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第7話:宇宙一甘いフレンチトースト
明け方の空がそろそろ昇る日を迎えようとする時刻、静寂に包まれた室内に紙袋やビニール袋が擦れる音が響き渡った。
「お……重……」
その音の原因は、外から帰ってきた幸輝が両手一杯に持つ荷物だった。
漸くキッチンに辿り着いた幸輝は、痺れかけている両手に持っていた袋を、音を立てないように床に置く。それからすぐに袋の中から取り出したのは、真新しい調理器具と食材だった。
都会は本当に便利だ。食材や調理器具を取り扱っている二十四時間営業のコンビニや百円ショップが、徒歩圏内に何件もあるのだから。おかげで朝食を作る材料と器具を全て揃えることが出来た。
しかし何故、こんな早朝に突然朝食の用意を揃えたのか。それは昨晩、我儘を聞き入れて泊まってくれた誠一の為に、お礼として朝食を作りたいと唐突に思い付いたからだ。
誠一には本当に感謝している。幸輝が分からなかった人との付き合い方も教えてくれたし、これからも相談に乗ってくれると言ってくれた。そういった優しさに、少しでも感謝の気持ちを返したい。その思いだけで、幸輝はここまで用意したのだ。
「よしっ」
準備は万全。あとは携帯で調べたレシピを見ながら、料理を作ってしまうだけだ。
誠一は今、隣の寝室で寝ている。だから少し音が立っても、睡眠の邪魔にはならないだろう。
幸輝は、意気揚々と朝食の準備を始めた。
ちなみに今から作ろうと思っているのは、フレンチトーストだ。一見難しそうだが、これなら牛乳と卵と砂糖を混ぜたものにパンを浸してフライパンで焼くだけだから簡単だ。
幸輝は買ってきた調理器具を洗うと、レシピを見ながら下ごしらえを始める。動きはぎこちないが、材料を混ぜて浸すまでは成功した。
しかし、問題はそこからだった。
やはり、さすがに今まで一度も自炊をしたことがない人間が、いきなりフレンチトーストを焼けるはずがなかったのだ。
一度目は熱したフライパンにバターを入れたはいいが、いつまで待てばいいか分からず焦がしすぎて失敗し。二度目は最初の失敗からバターの頃合いは学んだが、次は浸したパンをどれだけ焼けばいいか分からず焦がして失敗。それを三度程繰り返した後、幸輝に待っていたのは、フレンチトーストの焼き具合に集中しすぎて熱したフライパンに触れてしまうという結末だった。
「熱っ!」
生まれて初めて体感した火傷に、幸輝は大きな声を上げてしまう。だが事態はそれだけに止まらず、さらに自分の声に驚いてフライパンの取手を腕に引っかけてしまうという大失態までおかしてしまったのだ。
結果、フライパンは見事に床の上へと落下。朝の六時に、物凄い音を立ててしまうのだった。
「おい、今の音……っ!」
恐らくフライパンが床に落ちた音が、寝室まで届いてしまったのだろう。寝室から誠一が驚いた表情を浮かべて出て来る。
そしてまだ回らない頭でキッチンの惨状を見た瞬間に、固まった。
「な、何だ、コレ」
寝る前まで確か何も置かれていなかったシンクの上に散らばるのは、卵の欠片に零れた砂糖と牛乳。そして真っ黒に焦げたパンの山。加えて床は逆さまに落下したフライパンと、その中から飛び散ったパンの欠片で見事に踏み場がなくなっていた。
「……俺が寝てる間に、一体何が起こったんだよ」
床に散ったパンを避けながら幸輝に近付き、一番にガスコンロの火を止める。
「すみません……朝食を作ろうと思って」
「朝食って……確かお前、この部屋で料理したことなかったんじゃなかったか?」
「はい……でも、フレンチトーストなら簡単だって書いてあったから……」
理由を説明すると、すぐに隣から深く長い溜息が聞こえて来た。
「確かに普通の料理に比べたら簡単かもしれないが、初心者には難しいと思うぞ」
「え、そうなんですか?」
そんなこと、レシピには書いていなかったのに、と幸輝が驚きの眼を浮かべる。
だが、きっと誠一が言うのならそうなのだろう。自分の考えの甘さに、幸輝は落ち込んで項垂れた。
火傷した指が、ジンジンと鼓動を刻むように痛い。
「ん? 指、どうかしたのか?」
指を庇うように守っている幸輝を見て、誠一が火傷に気づく。
「あ、フライパンを……」
「触ったのかっ? バカ、なら何ですぐに冷やさないんだよ!」
いきなり慌てだした誠一が、幸輝の手を掴んで火傷した指を流水で冷やした。
水の冷たさで痛みが引いていく。同時に心配してくれる誠一の顔が見られないほどの情けなさが、胸に募った。
「すみ……ませんでした」
「別に構わねぇよ。けど、何でまた朝食なんて作ろうなんて思ったんだ?」
「僕、昨日、各務さんに我儘言っちゃったでしょう? そのお詫びに朝ご飯を作ろうと思って……」
「俺への詫びに? 何だよ、そんなこと気にしなくても良かったのに」
幸輝の料理が自分の為だと知った誠一が、穏やかに笑う。その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも優しくて、思わず目を奪われてしまった。
どうしてだろう、心臓の鼓動が早くなる。
「ま、でもサンキューな」
高い位置から、誠一の手が降りてくる。その手は幸輝の頭に着地すると、クシャクシャと髪を弄るように撫でた。
「とりあえずここは俺が片付けるから、月瀬は向こうで座ってろよ」
火傷した患部を冷やす為の濡れタオルを渡され、背を押される。
「でも……」
「その手じゃ何も出来ないだろ。怪我人は大人しくしてろ」
「…………はい」
言い返せなかった幸輝は、言われた通りリビングに戻ってソファーに座った。そこからキッチンの様子を眺めていたが、誠一は起き抜けだというのに機敏に動いてどんどん残骸を片付けていく。多分、炊事は手慣れているのだろう。
それから三十分ほど経った頃、片付けを終えて戻ってきた誠一が手に持って来たものは、幸輝が作ろうとしていたフレンチトーストだった。
「あ、これっ!」
「食材が残ってたから、片付けるついでに作った」
渡された皿の上に乗るフレンチトーストは、綺麗な黄金色の卵と香ばしい焼き目がついたまさに理想そのものだった。
「わぁ、美味しそう。食べてもいいですか?」
「ああ」
「では、いただきます」
行儀良く手を合わせてから、幸輝はフレンチトーストを口に含む。するとすぐに、程良い甘さが口に広がった。
卵の焼き加減が、ちょうどいい。パン全体に掛けられたメープルシロップも程良い感じで染みこんでいて、卵の甘さを際立たせた。
「どうだ? 月瀬好みの味か?」
「はい、おいひいです」
あまりの美味しさに、幸輝はつい口いっぱいに頬張っていた。
「ったく、口の端にシロップべっとり付けやがって。子供みたいな奴だな」
呆れた様子で笑った誠一が、指で幸輝の唇についたシロップを拭う。それからその指を、ごく自然にペロリと舐めた。
「あ……」
「ん?」
「い、いえ。何でもありません」
今のは、どう見ても間接キスだ。男同士ではそんなこと気にすることでもないのだが、相手が誠一というだけで胸が高鳴ってしまう。
「あ、そういや火傷の方は大丈夫か?」
自分の皿を置いた誠一が、幸輝の手を取って火傷の様子を見る。
「痕になるぐらいのものじゃなさそうだけど、赤くなっちまってるな。痛むか?」
「す、少しだけ……」
突然、手を取られただけでなく、柔らかく撫でられて、幸輝の胸はまた大きく鳴った。
「お前肌白いから、余計に痛々しいな」
そう言った誠一の顔は、心から辛そうな顔をしていた。
朝からバタバタと騒いだ挙げ句、散在の片付けまでさせてしまったのに、それでも幸輝の火傷を案じてくれる。そんな誠一の優しさに、胸がぎゅっと締まった。
温かい。
触れられた場所から伝わって来る誠一の体温が、幸輝の心を震わせる。これは寂しがり屋の自分が求め、焦がれていたものだ、と大いに歓喜している。
思いがけないところで見つけてしまった希望の種に、じわりじわりと欲求が湧き出した。
もっと触れたい。
全身で、この体温を感じたい。
相手が男だとかなんて、どうでもいい。どうせ自分には、障害にすらならないのだから。
幸輝の本能が理性を揺らす。
今にも誠一の胸に向かって飛び込みたい衝動に駆られ、実行に移そうと身体が動きかける。
しかし―――直前で、幸輝は思い止まった。
ーー駄目だ、こんなことをしたら各務さんに軽蔑される。
それでなくても、自分は欲求に抗えないところがある。このまま抱きついてしまえば、それ以上のことを求めてしまうのは明白だ。
幸輝は幾許かに残った理性で、最後の一歩を踏み止まった。
「でも俺の為にって考えてくれたのは、すげぇ嬉しかった」
「……ほ、本当は、ちゃんと成功させて食べて貰いたかったんですけど……」
高ぶる欲求を必死に抑えながら、幸輝は誠一との会話を続ける。
「そんなに料理作ってみたいなら、今度教えてやろうか?」
「え……本当、ですか?」
ふと渡された提案に、狼狽していた幸輝は一転、子供のように目を輝かせて喜んだ。
誠一に料理を教えて貰えるなんて、幸輝にとってはこれ以上ない幸せだ。断る理由なんてこれっぽっちもない。
「ああ。でもその代わり、俺は厳しいぞ?」
「き、厳しい? え……っと……はい、頑張ります!」
鬼のように厳しい誠一を想像して、幸輝の表情と全身が固まる。
そんな幸輝を見て、誠一は声を上げて笑うのだった。
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