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第6話:面倒見のいい彼

 良い先輩に巡り会えたと、幸輝はつくづく思った。  仕事に一途で、曲がったことが嫌いで、面倒見がいい。顔は少し怖いものの、幸輝にとってはそんなこと無きに等しいものだ。  誠一の面倒見の良さは元来のものだろうか、それとも幸輝が年の離れた後輩だからだろうか。そこまではまだ分からないが、誠一の存在が幸輝の助けになっていることは間違いなかった。 「おい、月瀬。お前の部屋、ここでいいのか?」  耳のすぐ近くで聞こえた誠一の声で、ふわりふわりと浮遊していた意識が呼び戻される。ここはどこだろうと首だけ上げると、目の前には見慣れた自分の部屋の玄関があった。 「は……い。ここが僕の部屋です……」 「鍵は?」 「胸ポケットの……中……」  左腕で幸輝の腰を支えていた誠一が、空けた右手で言われた場所を探る。すぐに鍵は見つかったらしく、いつも幸輝が使っている部屋の鍵を取り出すと玄関の扉を解錠した。 「す……みません。ご迷惑をおかけ……してしまって……」  典型的な酔っぱらいのごとく千鳥足の幸輝は、完全に一人で帰れない状態だった。 「全くだ。……と言いたいところだが、俺もちょっと飲ませすぎた。だからあんまり気にすんな」  リビングまで連れてきて貰った幸輝は、そのままいつも使っているソファーに身体を預ける。漸く幸輝の介抱から解放された誠一は、何故か隣接したキッチンに向かって歩き出した。 「水か何か飲むだろ?」 「ありがとうございます……あ、冷蔵庫にミネラルウォーターが入ってますから、各務さんもどうぞ」 「サンキュー」  キッチンに入って冷蔵庫を空けた誠一が、中からミネラルウォーターを取り出してこちらに戻ってくる。 「ほら、水」 「ありがとうございます」  誠一からペットボトルを受け取った幸輝が、水を飲む為にソファーに沈めていた身体を起こす。その時、誠一が何か言いたそうな顔で部屋を見回しているのが見えた。 「あの……部屋がどうかしましたか?」  一口水を飲んでから、部屋を見ている理由を誠一に尋ねる。 「なぁ、お前ってまだ引っ越したばかりか?」 「いえ……前の会社に就職した時に借りた部屋なので……一年半は経ってると思います」 「にしては生活感なさすぎじゃないか? 冷蔵庫も水と酒しか置いてなかったし」  人が住む生活空間にはまるで見えないと言った様子で首を傾げながら、誠一も自分の水を飲む。 「それは……」  まさか、誠一がそんなことを気にするとは思わなかった幸輝は、言葉が止まってしまった。この部屋に人が来ることなんて想定していなかったから、上手い理由なんて考えていない。  しかし誠一は幸輝からの答えを聞く為に、真っ直ぐこちらを見ている。これは何か理由を話さない限り、納得して貰えないだろう。  ただ、酒で回らない頭で今から理由を考えても、きっと墓穴を掘るだけだ。観念した幸輝は、ゆっくりと真実を口にした。 「実は僕、一人が苦手で……。部屋に帰ると途端に何もする気がなくなってしまって、食欲も全くなくなるんです。だからこの部屋は寝ることにしか使ってません」  冷たい水のおかげでわずかに酔いが冷めた幸輝が説明すると、誠一は「じゃあ」と次の質問を続けた。 「普段、夕飯はどうしてんだ?」  食べてません、と言葉にするのが何だか情けなくて、幸輝は無言のまま首を横に振ることで答えを返した。 「……だから、あんなに軽かったのか」 「軽い?」 「体重だよ。さっきお前を抱えた時、あまりにも軽くてびっくりした。腰だって女みてぇに細かったし」 「すみません……」  確かに、去年の健康診断では軽度の栄養不足と言われ、もっと食事を取るように言われた。肌が白くなるのも、貧血気味なのも全て身体に栄養が行き届いていないからだと。 「精神的なもんか?」 「……だと思います。でもどうしたら治るか分からなくて。心療内科に行こうと思ったことはありますが、どうせ出されるのは安定剤だろうと思って、今は内科で睡眠導入剤を貰っているだけです」  精神安定剤は強い薬ほど、依存度が高い。それに、一度飲み始めると自分の意思ではやめられない。それが億劫で、幸輝は足が向けなかった。 「まぁ、一人が嫌っていう気持ちは分からんでもないがな」  ペットボトルを持った誠一が、幸輝の隣に腰を降ろす。 「俺も長いこと一人いるから、たまに誰も待ってない部屋に帰るのが嫌になる」  ソファーの背に身体を預けた誠一は、そう言いながら長い足を伸ばした。普段のピンと背筋が伸びた姿とは違う、砕けた姿に幸輝の胸が温かくなる。自分の部屋で誠一が寛いでくれているのが、嬉しかったのだ。 「そういう時はどうしてるんですか?」 「色々だな。後輩捕まえて朝まで飲み渡ったり、朝までやってる店に行ったり。それが出来ない時は、強い酒飲んで寝ちまう」 「最後のところは同じですね」  クスッと幸輝が笑うと、誠一も「そうだな」と同意して笑った。  てっきり誠一は心の強い人間だとばかり思っていたが、以外なところに弱さを見つけたことで親近感が湧いた。 「ま、俺も結構寂しがり屋ってことだ。だから余程の時は、遠慮せずに声かけろよ。飯ぐらいならいつでも一緒に食ってやるから」 「そんなこと言うと、本当に甘えちゃいますよ」 「別に構わないから言ってるんだよ」  不意打ちのように、誠一の綺麗な手で前髪をくしゃりと撫でられる。いつでも一緒にご飯を食べてくれるなんて、社交辞令だとばかり思ったのに、撫でられた手の動きが存外優しくて、幸輝は思わぬ期待に胸を高鳴らせた。 「各務さんは……どうしてそんなに優しいんですか?」 「さぁ、どうしてだろうな。俺にも良く分からんが、お前みたいな奴が一人で頑張ってる姿見てると、何か手を貸したくなるんだよ」  中途入社で、相談できる同期もいない。周りからは特異な目で見られる。そんな悪条件の環境に必死に溶け込もうと努力している幸輝の姿が、心に染みたのだと誠一は言う。 「各務さん……」  いつものような鋭い目ではなく、慈愛に染まった優しい目で見つめられた幸輝は、不覚にも誠一の目の前で泣きそうになった。胸が詰まって、鼻腔の奥がツンと痛む。  こんな風に、温かな手を差し伸べて貰ったのは生まれて初めてだった。  こういう時、どういう態度を取ればいいのだろう。感情の赴くまま泣いてしまってもいいのだろうか、それとも男の癖に泣くのはみっともないから我慢するべきなのか。  これまで他人との付き合いを抑制されて来た幸輝は感情の出し方が分からず、黙り込んでしまう。すると二人を包んだ沈黙に耐えられなくなった誠一が、自分が放った台詞の臭さに気付いたとでも言うように、耳を真っ赤にしてソファーから立ち上がった。 「ま、何だ、そういうことだから、月瀬は後輩だからって遠慮なんかするなよ」  怒っているわけではないのに、誠一は早口で捲し立てるように言い放ち、幸輝に背を向ける。その動作から、誠一が今にもここから逃げ出したいといった様子が窺えた。 「じゃあ俺、そろそろ帰るわ」 「え……あ、待っ……」  誠一が帰ってしまう。それはつまり、この部屋でまた一人になってしまうということ。  ――イヤだ、一人にはなりたくない。  せっかくこんなにも心が満たされたというのに、また世界が灰色に戻ってしまうと思うと急に怖くなって、幸輝は玄関に向かって歩き出そうとした誠一のスーツの裾を咄嗟に掴んでしまう。  前に動こうとした誠一は当然後ろに引き戻され、体勢を崩しそうになる。 「っと、いきなり引っ張るなよ。びっくりするだ……――――」  振り返って軽い叱責をしようとした誠一の言葉が、幸輝を見た瞬間に止まった。続けて困ったように笑って溜息を吐く。 「全く、何て顔してんだよ」  自分が今、どんな顔をしているか分からない。ただ誠一を酷く困らせているのは確かだった。  けれど、今掴んでいるスーツの裾を、どうしても離したくないのだ。  細い身体の中で少しだけ強い本能と理性とが戦う。が、結果勝ったのは本能だった。 「各務さん、あの、今日……泊まっていって貰えませんか?」  縋るように見つめると、誠一がもう一度長い息を吐き出した。  見上げた顔の眉間には、皺が寄っているように見えて――――瞬間、幸輝は「ああ、失敗した」と直感した。  男が男相手に泊まっていってと縋るなんて、普通じゃない。きっと誠一は気持ち悪いと思っただろう。  それならさっさと謝ってしまおう。もしかしたら、今ならまだ酔った上での失言だと思ってくれるかもしれない。誠一に突き放されたくない幸輝が慌てて取り繕おうとした時、誠一がドスンと再びソファに腰をおろした。 「生まれてから四十年以上過ぎたが、男から誘われたのは初めてだ」  続いた沈黙とは全く違う、軽い声色が届いて、幸輝は状況に追いつけずに動きを止めてしまう。 「え?」 「ハハッ、嘘だよ。ってか、この部屋で煙草吸ってもいいのか? お前、非喫煙者だろ?」  ぽかんと口を開けたまま固まっている幸輝を見て笑った誠一が、次に煙に汚れていない白壁を気にする。その動作が、部屋に泊まってくれる了承だと漸く気付いた幸輝が弾かれたように顔を明るくした。 「っ! は、はい! 大丈夫です! 五十本でも百本でも吸って下さい!」 「バカ。一晩でそんなに吸ったら、幾ら俺でも倒れるだろうが」  花が咲いたような笑顔で喜んでいた幸輝の頭を、誠一が中指の第二関節でコツンと小突く。全く痛みを感じなかったのは、誠一が加減をしてくれたからだろう。でも、今ならきっと本気で叩かれても痛くなんて感じない。それぐらい、今の幸輝は歓喜に包まれていたのだ。

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