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第16話:忍び寄る過去の影

 手を伸ばせば届く距離に恋人がいて、求めるよりも先に縛って離れないようにしれくれる。常に体温を感じられる生活というものが、これほどまでに幸せだとは思わなかった。  幸輝は生まれて初めて手に入れた幸福に、心から酔いしれた。そして、まるでドラマの主人公のように、このキラキラ輝く幸せが永遠に続くと信じて止まなかった。  ただ――――現実はドラマのように甘くはいかなかった。 ・ ・ ・  十一月戦も半ばを迎えると、泉生命は嵐のような忙しさに見舞われた。中でも外勤の人間が一番忙しく、連日早朝から深夜までの就労を余儀なくされている。  誠一が帰って来るのは、決まって日付が変わってから。そうなると必然的に夕食も外で取ることになるから、最近、二人で並んで食事を取ることも少なくなっていた。  ただ、一人になると食事を取らなくなる幸輝を心配してか、どれだけ忙しくても必ず朝だけは二人で食事を取る約束はしている。  仕事が終わった後、幸輝は誠一の部屋へと帰り、ベッドの中で誠一の帰りを待つ。そして僅かの幸せを求めんばかりに二人で眠り、朝を迎える。そんな生活が二人の日常になりつつあった頃――――その連絡は入った。  少しだけ遅くなった仕事の帰り道、不意に胸ポケットの中で携帯電話が震える。基本的に幸輝の携帯に電話してくる人間なんて、誠一か玲二しかいない。その癖から幸輝は着信の相手を見ずに携帯の通話ボタンを押してしまった。 「はい」 『――――久しぶりだな、幸輝』  それは誠一のものでも、玲二のものでもない、やや掠れた声だった。 「……っ!」  慣れ親しんだ相手のように名を呼ぶ声を聞いて、すぐに相手が誰であるか気付いた幸輝が、驚愕のあまり言葉を失う。 歩いていた足も、自然と止まった。 「東……岡さん……」 『新しい会社はどうだ? また孤立させられて寂しくなっては、男を漁る日々か?』  ゆったりしつつも、年を重ねているせいで張りのない声が下品な問いを言葉にする。湧き上がった嫌悪に眉を潜めるが、残念ながらそれは相手に伝わらない。だがせめてもの当てつけにと、幸輝は僅かに鼻で笑って返した。 「いえ、貴方に紹介していただいた会社はとても良いところでしたので、前の会社以上に楽しく働かせていただいてます」  普段から温和で人当たりが良く、人に不快感を与えない言葉遣いに徹している幸輝がここまで露骨な態度を示すのは、ただ暗に東岡という男が嫌いだからという理由だけではない。  東岡の声を聞いた途端に抱いてしまった、強い恐怖と動揺を隠す為だった。  この男には絶対に動揺を悟られてはいけない。幸輝は懸命に冷静を保って場を乗り切ろうとしたが、そんな小さな抵抗など東岡には全く意味がなかったと、すぐに思い知らされることになる。 『そうか。それはいいことだが、あまり深入りはするなよ。どうせ、時期を見て辞めることになる会社なんだからな』 「は? 何ですか、それ!」   さらりと当たり前のように告げられ、幸輝は底知れない怒りを湧かせた。 『お前には言っていなかったが、元々そういう予定だった。今すぐではないにしろ、近々お前は私の事務所に戻ることになる』 「勝手なこと言わないで下さい。僕は今の会社を辞める気はありません! それに最初に事務所を追い出したのは貴方の方です!」 『それは仕方のない話だったと言っただろう。それにお前も納得したはずだ』  今更、戻る気なんてないと東岡の言葉を拒絶するも、電話の向こうにいる相手からは何の感情も返って来ない。ただただ自分の都合だけを形にした言葉が返って来るだけで、余計に腹が立った。 .  東岡雄造という男は、元からこういう男だった。自己中心的で強引で、人の話なんて全く聞かない。自分の望みに酷く従順であり、その為ならどこまでも狡猾になれる危険な男だ。恐らく、東岡が元来から持つ性格とは別に、若い頃から何度も議員当選を果たしたという経歴が彼をそんな人間にしたのだろう。大学を出てから泉生命に入社するまでの間、勤めていた議員事務所で嫌という程、その性格を目の当たりにしてた幸輝は東岡の恐ろしさを熟知している。だからこそ、こうして話している間も、恐怖が消えないのだ。 「ええ、納得したから辞めたんです。事務所も……貴方との関係も」  思い出しくたない事実を口にすると、自然と眉間に皺が寄った。  ほんの数ヶ月前まで、互いの身体で熱を吐き出し合っていた相手だというのに、面白いぐらい情も未練も湧かない。だが、それで良いのだ。幸輝と東岡はそんな言葉で片付けられるような、淡泊な関係だったのだから。  二人の関係は、付き合っていた男に振られた幸輝が寂しさを紛らわす為だけに東岡の手を取ったことから始まった。幸輝は一人にならなければそれで良かったし、東岡は魅力的な容姿を持つ幸輝を抱ければそれで良かった。所謂、利害の一致だ。  しかしそんな関係が一年ほど続いた頃、東岡は週刊誌に『大物議員、不倫が原因による離婚秒読み』という記事を書かれた。幸いその時は相手が誰であるかという特定にまでは至らなかったが、その記事のせいで幸輝は事務所を辞めさせられることになったのだ。理由は、東岡の議員生命を守るために。  だが幸輝は、そんな身勝手を前にしても東岡を恨むことはしなかった。それは勿論、東岡の為なんかではない。これ以上関係を続けて相手が幸輝だと特定されてしまえば、今度は東岡の秘書をしている玲二にも迷惑がかかると危惧したからだ。  そうでなくても自分は複雑な生い立ちを持っているのだ。東岡の相手だと特定されて身の上を露見されれば、玲二にも玲二の家族も余波が及ぶ。それだけは絶対に避けたかったのだ。 「だから、事務所には戻りません」 『記者からの疑いの目は逸れた。もう戻って来ても、お前は疑われない』 「そういうことじゃありません。僕はもう貴方と関係を戻しません、と言っているんです」 『新しい男が出来たからか?』 「貴方には、関係ありません」  感情のない声で返すと、東岡もこれ以上電話で遣り取りするのも無駄だと思ったのか、早々に話を切った。 『まぁ、そんなことはどうでもいい。とにかく今から西新宿にあるPホテルに来い。話はそれからだ』 「僕は行きません」 『別に構わないが、後から困るのはお前と――――玲二君だぞ』 「……なっ……」  唐突に玲二の名を出され、幸輝は絶句する。それが東岡が勝利を確信する決定打になったとも気付かずに。 『頭のいいお前なら、どうすればいいか分かるな?』  東岡はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。  途端に、怒りと悔しさが限界にまで達する。しかし、その感情をどうすることも出来ない幸輝は、唇を強く噛んで携帯電話を握り締めた。

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