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第2話:無骨な彼
泉生命は日本でも三本の指に入る大手生命会社で、契約顧客数は業界一。百年も続く老舗企業ということもあって、社名だけで契約を承諾する顧客もいる信頼度の高い会社だ。
そんな会社に内勤として入社した幸輝なのだが、中途入社ということもあって同期が一人もいない。ただでさえ孤独という状況下で高嶺の花扱いされるのは、正直辛いものがある。最低でも仕事に支障が出なければいいが。
そんなことを考えながら事務所内を歩いていた幸輝が、ある席の後ろでふと足を止めた。
その席は空席になっていることが多かった。しかし、今日は珍しく主が座っている。この機会を待っていた幸輝は、席に座る男の背中に声をかけた。
「あの、仕事中に失礼します。各務さん、ですよね?」
幸輝に呼ばれてこちらを振り向いた各務誠一は、見慣れない顔に怪訝な表情を浮かべた。
「あ? お前、誰だ?」
「えっ……?」
いきなり無骨な態度を見せられ、幸輝は目を開いたまま息を止めた。
今まで初めて顔を合わせた人間に、こんな態度を取られたことはない。故に、咄嗟に返す反応が浮かばなかった。
だが、このまま呆然と突っ立っているわけにもいかない。幸輝は何とか気を取り直して、誠一に自己紹介をした。
「三日前からこちらの営業所でお世話になっています、月瀬幸輝です。皆さんには初日に挨拶したのですが、各務さんは外回りで営業所に不在なことが多いご様子でしたので、いらっしゃる時にと思い、ご挨拶に伺わせていただきました」
新人相手でもお構いなしに睨んでくる誠一に、幸輝は得意の笑顔を浮かべながら頭を下げる。しかし、その内面では驚きつつも全く別のことを考えていた。
誠一の第一声は、とても初対面の人間にかける言葉ではないというのに、何故か幸輝の中では、その低くて渋い声の方が強く印象に残った。
さらに声を追いかけるようにして、強い煙草の香りが幸輝の鼻を擽る。近くに寄っただけで煙草の匂いがするということは、おそらく彼はかなりのヘビースモーカーなのだろう。
嫌煙ブームが広がるこの時勢に珍しい。そう思いながら、幸輝は誠一が煙草を吸っている姿を想像した。
――ああ、でも中々似合うかもしれない。
睨まれたら背筋が凍りついてしまいそうな鋭い目に、高くしっかりとした鼻梁。強面という言葉がぴったりな顔から抱く印象は、野性的で雄々しい。
誠一は椅子に座っている為、正確な身長までは分からないが、足の長さからかなりの高身長だということが分かる。体型も細身に見えるが、捲ったシャツの袖からのぞく腕を見る限り骨格はしっかりしていて腕っ節も強そうだ。
こんな男が壁にもたれながら煙草を吸っていたら、さぞ絵になることだろう。
自分とはまるで真逆の容姿に、幸輝は羨ましさを覚えた。
「あー、そういや内勤に新人が入るって言ってたっけ。ってかさ、その畏まった喋り方……お前、もしかして良いところのお坊ちゃんか?」
漸く思い出したと言った顔の誠一が、次に指摘したのは幸輝の口調だった。新人社員が敬語を使うのはごく普通のことだが、幸輝の敬語は通常よりも堅い。多分、それが耳の残ったのだろう。
「いいえ、そんなことありません。ただ学生時代まで同居していた祖父母が言葉に厳しい人だったので……」
「ふーん。爺さん達が厳しいなら仕方ないか、そういう世代だもんな。まぁ、いい。じゃあ、早速で悪いんだが、この書類の処理頼む。今日中でな」
「今日中……ですか?」
時間を確認する為に時計を見ると、時計の短針は数字の五を差していた。終業まであと三十分。ということは、今日の日締めの期限までそう時間はない。幸輝が不安を巡らせていると、目の前の誠一の眉がグッと中心に寄った。
「何だ、新人だから定時上がりか?」
誠一は幸輝が定時に上がりたがっているのだと思っているのか、『これだから新人は……』という態度を顔にありありと出した。そんな誠一に、幸輝は掌を大きく振って違うと主張した。
「いえ、定時に帰りたいとかではありません。ただ、まだマニュアルを見ながらの処理になりますから、時間が掛かってしまうかと。だから日締めに間に合うか心配で……」
保険会社は業務を日で締める決まりとなっている。しかも日締めのデータは本社に送った後で集計されることになっている為、締めの時間も決められている。無論、当日の締め作業が終わってしまえば、以降の処理は翌日扱いだ。
扱う書類の中には誕生日の前後半年を区切る保険年齢の切り替え日ギリギリで出された書類など、必ず当日中に処理しなければならないものがある。たとえば間に合わなければ保険年齢が上がり、支払う保険料が上がってしまう書類などだ。
そのような大切な書類を時間内に処理できず、万が一でも保険料が上がってしまったら誠一が顧客に謝りに行かなければならなくなる。幸輝はそれを危惧したのだ。
「あぁ? マニュアル? 何で直接教えて貰わないんだよ。お前の指導役は何やってんだ?」
「皆さん、他の仕事に忙しいみたいで……。マニュアルを頂いて、分からないことがあったら聞くように言われています」
本当に忙しいのか、はたまた近寄りがたいと思われているのか、幸輝にはその判断はつけられないが、一人で業務をこなさなければならないことに変わりはない。
「はぁ? 何だよそれ、新人にマニュアル渡して終わりなんて有り得ねぇだろ。指導係は誰だ」
「し、仕方ありませんよ。僕が九月っていう中途半端な時期に入社してしまいましたから……」
「それも関係ねぇ。お前を雇ったのは会社だろ? ならちゃんと責任もって教育するのが筋ってもんだ」
筋が通らないことは気に入らない性格のようで、誠一は苛立ちを露わにしながらも座っていた椅子から立ち上がった。
今まで見下ろす形で誠一を見ていた幸輝の視線が、一気に上へと上がる。やはり幸輝の予想通り、誠一の身長は高かった。多分、百八十五センチ以上はあるだろう。
「ほら、行くぞ」
「え? 行くって?」
「お前のデスクだよ。日締めの方法ぐらいなら俺でも教えられるから、教えてやる」
指導役に代わって誠一が業務を教えてくれるという突然の申し出に、幸輝は目を丸くした。まさか営業部の誠一に、業務を教えて貰えると思わなかったからだ。しかも皆、何かと理由をつけて幸輝の側に寄ろうしなかったのに、誠一は幸輝と顔を合わせても距離という名の壁を作らない。普通に同じ職場の社員として、幸輝を見てくれている。
「何、ぼうっとしてるんだ。置いてくぞ」
「あ、はい、すみません!」
呼ばれた声はやはり少し威圧のあるものだけれど、幸輝は全く怖いなんて思わなかった。寧ろ、嬉しくて心が躍ったぐらいだ。
――もしかすると、各務さんは他の人間と違うのかもしれない。
淡い期待が、幸輝の中で生まれる。
そんな気分を表すかのように、誠一の後に続く幸輝の足は軽やかだった。
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