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第8話:この気持ちの正体

 誠一が泊った日以降、二人の距離は急激に縮まっていった。  夕食は二人で食べるようになったし、休みの前の日は幸輝の部屋で飲んで、そのまま誠一が泊まっていくことが当たり前になった。  休日は一緒に過ごして、たわいもないことをたくさん話して笑い合って、そして翌日が仕事だからと帰宅する誠一を見送った後、寂しくなって泣いて。  そんなことを繰り返す内に、幸輝はふと思ったのだ。  誠一が気になる、と。  だがこの気持ちは敬愛からくるものなのか、それとも恋愛という異質なものなのか、自分では判断を下すことはできなかった。  だからこそ、彼を呼んだのだ。彼ならきっと、答えを教えてくれる気がしたから。 「すまない、待たせたか?」  夜景をより映えさせる為にうんと照明を落とした店内のカウンターでカクテルを飲んでいると、不意に背後から声をかけられた。振り返ると、そこには今夜待ち合わせをしていた相手が立っていた。 「いいえ。僕の方こそ、こんな時間に忙しい玲二さんを誘ってしまってごめんなさい」  幸輝が親しげな笑顔を向けると、玲二と呼ばれた男も穏やかに笑って隣に座る。  幸輝がこんな時間と言い表す、夜も深くなった時間にホテルのラウンジに現れた八雲玲二は、大人の夜という言葉が酷く似合う男だった。  三十代半ばという年相応の凛々しい顔立ちに、一文字に結んだ唇は一見して堅物という印象を抱かせるが、淵のない眼鏡の奥から幸輝を見つめる眼差しは、殊の外優しい。しかし、彼が優しいのは決して眼差しだけではない。今日、幸輝と会う直前まで仕事だったのにも関わらず、こうして呼び出しに応じてくれるその性格もまた優しいのだ。 「先日、突然うちの事務所を辞めた時は驚いたが……その、今の会社では上手くやれているのか?」  幸輝と話しながら、玲二はバーテンダーに慣れた調子で酒を頼む。幸輝もついでと言わんばかりに、新しい酒を追加した。 「ええ、仕事も遣り甲斐があって楽しいですし、良い先輩にも巡り会えましたから、毎日が楽しいですよ。玲二さんの方は忙しいですか?」 「そうだな。衆院選が近いということもあって、色々なところで動き回っているよ」 「やっぱり、政治家の秘書って大変ですね」  先に飲んでいた幸輝が、しなやかな指でカクテルグラスを弄びながら、しみじみと言った。  幸輝は泉生命に入社する前、玲二が秘書を勤める議員の事務所で事務員をしていた。だから、選挙前の事務所がどれだけ忙しいかも知っているのだ。 「まぁ、付いてる人間の当落で、その後が大きく変わるからな。秘書とは言え、気持ちは立候補者と同じだ」  政治家の秘書を担う人間は自分もいつか政治の道を、と考えている者が多い。 「確かに周囲の環境や地盤が強固であったほうが、将来有利ですもんね。でも、玲二さんのところは大丈夫でしょ? あの人、毎回当選が決まっているようなものだから」 「こら、東岡先生を『あの人』呼ばわりするな。お前も世話になった人だろう?」  言葉は幸輝を叱るものだが、玲二の顔からは本気で怒っている様子は見られない。 「……そうですね、ごめんなさい」  謝ると、「しょうがない奴だ」と玲二は溜息を吐いた。 「全く、お前は俺が怒らないと思って、すぐにそうやって人を小馬鹿にした態度を取る」 「別に、小馬鹿にしたつもりはないですよ? ただ、今日はちょっと酔いが早いだけです」  誰が聞いても嘘だと一目瞭然の言い訳だったが、それでも玲二は顔を顰めることはない。やはり仕方がないという顔で柔らかな笑みを浮かべるだけだった。  玲二は、幸輝にかなり甘い。  こうして年が離れた幸輝が軽々しい態度を取っても怒らないし、普通なら呆れられる我儘も聞いたりしてくれる。さながら溺愛している実の息子でも相手にしているかのように。 「あっ、そういえば、亜希さんは元気ですか?」  幸輝はカウンターに向けていた身体を玲二の方に向け、顔を合わせる形になる。 「唐突だな」  突然、方向性が全く違う話題を振られた玲二は、少し意外そうな顔をした。しかし、すぐに話を合わせる為に表情を戻す。 「まぁまぁ。この前、里奈ちゃんと一緒に風邪を引いたって言ってましたけど?」  幸輝が口にした亜紀と里奈とは、玲二の妻と子のことだ。 「あの時は大変でしたね。いつもは冷静な玲二さんがびっくりするぐらい慌てるもんだから、僕もつられて慌てちゃいましたよ」 「そうだな。あまりに動揺しすぎて何を買って良いか分からず、ついお前に頼ってしまった」 「氷枕やスポーツドリンクを買って家まで持っていった時に出て来た玲二さんの姿、あれ結構貴重でしたよ」  いつもは常に髪を整え、きっちりとした格好をしている玲二が、髪も服もボサボサの状態で玄関から出て来た時は、一瞬訪ねた家を間違えたと思った。思い出して笑っていると、玲二は恥ずかしそうに顔を赤くした。  「家族の一大事だ、仕方ないだろう」 「そうですね。僕も仕方ないと思います」  普段は寡黙で仕事が出来る男だが、玲二は家族のことになると人が変わる。それだけ玲二という男は愛妻家であり、家族想いなのだ。 「でも、おかげで二人ともすぐに完治して、里奈も元気に学校に通っている。……亜希からも、深く礼を言っておくようにと頼まれた」 「そう……ですか。それは良かった」  亜紀からの伝言を聞いて、幸輝の笑顔の鮮度が少しだけ落ちる。 「あの時は悪かったな。俺の家に来るのは、その……辛かっただろう?」 「そんなことありませんよ。三人の役に立てたこと、嬉しく思ってます」  幸輝は、何も気にしていなと言うように笑う。しかしそれでも玲二の顔が晴れなかったのには、理由があった。  何故なら玲二の妻である亜希は―――十四歳で幸輝を生んだ、幸輝の母親だからだ。  玲二と亜希は母方の従兄妹同士だった。ゆえに玲二は亜紀の過ちも、幸輝の生い立ちもすべて把握している。  二十四年前、仕事で不在が多かった祖父母と暮していた亜希は、その寂しさから年上の男性と付き合い、そして幸輝を身籠もった。  今でもそうだが、当時も中学生の妊娠は衝撃的だ。しかし亜希は「子供が生まれれば、自分は一人ではなくなる」と、最後まで妊娠を隠し通して幸輝を生んだそうだ。  けれど厳格な両親がそのような愚行を許すはずもなく、結果、亜希は勘当され親戚の家へと預けられた。そんな状況の中、憔悴しきった亜希と母親と引き離された幸輝を支えたのが、当時たった十歳だった玲二であったのだ。  玲二は頻繁に幸輝に会いに来ては一緒に遊んでくれたり、悩みごとの相談にも乗ったりしてくれた。さらには祖父母の目を盗んでは子を深く想う母の気持ちを伝えてくれたり、贈り物を届けたりもしてくれた。そのおかげで幸輝は亜希を憎むことなく過ごすことができたのだ。  そんな玲二が亜希のことを深く愛していると気付いたのは、幸輝が高校に上がる頃だった。思いきって聞いてみれば、実は幼い頃からずっと亜紀のことを想っていたとのことで。  幸輝を一人にした贖罪から一生独り身を貫くと決めた亜希の傍らに、文句の一つも言わずに寄り添う玲二。そんな二人の想いに胸を打たれた幸輝は、玲二に亜紀との結婚を勧めた。  特に世話になった玲二には幸せになって欲しい。躊躇いなくそう思えたからだ。  幸輝に許可を貰った玲二はその後、亜紀を説得し結婚、それから里奈が生まれて今に至る。  愛する家族を手に入れた玲二は本当に幸せそうで、心から家族を慈しむ姿はいつしか幸輝の理想の父親像になった。亜希のことも『玲二の妻』という目で見ると不思議と距離が縮まったように思え、今では気軽に名を口にできるようになった。  ただ唯一の誤算だったのは、家族ができたことで昔から過保護気味だった玲二が余計に過保護になったことだ。玲二曰く、「幸輝と里奈は血の繋がった兄妹なんだから、幸輝も俺の子だ」らしいが、小学生の娘と同等の目を向けられるのはどうかと思う。  誠一もそういった意味では、玲二と少し似ている。幸輝を見る誠一の目も時々、会社の後輩というよりも、子供を相手にしているような目になるのだ。  ということは、そんなに自分は頼りなく見えるのだろうか。玲二のことから一転、自分の欠点を悩み始めた幸輝の前に、新しく頼んだドライ・マンハッタンが置かれる。  それが合図となったのか、玲二から先に話を切り出してきた 「……それで、お前は今、何に悩んでるんだ?」 「え、何で僕が悩み相談しに来たって分かったんですか?」 「お前が度数の高い辛口の酒を頼んだ時は、大抵何かに悩んでる時だ」  目の前のカクテルを指され、そう言われる。まさか自分にそんな習性があるとは、と幸輝は目の前のグラスを驚きの眼で凝視した。そして同時に、まだお酒を飲み始めて四年なのによく見てるなと玲二の着眼力に感服した。 「玲二さん、僕……気になる人がいるんです」  幸輝が告げた言葉に、玲二が僅かばかり目を見開く。 「それは恋愛的な意味でか?」 「分かりません。その……いまいち判断がつかなくて」  だから玲二に客観的な意見を聞こうと思ったと、自分ではお手上げ状態であることを訴えた。 「驚いたな、お前から興味を持つ人間なんて。で、その気になる相手というのは会社の同僚か?」 「先輩です。部署は違いますけど仕事上関わることが多くて、話している内に一緒に飲みに行く仲になりました」 「一緒に飲みに行く相手なら、もう既にかなりの距離が縮まっているんじゃないのか?」 「どうでしょう。飲みに行くのも、部屋に泊まって貰うことも、朝食を作って貰うことも、どれも普通のことだから距離が近いのかどうか……」  何をすれば距離が近いと判断されるのか分からない幸輝は、眉を八の字にして首を小さく傾げた。 「ちょっと待て。相手がお前の部屋に泊まって、朝食を作ったということは……つまりそういうことだろう? 相手の気持ちは、決まったようなものじゃないか」 「いや、そんなことないですよ。だって玲二さんだって時々部屋に泊まったり、朝食作ってくれたりするじゃないですか」 「それはお前が頻繁に熱を出して倒れるからだろう。それに俺は男だ、女性相手とは意味が違う」 「え? 女性?」  何か、どうも話が噛み合わない。ずっとそう思いながら話していたが、漸くその理由が分かった。 「あの、僕が話している相手って男性ですよ」  幸輝の衝撃的な告白に、玲二が目を見開いたまま固まった。それから数十秒、玲二は呼び掛けても全く動かない。これが所謂絶句というものなのだろうか。幸輝は自分が告げた真実がとんでもないことだと微塵も気付くことなく、動かない玲二の横でカクテルを口に含んだ。 「男?」  届いた酒を一口飲んだ玲二が、静かに尋ねる。 「はい、そうです。会社の先輩で各務誠一さんていう方です」  続けて簡単に誠一の紹介をする。面倒見が良いことや、的確な助言をくれること、笑顔が優しくて誠実なところ。しかし仕事や人間性を聞いていた時は少しも動かなかった玲二の眉気が、誠一の年齢を聞いた時だけ何故か動いた。 「俺よりも年上か」 「でも見た目は全く四十代に見えないんですよ。まぁ、ちょっと顔は怖いけど、長身で背筋もピンとしてて、あ、声も渋くて格好良いんです!」  特にあの声で名前を呼ばれると、どうしてだか凄くドキドキする、と顔を赤らめた幸輝が誠一の声を絶賛する。しかし本人は誠一のことを語り出した途端、自分が水を得た魚のようになっていたことに微塵も気付いていない。  逆に玲二の方は必死に冷静を保ちながらも、何度となく指で眉間の皺を伸ばしていた。 「あのな、幸輝……その各務さんという方のことを熱く語ってくれている途中で悪いんだが、いくつか確認してもいいか?」 「ええ、どうぞ」 「各務さんと一緒にいて楽しいか?」 「勿論、できれば毎日でも一緒にいたいです」 「じゃあ、もしも各務さんと俺、同じ日に誘いを受けたら?」 「それは、先に約束した方を優先しますけど……」  社会人として、人間として、ごく当たり前の答えを返す幸輝だったが、気持ちは誠一と過ごしたいという気持ちに向いている。 「最後に、……もし各務さんがお前にキスや肉体関係を求めてきたら?」 「え……」  誠一からキスを強請られる。その光景を想像した幸輝の胸が、通常の三倍高鳴った。 「そ、れは……その……」 「今すぐレストルームにいって自分の顔を見てみろ。はっきり答えが出てるぞ」  俺からしてみれば手放しでは喜べないが、と幸輝の表情を見て悟った玲二が皮肉交じりの溜息を吐く。 「じゃあ、これは恋愛感情……なんですね」  幸輝の中で気持ちはほぼ固まっているのに、どうしても最終決定を下せなくて玲二に確かめる。 「逆に聞くが、お前はただの憧れだけで片づけられるのか? 各務さんがある日突然女性を連れてきて、恋人だと言ったらお前は祝福してやれるのか?」 「……無理です。多分、その場で泣きます」  少し考えてから、祝福なんて絶対に出来ないと悟る。しかもその場面を想像しただけで鼻の奥が痛み、視界が微かに滲んだ。 「そっか……。やっぱり僕、各務さんに恋愛感情を抱いてるんですね」 「そういうことだ」  玲二はグラスに残った酒をグイっと飲干してから、決定打を下した。 「どうしましょう。……というか、何で玲二さんはそんなに落ち着いてるんですか?」 「これでも内心、かなり動揺してるぞ。だが……お前には恩があるからな、俺はお前が幸せになれるよう協力してやりたい」  きっと玲二は、亜希との結婚を許したことを指して言っているのだろう。幸輝にとって父親のような存在の玲二に認めて貰えてたというのは、かなり大きな親展とも言える。しかし―――。  「……でも僕は、この気持ちを各務さんには伝えないと思います」  カクテルグラスの淵を中指でなぞるように触れながら、幸輝は小さく呟いた。 「相手が同性だからか?」 「いえ、理由は僕にあります。玲二さん、僕ね……凄く好きな人に依存しちゃう人間なんです。相手に思い切り寄り掛かっちゃって、頼りきっちゃう。だからもしも各務さんが僕の気持ちを受け入れてくれたとしても、きっと重たいって思われて嫌われちゃうと思うんです」  そう、だから男だからとかは関係ない。  玲二に自分の欠点を話しながら、幸輝は頭の片隅で過ぎ去った過去を甦らせた。  あれは確か就職してすぐの時だ。一人暮らしを始めてすぐ、生まれて初めて一人の寂しさを知った幸輝は、ぽっかりと開いた心の穴を埋める為にたまたまバーで知り合った男性と付き合った。  その男性とは身体から始まった関係だったが、幸輝は普通と異常の境界線が見分けられなくなるぐらい、相手に依存してしまったのだ。  自分を見て。自分を愛して。貴方がいないと、死んでしまう。  最初は相手も、幸輝の願いに笑顔を返してくれた。見目美しい幸輝が、猫のように擦り寄ってくるのが気持ち良かったらしい。しかしその笑顔は、三ヶ月程した頃から少しずつ濁り始めた。  そして付き合い初めて五ヶ月。『お前の気持ちは、重すぎる』と言われ、幸輝は捨てられた。それから幸輝は、本気で恋をすることを抑制するようになったのだ。 「好きなら多少の依存ぐらい、許容してくれるだろう?」 「それが人並みのものなら。でも僕の依存は異常なんです」  誠一に抱き締められることを夢見てしまう反面、以前のように捨てられることを思うと胸が苦しくなる。一度優しさを知ってしまった誠一に「重い」と背を向けられたら、きっと今度こそ正気ではいられなくなってしまうだろう。 「お前は本当に不器用だな」 「僕が?」 「ああ。お前は昔から、他人からの誹謗中傷や度の超えた羨望には驚くぐらい柔軟な対応が出来るし、俺に対しては甘えと我儘の境界線をちゃんと分別出来る。なのに恋愛感情だけコントロールが出来ないだなんて、不思議な奴だ」  確かに、特異な容姿のせいで昔から色々な目で見られてきた幸輝は、いつの間にか『どの言葉』には『どんな答え』で返せばいいか判断がつくようになっていた。そこまで器用な癖に恋愛だけが不器用だなんて、情けなさ過ぎて目も当てられない。幸輝は両肩を竦ませるように上げて、苦笑を零した。 「まぁ、それはいいとして……しかしお前は嫌がるかもしれんが、そういうところは亜希と似ているな」 「そう……なんですか……?」  母親と似ていると言われた幸輝は、気分が落ちていくのを感じながらもどこか納得していた。  人の三倍寂しさに弱かった亜希は、その弱さから相手の愛に依存し、十四歳で茨の人生を歩むことになった。つまり依存が強いということは、それだけ身の破滅も起こしやすいということだ。だが間違いだと分かっていても、痛いぐらいにその気持ちが分かる幸輝には彼女を罵ることなんて出来ない。 「何を落ち込んでいる。俺が言いたいのは、亜希と似ているからダメだということではない。亜希と似ていても……必ず受け入れる相手はいるということを言いたいんだ」  目の前に事実例があるだろう、と玲二が少し恥ずかしそうに視線を逸らしながらも自分がそうであることを告げる。 「だから最初から諦めようとするな。俺ならいくらでも協力するし、何かあった時は最優先で話を聞いてやるから」 「ありがとうございます。その時は、相談させて下さい」  玲二には笑いながら前向きなことを言えたが、本心は一歩を踏み出す気にはなれなかった。  前に進んだら、必ず誠一との関係は崩れる。  だから誠一とは、ずっと今の関係を続けていこう。  幸輝は心の内だけでそう決め、生温くなってしまったカクテルを呷った。 

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