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第13話:今夜だけは泣かせて
あれから、どうやって部屋に戻って来たか自分でも覚えていなかった。
ただ気付いた時はもう朝で、出勤の準備をしなければならない時間だと身体が勝手に覚醒してしまった。別にあのまま一生起きなくても良かったのになんて思考に囚われながらも、幸輝は社会人の性として出勤する。
何事もなかったように仕事に従事して、無論食欲なんて出ないからいつものように食事は抜いて、それからふと誠一の顔を思い出す度に落ちる涙は知らないふりをして。幸輝はなんとか一日をやり過ごす。
幸か不幸か、家から顧客のもとへ直行した誠一とは、朝から対面せずに済んだ。多分、戻って来るのは日締めギリギリの時間になるだろうから、今日はそれまでに仕事を終わらせて帰ろうと決めている。
こういう時、誠一が仕事に忙しい人間で良かったと思った。今は、まだ顔を合わせるには辛い。
昨日まで、あんなに誠一が帰社するのを楽しみにしていたというのに。己の心境の落差に自嘲しつつ一日の仕事を終えた幸輝が帰社後に向かったのは、今回もまた急な呼び出しになってしまった玲二のもとだった。
「あ、玲二さん、こっちです!」
雰囲気のあるバーの中、場にそぐわない明るい声が響く。周りの客がちらりとこちらを見たが、玲二が謝罪の代わりに軽く頭を下げると再び個々の談笑に戻った。
「何だ、今にも消えてなくなりそうな声で呼び出したわりには、元気そうだな」
玲二はいつものように幸輝の隣に座ると、お気に入りの酒を注文した。
「あれ? 呼び出した時、そんなに元気ありませんでしたか? もしかしてお腹がすいていたからかな」
玲二に連絡を入れたのは確か昼前だから、この言い訳でも立つだろうと幸輝は簡単に嘘を吐く。
「あ、それとも、また僕が頼んだ飲み物で心境分かっちゃいましたか?」
今夜頼んだのは、度数は高いが甘口のプルシアン・ブロッサム。確かカクテルの意味は、希望と夢。今の幸輝の心境とは正反対のものだ。
「いや、今夜のカクテルでお前の心境は計れんな。それに、俺の目を欺くためにわざと毛色の変わった物を頼んだという可能性もある」
「……うーん、手厳しいですね」
やはり見抜かれてしまったか、と苦い顔をしながらも、幸輝はケラケラと笑った。
「お前、もう相当飲んでるだろ」
「まだそんなに飲んでませんよ。これで……四杯目かな?」
カクテルなんて小さなグラスに少量入っているだけだから、そんなに大した量ではないと言うと「度数の高いものを頼めば同じだ」と苦言を呈される。それからまだ中身の残るグラスを奪われ、代わりに冷たい水が置かれる。
「酷い、まだ残ってるのに……」
「ここで話しを聞くか、今すぐ自宅に強制連行のどっちがいい?」
玲二の顔が冗談ではないと語っている。こういうところに容赦がないのは、彼の中にある父性本能が強くなっているからだろう。
玲二は既に、幸輝が落ち込んでいることを悟っている。それならここは素直に言うことを聞いた方がいい。
「水、頂きます……」
冷えた水を飲んで、少しだけ頭をすっきりさせる。
「それで、どうした?」
呼び出した真の用件を問われた幸輝は、グラスの端に唇をつけたまま視線を下げた。
「……見事にフラレちゃいました」
「各務さんにか?」
コクリと頷いて肯定を伝える。
「気持ちは伝えないと言っていたじゃないか」
「……のつもりだったんですけど、あまりにも優しいから我慢出来なくて」
迂闊でした、と幸輝は自分自身を笑う。
「大丈夫か?」
幸輝が明るく振る舞う反面、玲二は心底心配そうに見つめてくる。温度差の違いに、せっかくつけた仮面が剥がれそうになり、幸輝は慌ててグラスの表面を額に付けた。
アルコールで火照った肌が、氷入りのグラスの冷たさに僅かな悲鳴を上げる。
「大丈夫ですよ。相手が同性だって時点で、結果なんて最初から分かっていたことですし。ただ、同じ職場だから今後、ちょっと気まずいかなぁって」
今日の幸輝は、不自然なほどに饒舌だった。いつもだったら、こんな風に無駄なことをペラペラと語らない。
「ああ、でも各務さんは仕事一番の人だから、仕事に支障が出るような態度は取らないかな。そういうところは真面目な人だから」
何週間、何ヶ月と立てば向こうも告白のことなんて忘れて、ただの会社仲間として見てくれるかもしれない。
「だから仕事の方は大丈夫です」
最後に笑顔を浮かべると、隣からふうっと短い溜息が届いた。
「……仕事なんて本当に辛くなったら辞めればいい。俺が心配しているのは、お前の心の方だ」
「心?」
「実はな、酒以外にもお前の心境を探れるものがあるんだ」
「え、何です?」
興味津々といった顔で玲二を見つめる。すると、何故か玲二が指をこちら差してきた。
「それだ。お前、笑顔が昔に戻ってるぞ」
玲二が差した昔とは、学生時代のことだった。
今の幸輝は、祖父母の家にいた時の笑顔になっていると。自分ではただ普通に笑っているはずなのに。
「もう……そんなの分かるの、玲二さんだけですよ」
「茶化すな。……お前、今、必死に感情を抑えてるだろう?」
図星をつかれて、グラスを包む指が震える。何のことかと、更に茶化そうと思ったが、すぐに視界が滲んでこれ以上強がることが出来なかった。
「辛いなら辛いと言え。俺の前でまで強がるな」
「す……みま……」
短い謝罪すら、最後まで言えなかった。
ポロポロと、次から次へと涙が落ちる。そんな状態でも不様に泣き崩れることが出来なくて、幸輝は必死に唇を噛んだ。
本当は今夜、記憶がなくなるまで飲んで、食べて、それで吹っ切るつもりだった。なのに、まだ心が少しも現実に追い付いていない。遙か後方に置き忘れられて、ずっと子供のように泣いている。
「今夜だけ……今夜だけでいいから、泣かせて下さい」
「今夜だけなんて言わなくて言い。これからも、辛くなったらいつでも呼べ。俺とお前はそういう関係だろ」
そう言って、玲二は幸輝の背中を優しく撫でた。
誠一に向けたような恋心はないが、玲二とは家族と同等の強い絆で繋がっている。その絆が、今の幸輝の唯一の救いだった。
「ありがとう……ございます、玲二さん。僕、頑張って……早く忘れますね」
涙で鼻声となった言葉は所々詰まっていたが、玲二は何も言わずに聞いてくれた。
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