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第1話

…━…‥・‥…━…  春 川 …・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…  ヒミズさんが、俺が初めてひとりで作ったラムレーズンを試食している。  薄手のビニール手袋を取り去り、スプーンに置いたうちの一つをきれいな白い指でつまみ上げると、感触を確かめ、薄い唇に寄せた。  桃色をした滑らかな舌先がそこから覗き、指が舌にふれた瞬間、ほのかなピンク色をした爪がひとさし指の先端で艶やかに光った。  小さな一粒を口の中で大事そうに転がすと、細い顎を軽く動かし、ヒミズさんはゆっくりと噛みしめる。  なぜだかその瞬間、自分の胸にある突起をヒミズさんに甘噛みされたような感覚に陥って、俺は思わず「は」、と小さな吐息を漏らした。  ヒミズさんが俺を見る。柔らかく微笑んで、俺に向かって手を伸ばす。  吸い寄せられるように、ヒミズさんの胸に近づく。  あれ、ヒミズさん、ハダカだ。  あれ?俺もハダカだった。  ヒミズさんの心地いい肌に唇を寄せる。  いいにおい。おいしそう。  目の前にあるヒミズさんの体。きれい。  ああ。ヒミズさんの白い胸に浮かぶ淡い橙色、とてもかわいい。  ヒミズさんの背中に腕をまわした。逃げ出さないように。  するとヒミズさんも俺の肩を抱き寄せてくれて、俺の髪にキスをする。 ―― 上出来です、春川。  ご褒美をください。 ―― 何が望みですか?  俺が顔を上げたら、俺にちゃんとキスをしてください。 ―― え?わかりませんでした。もう一度。  だから。  キスしましょう、ヒミズさん。 ―― なんて?  ああ。もどかしい。舌がうまくまわらない。ちゃんと言わなきゃ。 「……ヒミズさんキス…… ………」 はっ!  起きた!自分の寝言で目が覚めた!  天井から、眩しすぎるほどの朝の光。 「ふわ…」 店長!?  俺の目の前に店長がいる!  店長は怪訝な顔をして俺を見ている。  なんすかその顔…!?  さっきの寝言、聞かれたのだろうか…!  寝言…  なんて言ったっけ。  あれ?…夢…? …どんな夢だっけ…。  店長のせいで夢の内容が一気に吹き飛んでしまった。  とても楽しい夢だった気がするのに。  店長は、俺に向かって穏やかにほほ笑んだ。  まるで吸い込んだ朝の光を俺に向かって振りまくかのようで、ああ、この人の笑顔には本当にかなわないと思う。 「おはよう、ハル。」 「…おはようございます。…お酒、大丈夫ですか。」  昨夜の店長は珍しく酔っていた。ベッドに入ってくるなり俺に覆いかぶさってきて、『うわあ、始まる』、そう思って俺が身構えると、なんとそのまま寝てしまった。  重くて死ぬかと思った。昨夜は遅くまでヒミズさんにフランス語を教わっていて、疲れて眠りかけていたのに、店長が重いせいでしばらく眠れなかった。  店長は、自分の好きなときに俺を抱きに来る。  今の俺の家は店長の持ってるビルにあるためか、店長は俺の家のスペアキーを持っていて、夜、たまに俺の家に遊びに来てはそのまま俺と寝て、朝方、隣の自宅へ帰る。  カフェが休みの時に来るここ(店長の実家)でも、店長はスペアキーを使って俺が寝るゲストルームに易々と入ってくる。  朝方帰るのは、ヒミズさんに見つかりたくないからだ。なにしろ店長の本命は、ヒミズさんなのだから。  俺はそれをわかっていて、それなのに店長を拒めない。  なんていうんだろう、こういう関係。  店長はヒミズさんのことが好きだけど、ヒミズさんとは絶対的な関係性にあるから、俺と寝るのも平気なんだろう。  でも、店長のことが好きな俺としては、この関係は体だけの付き合いみたいで、最初は少し…いや、かなり、嫌だった。  なのに、最近はだいぶ慣れてきた。  最中に、店長が俺に「きれい」だとか「とてもいい」と言ってくれるのが、褒められているように感じられて心地いいから。  あと…、単純に、気持ちがいいから…ということもある。 …俺ってほんと、駄目なやつ。 「大丈夫だよ。ごめんね酔っぱらってて。それよりさ、誕生日、おめでとう。ハル。」  今日、2月14日は俺の誕生日。  店長のところに来てから今日でもう4回目の誕生日を迎えたことになる。  店長は昨夜もムニャムニャ言ってくれたんだけど、たぶん酔っていて覚えていない。 「あ、ありがとうございます…、…というか今…、何時ですか…」  俺の誕生日より今は日の高さのほうが気になる。  店長の実家のゲストルームは半地下のうえ北向きにあるから、普段は朝でもけっこう薄暗い。  でも、天井近くにある天窓のブラインドが反対側の壁にくっきりと白い光を描き出している様子からすると、太陽光が大いに活動を始めていることは確かだ。  まずい。休みの日でも朝ごはんは7時30分と決まっている。  ベッドサイドに置いている目覚まし時計が気になる。鳴ってないけど、いたずら好きの店長が止めてしまった可能性もある。 「9時ちょっと前だよ。ね、おはようのキスしよ、ハル。」 「9時前!?」  飛び起きようとして店長の腕に阻まれた。ベッドマットに押さえつけられる。 「どしたの、キス、ほらハル。」 「いやちょっと、寝坊してます、は、早く朝ごはんを…」 「誕生日なんだからヒミズも怒ったりしないよ。」  そういうことじゃない!俺はヒミズさんに失望されたくないのだ!  店長はかまわず俺に覆いかぶさろうとする。あーもう!  店長の腕から抜け出そうと格闘して、でも簡単にマットに戻されるという無駄な往復運動を何度か繰り返していたら、店長は最後に俺の両肩を掴んでマットにぼんっと跳ね付けた。 「ふ、ぐっ」  店長がベッドから降りる気配。  体を起こすと、店長は「はははっ」と笑いながら廊下へ続くドアのほうへと小走りで向かっている。俺の気をよそに、完全に楽しんでいる。  俺も急いで店長を追いかけ、店長が開けてくれたドアへと向かうと、振り向いた店長に“とおせんぼ”された。  ドア枠を掴んで、俺が横をすり抜けようとするとそっちへ体を持ってきて通してくれない。身長が低い俺にとって長身の店長はまさに壁。  ちょっと!ふざけてないで!  何度も試してみるものの、動く壁が簡単には俺を通してくれない。  ああ!本当にこの人は、俺の気持ちをオモチャのようにもてあそぶ。 「おはようのキスしてくれたら通してあげるー。」  ああ、もう!  わかりましたよ!  店長の首に手をまわして、飛びつくようにキスをした。  店長は少し驚いたような顔で俺のキスを受け止めて、そのあとガシンと右腕を俺の背中に絡め、左手で首を支えるようにして俺の頭を肩に寄せた。 「…ありがと、ハル。」  足が浮いている。不安定な格好になって必死で店長にしがみついていると、「ふふ」店長は小さく笑って体を反転させた。ゲストルームからようやく出られた。  降ろしてもらってすぐに、長い廊下を明るいほうへとひた走る。 ―― ペタ ペタ ペタ …  ああ。スリッパを履き忘れた。床暖房のきいた部屋から出て硬い大理石を蹴りだすたびに、廊下の打ちっぱなしのコンクリートに間抜けな音が反響する。店長の実家は、『土足厳禁』ならぬ『素足厳禁』。  突きあたりを右に折れると、正面には壁一面の壁面ガラスが広がる。  やっぱり今日はよく晴れている。高い天井から見える対面のグレーの棟の上には、突き抜けるような空の青。  黒っぽいグレーの壁に四角く囲まれた中庭には、背の高い、白い細身の樹木が3本。葉先にキラキラとした陽光をまとわらせてまっすぐに立っている。あれが白樺なのだと教えてくれたのもヒミズさん。白樺の足元には、冬特有の白っぽい芝生が広がる。  俺はこの中庭がとても好きだ。  店長のカフェの壁にも描かせてもらったし、美大の卒業制作のモチーフにもした。ただしそっちは、別のことをイメージして描いたものだけど。  走るのを止めて、少し傾斜のついた細長い廊下を、足音を小さくするために今度はそろそろと進む。  右側の壁の切れ目を直角に曲がれば、そこには廊下と壁一枚で隔てられただけのリビングがある。 …こわい。がっかりしたヒミズさんの顔を見るのがこわい。  ああ~。顔も洗ってない。  ゲスト用の白の綿パジャマのままだし。ああー…  壁の切れ目の直前で立ち止まって、正面にある壁面ガラスを鏡代わりに、指で粗く髪をとかす。  寝癖もばっちりついている。…ああー… どん。  追いついた店長の胸に背中を押される。  目の前に俺用の白いモコモコスリッパを差し出された。  ありがとうございます。  でも、朝ごはんに遅刻したのは店長のせいでもあるんですからね。  スリッパを両手で乱暴に受け取ってから屈んで足を入れたあと、そういう意味を込め、少しむくれて店長をにらんでみた。  店長は相変わらずにやにやとしている。  待てよ。  だいたいこの人、昨夜はざっくりとした綿シャツ一枚だったのに、今はふっかりとした白いセーターを身に着けている。ズボンだって着替えているし、ということは、一度俺より早起きして、自分の身支度を整えてから俺を起こしに来たのだ。なのに起こしてくれなかった。朝ごはんも食べ終わっているのかも。  ベッドで俺の間抜けな寝顔を見ながら、今のこの状況を想像して内心くすくすと笑っていたんだろう。やっぱり目覚まし時計もこの人が止めたのにちがいない。  そんな、恨みを込めた俺の視線を知ってか知らずか、店長はにやにやしたまま体全体を使って俺をぐいぐいリビングへ向かって押し出そうとする。うわ、わ。 「おはよう、春川ちゃん。」  すでに朝食を終えたらしいアンドーさんがお茶を飲んでいるところだった。お湯のみにしては小さな湯呑を使っている。 「あっ、おはようございます、アンドーさん。すみません。寝坊してしまいました…」 「うふふ。いいわね若いコは。たっぷり眠れてうらやましいわ。睡眠は美容にとって重要なエッセンスなんだから。」  今日のアンドーさんはボーダーシャツ。衿口が広くて、そこからのぞく鎖骨がきれいで思わず目に焼き付けたくなる。俺の好きないい形。  アンドーさんはオカマ…じゃなかった、ゲイ。見た目はきれいな男の人だけど、女言葉を使う。(そういえば俺はこれを思うたびに、俺だってゲイだろ、と一瞬考えてしまうのだが、俺には自覚がない。というか、そもそも俺はゲイの基準が未だによくわかっていない。)  アンドーさんはもともと面倒見がいい性格なのかいつも俺によくしてくれて、一人っ子だった俺にとっては本当のお姉さんみたいで頼りがいのある存在だ。いや、本当は医師免許を持っているれっきとしたお医者さんらしいから、頼りがいがある、どころか、実に頼もしい存在。店長やヒミズさんとも昔から仲が良くて、カフェやここにもよく遊びに来る。(店長によると、店長の家のお抱え医師なのらしい。)  天井の高い広いリビングには、庭のほうに暖かみのある赤いソファと格調高いローテーブルが配置されていて、そこから一段上がったところにあるダークブラウンのダイニングテーブルには椅子が6脚。アンドーさんは、テーブルの奥の一番左側に腰掛けてこちらを見ていた。ヒミズさんはいないようだ。  ダイニングテーブルの上には天井から吊るされたオレンジ色の細長いランプが5つ、規則的に並んでいる。  ダイニングテーブルの左奥にはキッチンがあるが、対面式ではなくて壁で隔てられていてここからは見えない。  キッチンはご飯担当のヒミズさんのテリトリーで、カフェが休みの日にみんなでここへ帰って来ても、ヒミズさんはたいがい自室かあそこに(引きこもって)いる。  ヒミズさんが一人で動き回るには十分な広さという程度のキッチンには、壁や棚に調理道具が整然と並べられてあり、棚の奥にあるパントリーにはヒミズさんお手製の保存食(ジャムやリエットなど)の瓶がぎっしりと詰め込まれている。ほどよい広さの空間と、ヒミズさんの技巧が凝縮されたようなあの重厚な雰囲気も俺のお気に入り。とても好き。  ヒミズさんはカフェで使う食材をそこから持って行ったりもするので、カフェで働かせてもらっている俺も時々パントリーに入れてもらい、食材を小瓶に詰め替える作業などを手伝わせてもらったりする。ヒミズさんは俺にその食材についての情報をいろいろと教えてくれる。俺にとっては新鮮で奥深い内容ばかりで、一緒に作業するのは実に楽しい。それに、普段は口数の少ないヒミズさんが俺に対して流暢に言葉を紡ぐ様子は、まるで俺に心を開いてくれているように感じられて、俺にとってはそれが無性にうれしいことでもあったりする。  リビングにいない、ということは、ヒミズさんは今もテリトリー(=キッチン)にいて、おそらく寝坊した俺のために朝ごはんを温め直してくれている。  ああ。申し訳ない。 ======------→

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