうな顔をさせてるんだと思うと、本当にやるせなくてイヤなんだ。 「えー、今度の土曜はどこ行く?」 「んーそうだなぁ、遊園地とかにする?」 「やた! うんうん、そうしたい!」  ああいう、カップルの人たちは、「好き」を共有できてるんだ。どっちかが、「好き」と告げて、相手も偶然同じ感情を抱いていて、それってとても果てしなくて。 「……」  わからないよ。俺、女の子にあんな気持ち持ったことない。  けれどいつかは持つのかな。個人差はあるだろうけれど、シュウ君みたいに誰かをずっと静かに思って待ってみたり。さっきの彼女みたいに真っ赤になりながら「好き」って告げてみたり。  来年かな。  それとも高等科? もっとずっと大きく、大人になってから? 「あ、ヤバ、練習始まっちゃう」  選択科目、数学にしなかったのは直江先生がもう教えてくれたところを、よその先生に教わる必要がないから。  委員決めをクラスでした時、誰よりも早く保健委員に手を上げたのは、そこ保健委員会担当教諭が直江先生だったから。  そして、弓道部へ入部したのは――。 「あ! 直江せんせー!」  先生がいたから。 「せんせー!」  まだこの時はわかってなかったんだ。「好き」って気持ちがどんななのかなんて。  まだこの時は――。

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