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第20話:明日への第一歩

 ぼんやりと開いた視界に映ったのは、白い天井だった。  ゆっくり覚醒していく意識が次に捉えたのは、清潔な、というよりも消毒薬を薄めたような香り。ここはどこだろうかと視線だけで周囲を見回していると、いきなり見知った顔が視界に飛び込んできた。 「幸輝、気付いたかっ?」 「玲……二さん? どうして……?」 「泉生命から、お前が倒れて病院に搬送されたと連絡があったから飛んで来たんだ」  玲二の口から出た病院という言葉で、幸輝はやっとここが病室なのだと把握する。同時に幸輝が寝ているベッド以外、一つもベッドが置かれていないことからここが個室だということも理解する。  しかし、何故玲二のもとに連絡が行ったのか。考えた瞬間に幸輝は、泉生命に再就職した際、緊急連絡先を玲二に指定していたことを思い出した。本来なら祖父母の名を書くべきところだが、東岡の事務所を辞めさせられたことを知られたら面倒なことになると玲二に言われ、そうしたのだ。 「すみません、ご迷惑をおかけして……」 「そんなことは気にしなくてもいい」 「でも……入院するほど酷い怪我でしたか? 確か僕、五段ぐらいの階段から落ちただけだと思うんですが……」  気怠い身体を起こしてから、もう一度玲二の顔を見る。その顔はいつになく険しかった。 「怪我の方は軽い打撲だけで、大したことはない。だが、内側は重症だ」 「内側?」  幸輝の問いに、玲二が一つ溜息を吐く。 「極度の栄養失調で、肝臓と胃腸の働きがかなり悪くなってる。貧血もかなり進んでいて、入院加療が必要なレベルだそうだ」  よくそんな状態で普通に歩いていたと、医者も呆れていたらしい。 「病院側としてはまだ血液検査しか判断材料がない為、正式な診断は出来ないが、内臓疾患でない限りは精神的なものによる摂食障害の症状と一致していると言われた」 「ああ……そうなんですか……」  だから軽度の怪我なのにも関わらず点滴がついているのかと、幸輝は自分の腕を見て人事のように言った。  また一つ、玲二から溜息が零れる。すると今度は幸輝の前で頭を抱えてしまった。 「幸輝。何故、こんな風になる前に俺に言わなかった?」 「あ……ごめんなさい」  幸輝は、玲二に心配を掛けてしまったことを謝る。当たり前だ、栄養不足が原因で階段から落ちて、忙しい玲二を呼び出してしまったのだ。怒られても不思議はない。けれど、次に玲二から返された言葉は、そういった類のものではなかった。 「俺は、お前に倒れられてまで守って貰いたいなんて思ってないぞ」 「え?」 「……もう全部分かっているから、これ以上隠さなくて良い。――――お前、東岡先生に脅されていたんだろう? 俺の将来を約束する代わりに身体を差し出せと」  こちらを見る玲二の目は、東岡とのことを疑っているものではなく、既に確信を持ったものだった。 「ど……うして、それを……」  思わぬ展開に、声が震える。 「本当は、以前からお前と東岡先生の関係に疑念を抱いていた。お前がまだ事務所にいた頃、ただの事務員であるはずのお前と先生が二人きりでいるところを何度も見かけたし、先生に不倫疑惑の記事が出た時も、先生は何よりも先にお前を解雇した。……そこまでされたら、誰だっておかしいと思うだろう?」  並べられた事実に、幸輝は何も返せない。 「ただ、あの時は何も証拠が掴めなくて何も出来なかった。だが先日、各務さんが俺のもとを訪ねてくれた時に、漸く確信が持てた」 「……っ! 誠一さん、玲二さんのところに行ったんですか?」  まさか誠一が玲二に会いに行っていたなんて思ってもいなかった幸輝は、心底驚いたという顔をしてピタリと全ての動作を止めた。 「ああ。先週だったか、突然俺がいる場所を調べて訪ねてくれてな。お前と昔の職場の人間の間に何かあったようだが、心当たりはないかと聞かれたんだ。それで詳しい話を聞いた時、一番に先生の顔が浮かんだ」  深く話を聞くと、誠一が玲二のもとを訪ねたのは、幸輝と決別した二日後のことだったということが分かった。わざわざ誠一の方から足を向けたと知った幸輝は、更に驚かされる。 「先生も記者の目が向かなくなったことで警戒心が薄れたんだろう。お前と使ってるホテルはすぐに割り出せた。脅されている理由も、俺以外の理由が思いつかなかった」 「……っ……」  玲二に全てを知られてしまったことが居た堪れなくなって、幸輝は思わず目を逸らした。 「どうしてそんなことをした……と言いたいところだが、お前の気持ちが分からないわけでもない。優しいお前のことだから、俺の将来を考えてくれたんだろう?」  優しく問われ、幸輝はゆっくりと視線を落とす。 「だって玲二さんは、いつも一人だった僕を救ってくれた恩人ですから……」  母親とも会えず、友達を作ることも許されなかった孤独な幼少時代の唯一の希望が玲二だったのだ。それだけ幸輝のとって大きな存在である玲二の将来は、何があっても守りたかった。 「そう思ってくれていることは嬉しい。俺だってお前のことを恩人と思っているし、亜希や里奈と同じぐらい大切な宝物だとも思っている。お前と考えていることは同じだ。だからお前と将来だったら、俺はお前を取る」  真剣な目が、幸輝を突き刺す。玲二は本気だ。本気で、将来よりも幸輝を取ろうとしている。玲二の気持ちを読んだ幸輝は、無言で首を横に振った。 「そんなの……駄目です。玲二さんは、俺なんかより将来を選んで下さい。里奈ちゃんや……亜希さんの為にも」  玲二には守らなければならない家族がいる。そう告げると、玲二は困ったように眉を寄せて、息を吐いた。 「お前なら、必ずそう言うだろうと思った。そういう頑固なところも、亜希に似ているからな」  一度決意したことは、どんなことがあっても覆さない。亜希も同じ性格だと、玲二は告げた。 「それなら……、亜希さんと似ていると言うなら、僕の気持ちも理解してくれますか?」  幸輝は頭を上げると、玲二と同じ強い目をしてそう言った。その決意の強さに、玲二は何度か頷く。 「……そうだな。お前がそこまで言うのなら、理解しよう。ただその代わり、お前にも俺の決意を理解して貰うぞ」 「玲二さんの決意?」 「先生の……いや、東岡の事務所を辞めてきた」  一つ息を吐いてから告白した玲二の決意は、とんでもないものだった。  あまりにも驚き過ぎて、つい冗談だと思ってしまう。しかし普段から冗談でも自分の上役を呼び捨てにしない真面目な玲二がそうしたということは、嘘ではないということ。  時間を追ってやっと認識した幸輝は、これでもかという程、目を見開いて驚愕した。 「玲二さん、何でそんなことをっ? あの人のもとから離れたら、玲二さんの将来が駄目になるじゃないですか」 「だからと言って! 子供の幸せを犠牲にしてまで出世したいと思う親がどこにいる!」  幸輝に続いて声を荒げた後、玲二は思いを噛み締めるように吐き出した。 「お前がどう思おうが、お前は俺の子供だ! 赤ん坊だったお前を亜希の代わりに抱き締めた時から、お前は俺の子供なんだ!」 「玲……二さん」 「俺はあの時誓った。お前には必ず幸せな人生を歩ませると。亜希の心の闇に気付けなかった時のような過ちは二度と繰り返さないと!」  両手の拳を強く握り締め、全身を震わせながら語った玲二の思いが強すぎて、幸輝は一言も反論が出来ない。ただただ目を見開いて見ていると、玲二が「それなのに!」と辛そうに顔を歪めた。 「それなのに……俺のせいでお前をこんな目に遭わせてしまった……」  幸輝に無理を強いた東岡も憎いが、早く気付けなかった自分自身も憎いと玲二は後悔を口にする。 「すまない幸輝。不甲斐ない俺を、許してくれ」 「玲二さんが謝る必要なんてないです。あれは、僕が勝手に決めたことですから」  頭を下げる玲二に、幸輝は慌てて頭を上げてくれと願った。 「玲二さんの気持ちは分かりました。でも、事務所を辞めたら玲二さんの家族が……」  仕事を辞めてしまったことで影響が出るのは、玲二のことだけではない。亜希や里奈にも大きな余波が及ぶだろう。幸輝はそれが心配だった。 「そのことなら大丈夫だ。事務所を辞めることは、亜希も了承してくれている。……幸輝の幸せの為に出来ることなら、何でもしてやりたいと言っていたぞ」 「亜希さんが……」  幸輝の為なら、自分の立場や生活が苦しくなることも厭わない。二人の選択は幸輝が選んだものと全く同じだったが、愛情の深さが違った。  血の繋がりや、親子としての思い出がなくても、幸輝を本当の子供として守ってくれている。そんな二人の愛が、幸輝の凍った心を解かしていった。  自然と涙が溢れる。 「玲二さん達がこんなにも僕のこと思っていてくれてたこと……全然分かってなくて、ごめんなさい……」 「こういう時は『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』でいい」  玲二が穏やかな笑顔を向けて、頭を撫でてくれる。その顔は、正真正銘の父親の顔だった。 「ありがとう……ございます……」 「それでいい。――――さぁ、これでもう各務さんとも仲直り出来るな?」  漸く本題に入れた、とでも言うように玲二は誠一の話を持ち出す。しかし、幸輝の顔は途端に曇った。 「僕、誠一さんの信頼を裏切ってしまったから……」  もう幸輝のことが分からないと言われた時の誠一の顔を思い出し、視線を落とす。俯いた先に見える指先が、意思に関係なく震えていた。  きっと誠一は許してくれない。眉をぎゅっと寄せてそう告げると、軽い苦笑が耳に届いた。 「お前達二人は、どちらも揃って不器用だな」 「二人って……誠一さんも、ですか?」 「ああ、そうだ。……先日、各務さんが俺を訪ねてきた時、彼は俺に何て言ったと思う?」  分からなくて、幸輝は首を横に振る。 「お前が苦しんでいるなら、助けてやりたい。自分との関係のことは二の次でもいいから、とにかく先にお前の笑顔を取り戻したいと必死になって俺に協力を依頼してきた」 「誠一さんが、そんなことを……」  許されない裏切りをしたというのに、幸輝を助けることを願った誠一の優しさに、止まっていた涙がまた溢れてきた。 「お前のことをどうでもいいと思っていたら、そんなことは言えないと俺は思うぞ」  玲二は断言する。しかし、それでも恐怖が拭いされない幸輝が一歩踏み出せずにいると、玲二がもう一つと言わんばかりにそっと背を押した。 「彼は、お前のことを何よりも一番に考えてくれる優しい人間だ。多分、彼以上にお前を幸せにしてくれる人間はいないだろう。そんな人間を手放すのか?」  誠一を手放す。たったそれだけの言葉で、幸輝の迷いが音を立てて崩れる。 「い……嫌です。手放したくありません!」  玲二の問いに、幸輝は否、と首を振り切れんばかりに振った。 「だったら諦めるな。もう一度、正面から向き合って必ず彼を取り戻せ」  気持ちを奮い起こされた幸輝の目に、瞬間、強い意志が宿る。  「――――はい、分かりました」  無論、その目には一筋の迷いもなかった。 ・ ・ ・  ベッドから動けない幸輝に代わって誠一と連絡を取ってくれた玲二は、「一時間程で病院に着くそうだ」と伝えてから帰って行った。  多分、気を利かせてくれたんだろう。  玲二が帰った後、幸輝は誰もいない部屋で誠一の到着を待つ。  しかし、その胸中は不安で埋め尽くされていた。玲二には誠一を取り戻すと約束したし、自分もそのつもりだがやはり恐怖は拭えない。例えどんな理由であれ、幸輝が誠一を裏切ったことに変わりはないのだから。   もし玲二を助けたかったという行動を許してくれたとしても、他の男に抱かれた身体を受け入れてくれなかったらどうしよう。抱き締めてくれなくなっていたら、どうしよう。  一人でいると、悪いことばかりしか頭に浮かばない。気付くと震えている指はシーツを握ることで抑えられるが、心の方はどうすることも出来なかった。  五分、十分、と時計の針を見る度に誠一に会える喜びと、拒絶される不安が交互に幸輝を襲う。そんな時間を小一時間過ごしていた頃、とうとう幸輝の病室に来訪者を告げるノックが響き渡った。 「っ!」  ビクリと、身体が大きく震える。手の震えは一段と大きくなったが、幸輝は覚悟を決めて声をかけた。 「……はい、どうぞ」  入室を許された来訪者が、扉を開ける。ゆっくりと開かれた扉の向こう側に立っていたのは、襟の高い黒のコートに身を包んだ誠一だった。 「誠一……さん……」 「幸輝……」  直前まで不安でいっぱいだったはずなのに、誠一の顔を見た途端、そして声を聞いた途端に色々なものが全て吹き飛んでしまう。どの順番で事を説明すればいいかとか、それよりもまず一番に謝らなきゃとか、ちゃんと頭の中で考えていたはずなのに、ただ誠一の温もりに触れたいという感情だけが先に立ち、幸輝はその場でじっとしていることが出来なかった。 「誠一さんっ……っ……」  ベッドを飛び出し、スリッパを履くことも忘れて裸足で誠一の元へと駆け出そうとする。しかし、動いた瞬間に打撲の痛みと貧血に襲われ、幸輝はその場でふらついてしまう。  そんな幸輝を見て驚愕した誠一が、持っていた紙袋を落としてこちらに駆け出した。 「幸輝っ!」  伸ばされた誠一の腕に身体を掬われ、そのまま抱き留められる。一気に身体が密着したことで、幸輝は嗅ぎ慣れた誠一の香りに包まれた。 「あ……っぶねぇ……。オイッ、いきなり走り出す奴があるか! 点滴だってついてるのに!」 「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん……なさい」  誠一の怒声に対して、幸輝は息次ぐ間もなく謝罪の言葉を繰り返す。しかし、それはいきなり飛び込んだことを謝っているのではない。これまでのこと、裏切ったこと、全てに対しての謝罪だった。 「……ったく、とにかく謝るのとかは後にして、ベッドに戻れ。今は動くなって言われてるんだろ?」  玲二に状態を聞いたのだろう。誠一がどうにかして幸輝をベッドに戻そうとする。だが幸輝は、誠一にしがみついたまま動こうとしなかった。両手で必死に誠一のコートを掴み、イヤイヤと首を横に振って離れたくないことを無言で訴える。  ここで手を離してしまったら、もう二度と触れることが出来ない。そんな気がして堪らなかったのだ。  誠一がフゥッと溜息を吐き、その後、子供をあやすかのように背中を優しく撫でられる。 「俺はどこにもいかねぇ。ちゃんと隣にいてお前の話聞くから……な?」 「…………はい……」   誠一にそこまで譲歩されてしまっては、これ以上我が儘は言えない。幸輝は、身体を震わせながらゆっくりと離れた。  すると、少しだけ屈んだ誠一が幸輝の背中と膝の裏に腕をくぐらせ、そっと抱き上げる。そのままお姫様抱っこの形でベッドに戻され、先程の玲二と同じように病人と見舞い人の距離で向かい合った。 「貧血は落ち着いたか?」 「はい……」  誠一の温もりを失った途端に元気をなくした幸輝が、覇気のない声で返事をする。 すると、あからさますぎる態度に、目の前から少しだけ呆れたような苦笑が零れた。しかし誠一は幸輝をバカにすることなどなく、徐にシーツの上に落ちた血色の悪い手を取る。そして両手で包んだ幸輝の甲を、誠一は労るように撫でた。 骨ばった指で不器用に、しかし酷く愛おしそうに。 「すっかり痩せちまったな」  少しの間、誠一は辛そうな表情を浮かべて撫で続けていたが、不意に動きを止めると静かに口を開いた。 「八雲さんから一通りの話は聞いた。父親同様の八雲さんの将来を守る為に、相手の言うことを聞いてたんだってな?」  幸輝は無言のまま頷く。 「お前の生い立ちから考えると、選択は間違ってないんだろうって思う。……まぁ、恋人としては、かなりきついけどな」 「ごめんな……さい」 「謝んなって。他に方法がなかったんだろ?それに比べて……器が小さかったのは俺の方だ。お前が他の男と会ってたってことだけに腹を立てて、お前の言葉をすぐに信じてやることが出来なかった」  自分が不甲斐ないと、誠一は視線を落とした。 「あの時は怒りに任せて、お前を責めることしか出来なかった。だがよくよく考えてみたら、あの時のお前は――――いや、もっと前か……どこかおかしかった。何かに苦しんでる顔をしてた」  一つの疑問から、どんどん別の疑問が湧き、結果、幸輝に何かがあったのかもしれないという考えに至ったのは、二日も経った後だった。誠一は幸輝の手を握ったまま、後悔を口にする。 「恋人なのに、すぐに気付けなかったなんて情けねぇよな……」 「いいえ、誠一さんに間違ってたところなんて一つもありません。間違っていたのは全部僕です。あの人に脅されて……他の解決策を考える前に屈したことは、誠一さんへの裏切りと同じです」  誠一に悪いところなんて一つもないのに、そんな言葉を言わせてしまった幸輝は、慌てて否定した。 「けど俺が責めた時、お前は自分が好きなのは俺だけだとはっきり言ってくれたじゃねぇか。それでも信じなかった俺だって、お前を裏切ったようなもんだ」 「それでも……先に誠一さんを裏切ったのは僕ですから」  二人が揃って自分が悪いと言う。これでは平行線のまま交わることはない。そんな空気の中、先に解決案を提示したのは誠一だった。 「……じゃあさ、今回は二人共に悪かったってことにしねぇか?」 「え……二人…‥?」  幸輝では考えもつかなかった解決案に、意表を衝かれて顔を上げる。  目の前では、誠一が穏やかな笑顔を浮かべていた。 「そう。どっちが先とか後とかも関係ない。二人共未熟だったってことにして、反省し合ってそれで終わりにしようぜ」 「終わ……り……」  終わりという言葉に、幸輝が顕著な反応を示す。  やはり誠一は、他の男と関係を持った幸輝を抱きしめることは出来ないのだろうか。恐れていた現実がまた目の前でちらついて、幸輝の心を不安に染める。  しかし、じわりと眦に涙が浮かんだところで、すぐさま誠一に小突かれた。 「バカ。何、変な勘違いしてんだ。俺が終わりにしようって言ったのは今回のことで、俺とお前の関係じゃねぇよ」  幸輝を小突いた指がそのまま降りて来て、眦に溜まった涙を拭う。   煙草の香りが染みついた指は、これまで何度も幸輝が流した涙を優しく拭ってくれた。今回も勿論、前と変わらない優しさが込められている。それは誠一の心もまた、前と変わっていないことを証明しているのと同じだった。 「なぁ、幸輝」 「はい……?」 「俺な……例えお前が誰かに抱かれようと、やっぱりお前のこと手放せねぇ。この年になるまでずっと探して、やっと見つけた最高の相手なんだ。だから俺の最後の相手は、お前以外考えられない」  少し照れくさそうに、だがそれでも真剣な目で誠一はそう告げた。 「誠一……さん……?」  誠一から贈られた言葉で、幸輝の瞳にみるみると生気が宿っていく。 「本当に? 僕で……いいですか? 僕を……許してくれますか?」 「ああ、幸輝でいい。いや、もう俺は幸輝しかいらない。だからお前の最後の相手も俺にしてくれ」 「はい……っ、はい!」  誠一がまた受け入れてくれたことが嬉しくて、幸輝は子供のように目を輝かせて返事をした。  二人は何を言うまでもなく見つめ合うと、磁石のように引き寄せられ、唇を重ねる。 「ん……」  柔らかに触れたキスはすぐに深くなり、まるで離れていた時間を埋めるように貪り合うものになる。 「誠一さ……んっ……僕……も、誠一さん以外……いらない……」  口腔を全て飲み込むかのような誠一の舌に、幸輝は己の舌を絡めながら想いを告げた。更に誠一の首に腕を回すと、離れないように絡み付く。 「こら……これ以上煽るな。ここ、どこだと……思ってるんだ」  これ以上深く触れたら、衝動を抑えられなくなってしまう。危惧した誠一が離れようとするが、幸輝は痩せ細った腕で必死に抱き寄せて離れるのを拒んだ。 「や……誠一さんと、もう離れたくない」 「俺だって同じだよ。……ったく、今すぐ食い尽くしたいと思ってるの、お前だけだと思うなよ」  密着した状態で、誠一が幸輝の瞼に唇を落とす。 「けどな、いい子だから今は我慢してくれ。ここで無理させて入院が長引いたら、俺が八雲さんに叱られる」  幸輝の体調と、場所。そして何より玲二の異常な過保護さを考えると、ここはお互い我慢した方が得策だと誠一に諭され、幸輝は渋々腕を解く。幸輝もまた、ここで体調を悪化させて玲二に怒らせることが、後にどれだけ不都合なことになるか知っているのだ。 「…………はい」  素直に頷いた幸輝の頭を撫でた後、誠一は「ちょっと待ってろ」とベッドから離れ、先ほど床に落とした紙袋のもとへと行く。中には安定性のあるものが入っているのか、慌てて落としたにも関わらず、紙袋は横に倒れることなく床の上に鎮座していた。それを持って、誠一が戻って来る。 「これ、今食えるかどうか分からないけど……」  そう言った誠一に渡された小さな紙袋は、底が少し温かかった。 「これは……?」  紙袋の口を開けて覗くと、中にはプラスチック製の白いタッパーが入っていた。そこから微かに食欲を刺激する匂いが、香って来る。 「肉じゃがだよ。八雲さんからお前が栄養失調で入院するって聞いて、きっとまたメシ食べられなかったんだろうと思ってな。急いで作ってきたんだけど……」 「誠一さんの、肉じゃがっ?」  驚いた幸輝が紙袋の中からタッパーを取り出し、蓋を開ける。中にはジャガイモと人参、そして玉葱と牛肉がたっぷり入った肉じゃがが入っていた。さすがに男の料理なのか、入っている野菜が全て大きい。きっと煮るのに時間が掛かったことだろう。 「美味しそう……」  鼻を擽る甘い香りが、更に食欲をそそる。 「食えそうなら、少しだけでも食えよ。…………あ、でも、入院中って医者の指示したものしか食っちゃ駄目なんだっけか?」 「別にそんなことはないと思います。多分、僕の場合は食べられるなら逆に食べろって言われると思うし。それに……これ、食べたいです」  ずっと食べたいと思っていた誠一の肉じゃがが目の前にあるというのに、食べないなんて勿体ない。 「そっか。でも、あんまり無理するなよ。急に食ったら胃がびっくりしちまうからな」 「はい」  紙袋の中に一緒に入っていた箸を取り出した誠一が、タッパーの中のジャガイモを掴む。 「ほら」  口の前まで持ってきて貰ったジャガイモをそのまま頬張ると、口全体に甘さが広がった。紛れもなく、それは幸輝の一番好きな肉じゃがの味だった。 「誠一さん、美味しいです」  最高に幸せだった。幸せすぎて、涙がボロボロと勝手に零れてしまう。 「全く……泣くか笑うか食うかのどれかにしろよ」  誠一は苦笑を浮かべながらも、嬉しそうに幸輝の涙を拭っては、肉じゃがを繰り返し口に運んだ。 ・ ・ ・  幸輝が入院した日から、誠一は毎日のように病室に見舞いに来た。  朝は出勤前に一度寄り、昼も仕事がない限り会いに来る。夜は個室ということで面会時間が他より緩いこともあり、仕事終わりに必ず寄ってくれた。  しかも誠一は、狙ったかのように朝と昼は食事時に来ては、病院食以外に自分が作って来た料理を幸輝に食べさせた。誠一は「早く幸輝を退院させたいから」と言っていたが、どうやら幸輝に一人で食事させたくないというのが本心らしい。  そんな誠一の献身が功を奏したのか、幸輝の体調は医者も驚く早さで回復した。勿論、摂食障害の原因だった誠一との問題が解決したことも、大きな回復理由だが。  入院してから一週間。体調も検査の数値も良くなった幸輝は、主治医から念願の退院の許可を貰うことが出来た。まだ少しの間は通院が必要だが、日常生活に戻っても障りはないらしい。  そしてやって来た、退院当日。 「荷物はこれで全部か?」 「はい。二日前から誠一さんが色々と持って帰ってくれていたので、大荷物にならずに済みました」  旅行鞄に入れられた荷物を持って歩き出した誠一の後に続いて、幸輝が病室から出る。  退院が正式に決まったのは二日前。それを誠一に伝えたら大喜びして、その日の内から退院の準備を始めてしまった。おかげで幸輝は身一つで退院という運びとなったのだ。 「でもあの……今日平日ですけど、仕事は良かったんですか?」 「それなら大丈夫だ。部長に有休くれって言ったら、『日頃働き過ぎだから、逆に使ってくれた方が助かる』なんて言われたぐらいだからな」 「確かに、誠一さんは少し働き過ぎですからね」 「まー、それは否定出来ないけどな」  笑い合いながら誠一の車に乗る。元々、仕事では社用車を使っていた誠一は、自分の車を持っていなかった。だが幸輝と付き合うのなら車は必要だろうと、十一月の始めに購入していたらしい。  幸輝と一悶着した時はどうなるかと思ったが、無駄にならなくて良かったと誠一は言っていた。  出会ってそろそろ四ヶ月になるが、誠一の運転する車に乗るのは初めてだ。仕事で頻繁に運転していることもあって誠一の運転は上手く、車体も全く揺れない。  それに加え、片手で器用にハンドルを操作する誠一の姿がこれまた格好良くて、幸輝は思わず見惚れてしまった。 「そういや、医者はいつから仕事復帰して良いって?」 「定期的な通院を約束するなら、来週からでも良いそうです」  誠一に釘付けになっていた視線を慌てて戻し、聞かれた問いの返事をする。 「そうか。職場の皆も、お前の復帰を待ってるから喜ぶぞ」 「そうなんですか? 僕、今回のことで皆に迷惑掛けちゃったから、嫌われているものだと思ってたんですけど……」  誠一に背を向けられてからは、特に失敗も多かったし、余計な心配も掛けさせてしまった。そして挙げ句の果てに怪我して入院だなんて、嫌われても可笑しくない。 「んなことねぇよ。お前は勤勉だし、残業も嫌がらないし、何より笑顔が可愛いってお前の部署の連中は皆、すげー気に入ってるらしいぞ。……時々、俺も心配になるぐらいにな」 「そんな……僕の笑顔なんて、誠一さんが隣にいて初めて成立するものですから、そんなに心配するようなことはありませんよ」 「俺がいてって……全く、どうしてお前はそう、人が照れるような言葉がコロコロと出て来るんだよ」  誠一が赤くなりながら「だから手放せなくなるんだよ」と呟く。それが聞こえてしまって、幸輝もまた顔を真っ赤に染めた。 「す、すみません……」  まだ付き合ったばかりの初々しい恋人同士のように照れ合いながら、二人は帰路を進む。  暫くの運転の後、二人が辿り着いたのは誠一の部屋だった。本当なら幸輝の部屋に戻るのが普通なのだが、誠一がまだ幸輝を一人にするのが不安だと言うので、仕事に復帰するまで誠一の部屋で過ごすという話になったのだ。  当然、誠一と一秒も離れたくない幸輝が、その提案を断るはずがない。 「じゃあ、俺はコーヒーでも入れて来るから、お前は座って休んでろよ」 「はい。それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰いますね」  部屋に着いた二人はひとまず休憩しようということで、荷物の片付けを後回しにした。誠一は「慣れない車を運転して疲れた」なんて言っていたが、恐らく幸輝の体調を気遣ってくれたのだろう。そんな誠一の優しさに包まれながら、幸輝は座ってぐるりと部屋を見渡す。  ここに来るのは、何週間ぶりだろうか。部屋は誠一の代名詞でもある煙草の香りと、石鹸の香りに包まれている。懐かしくも愛おしい香りに、幸輝は「ああ、帰って来ることが出来たんだ」と安堵する。  その内に、インスタントのコーヒーを用意した誠一が戻って来た。 「ホラ、コーヒー。ミルクと砂糖たっぷりで良かったか?」 「ありがとうございます」  コーヒーを受け取って、二人で横並びに座る。 「気分は悪くなってないか? もし、辛くなったらすぐに横になれよ」 「大丈夫ですよ。先生からも無理しなければいいって太鼓判貰いましたし。それに今回の入院期間で結構体力も体重も戻ったから、そんなにすぐには疲れませんよ」 「太った? 俺からみたら、まだガリガリだけどな」 「いいえ、今じゃ誠一さんの方が細いです。誠一さんはどれだけ食べても太らないですけど、僕はすぐに身体についちゃう方なんで、逆に考えないといけないんですよ」  前々から思っていたが、誠一は本当に細い。以前、誠一の裸を見た時、筋肉はあるのに意外と全体がほっそりとしていて驚いたことを幸輝は思い出した。外回りでよく動いているということもあるが、多分誠一は元から太らない体質なのだろう。  幸輝は考えながら、隣に座る誠一の腰を触った。 「……うん、やっぱり誠一さんの方が細い」  自分と比べながら触っていると、不意に誠一の腕が伸びてきてそのまま抱き寄せられた。 「いーや、まだ幸輝の方が細い。もっと丸々と太らねぇと、抱き心地が悪い」 「何ですかそれ。誠一さん、まさか太ってる人が好きなんですか?」 「別に。幸輝だったら、どんな姿でも構わねぇから。ただ、倒れるぐらい痩せるのは禁止な」  どんな姿でも構わないなんて言われて、幸輝は一気に顔が赤くなった。  誠一は時々、ポロリと爆弾のように幸輝の胸を射貫く言葉を落とす。しかも無自覚で。その度に心臓が壊れそうなぐらい高鳴り、幸輝を困らせる。今なんて更に抱き寄せられている状態だ。余計にドキドキが増してどうにかなりそうになっていると、不意に誠一が何かを思い出して「あっ」と声を上げた。 「そうだ。俺、幸輝に退院祝い用意してたんだ」 「退院祝いですか? そんな、気を遣って貰わなくても……」  ただでさえ入院で迷惑かけたのだから、と申し訳なさそうな顔を向けると誠一は口角を僅かに上げ、意地悪そうに微笑んだ。 「いるか、いらないかは物を見てから決めろよ」  手を出せと言われ、幸輝は両手で水を掬う時のような形を目の前に作る。  次の瞬間、手の中にカシャンと小さな金属音が鳴った。  最初に目に入ったのは銀色に光るボールチェーン。そしてその先にはチェーンよりも数倍輝くシルバーリングがついていた。 「こ、れ……」  驚いた幸輝が指先でチェーンの部分を摘まみ、持ち上げる。宙に浮いたリングがゆらゆらと揺れると、光に反射して眩しいくらいキラキラと光った。  この形はメビウスの環だろうか。しかもよく見てみるとリングの内側には『S to K』と刻印されている。これはもしかしなくても、アレなのだろうかと考えながら凝視していると左上からわざとらしい咳払いが聞こえた。 「い、一応、サイズは合ってると思う。だから填めても問題はないだろうけど、俺もお前も職場ではつけられないだろ? だからチェーンに通した」 「じゃ……じゃあ、もしかして、やっぱりこれ……」  弾かれるようにして顔を上げると、耳まで真っ赤に染まった誠一の、照れ臭そうな顔があった。  だが見つめ合っている内に、誠一の顔が段々甘く、そして凛々しくなっていく。 「まぁ所謂ところの給料三ヶ月分、ってやつだ。貰ってくれる気にはなったか?」 「も、勿論です! でも、良いんですか? これ、本当に僕が貰っちゃって……」 「ってか、お前以外に誰が貰うんだよ。それはお前専用だ」  呆れたように言われながら軽く左手で小突かれる。しかしその指には指輪がない。もしかして、と幸輝は誠一のシャツの首元に手を掛けた。  ゆっくりと胸元まで開けると、そこには貰った指輪と同じ形のものが、ボールチェーンに繋がれてぶら下がっていた。 「誠一さん!」  顔いっぱいに花を咲かせた幸輝が、誠一に思い切り飛びつく。 「ありがとうございます! これ、大切にします!」  誠一との切れることのない繋がりが出来て、嬉しかった。もう一人じゃない。そんな自信が幸輝の心を満たしていく。 「受け取って貰えてこっちも安心した。……ソレ、つけてやるから貸せよ」  言われて名残惜しくも身体を離した幸輝が、自分の指輪を誠一に渡す。誠一は男らしくも形の良い指でチェーンの繋ぎを外すと、幸輝の首に腕を回して再びチェーンを繋いだ。その一連の行動が、まるで花嫁のヴェールを上げて誓いのキスを交す時の光景に何となく似ていて、幸輝は思わず顔を上げる。  多分――――いや、絶対に誠一も同じことを考えていたのだろう。幸輝の白い胸元に指輪が飾られたと同時に両肩を抱かれ、唇が降りて来た。  それは、神の前で永久の愛を誓うようなキスだった。 「ねぇ、誠一さん。やっぱり僕、丸々と美味しそうに太らないと食べては貰えませんか?」 「何で、急にそんなこと聞くんだよ」 「だって抱き心地が悪いって、さっき……」 「いや、んなことねぇよ。食べさせて貰えるなら、今すぐにでも食べちまいたいぐらいだ」  頭の先から爪先まで丸ごとな、と誠一に耳元で甘く囁かれると、背筋にゾクリと震えが走った。  心臓が、熱い鼓動を刻み出す。 「じゃあ、食べて下さい。僕も早く誠一さんに食べられたい」  熱い眼差しで見上げると、見つめた先にあった誠一の双眸に男の色が宿った。 「全く……お前の体調のこと考えて、自重しようって思ってたのに」  困ったように笑った誠一に、肩を抱かれる。そしてそのままキスと共に、押し倒された。 ・ ・ ・  まるでプレゼントの紐を解くかのごとく丁重に、一枚一枚幸輝の服を脱がしていく。  まだ昼間ということで部屋の中は明るかったが、二人にそんなことを恥じらう余裕なんてなかった。  今すぐ、抱き合いたい。今の二人の気持ちを代弁するなら、その言葉しかないだろう。 「すっかり痕は消えちまったようだな」  寝室のベッドの上に、生まれたままの姿で寝かされた幸輝の肌を、誠一が爪先まで余すことなく見渡す。  幸輝とは対照的に誠一はまだ服を着ている為、二人の相違は大きくて、僅かだが頬に朱が走った。 「誠一さ……ん……も、脱いで下さい……」 「ああ、すぐ脱ぐ。だがその前に――――」  目と目が合う位置にいた誠一が、言いながら幸輝の足下に移動する。次に起こした行動は、幸輝の爪先を掬い上げ、足の甲に唇を落とすことだった。 「誠一さん?」 「お前、俺が嫉妬深いって知ってるだろ? 他の男にいっぱい痕を付けられたって言うのに、我慢出来るか」  行動の理由を説明しながら、誠一は唇を寄せた部分を強く吸い上げる。擽ったいような、痛いような、そんな感覚に囚われた後、誠一の唇が離れた場所には赤い花びらが散っていた。 「でも……、そんなところに付けられてはいませんよ?」  東岡のことを語るのは忍びなかったが、誠一の気分が軽くなるのなら、と幸輝は当時のことを口にする。が、しかし誠一が求めているのは、そんなことではなかった。 「だからだよ。そいつが付けなかった場所まで、全部付けてやる」  子供みたいな焼きもちを、本気で表に出す誠一が何だか可愛く見えてしまった。きっとこんなことを言ったら、誠一は膨れてしまうだろう。だから言わないでおこうと思っている内に唇の位置が少しずつ上がり、脛やふくらはぎ、膝に少しずつ花びらが増えていく。 当然、両足共に、だ。 「何だか、いい匂いがするな」  太腿の内側に花が咲いた時、不意に誠一が零した。 「ああ、朝に……んっ……シャワーを浴びたからじゃないですか?」  筋肉のついていない部分を吸われたことで微かに走った快楽に、身体を震わせながら幸輝が応える。  幸輝が入院していた病院の入浴は時間制で、朝から夜までの間に浴室を予約して使うものだった。退院日となった今日は昼で帰るということで、幸輝は朝一番に予約して浴室を使ったのだ。 「何で朝から風呂なんか入ってるんだよ」 「だって昨日、退院前日の最後の検査が立て続けにあって……気付いたら入浴時間終わってたから……」 「……あっ、検査で思い出した。なぁ、お前の主治医ってさ、何か必要以上にお前のことを触ってなかったか?」  太腿が終わり、唇が腰へと移る。次第に敏感な部分への接触が増えて来て、幸輝の体温は裸にも関わらず上昇した。 「たまに病棟回診とか言って主治医が回って来るだろ? 何度かそれに遭遇したけど、お前を触診する主治医の手付きが何だか怪しかった」 「怪しいって……」  主治医は、ただ職務を真っ当しているだけではないか。そう言おうと思った幸輝の頭の片隅に、ぼんやりと入院中の記憶が甦る。  幸輝の主治医は大学病院の准教授という、医師の中でもかなり熟練した経験を持つ医者だった。加えて柔らかな物腰の人柄だったこともあって、幸輝も安心して治療を任せていたのだが、たまに胸や首に触れる手の動きが怪しかった。  変な言い方かもしれないが、触診というよりも愛撫に似た動きだったのだ。それでも相手は医師だからと見て見ぬ振りをしていたが、誠一も同じように見えていたとなると、もしかしたらそうだったのかもしれない。 「そ……れは考えすぎだと思いますよ。向こうは立派なお医者さんですし……」  だがここで誠一に賛同すると、次からの通院も一緒に来ると言ってきかなくなるだろう。安易に予想出来た幸輝は、大丈夫だと言って誠一の疑いをかわした。  そうしている内、脇腹と二の腕に花が咲き終わる。 「お前はそう言うけど、結構、目ぇ付けてる奴多いから安心出来ねぇよ」  まだまだ強い疑いを残したまま、誠一の唇が首筋に落ちた。 「ん……っ……」  やはり他と違って首筋は、感じる加減が他と違う。それを知ってか、誠一はただ印を付けるだけではなく、何度もしなやかな舌で筋を舐めた。 「ほら、随分前にお前の太腿触った二課の近藤だって、いつお前が復帰するか毎日誰かしらに聞いてるしよ」  熱を纏い始めた意識の中で聞いた名前は一瞬、誰か分からなかったが、少し時間を置いてやっと思い出す。  触られた本人が忘れていたというのに、あの時まだ恋仲でなかった誠一が覚えているなんて。幸輝はどんな反応を返せばいいか、正直分からない。これは素直に喜ぶべきか、はたまた細かすぎると苦言を呈すれば良いのか。 「とにかく、誰かの前で不用意に脱いだり、無防備に笑ったりするなよ。あと、知らない奴はもとより知ってる奴にもついてくのは禁止」 「そんな……っ、ん……心配……しすぎです……」 「お前なぁ。自分の顔と身体よく見て言え。こんな綺麗な顔と身体が目の前にあったら、まともな男だって簡単に傾くぞ」  どこで弾き出したか分からない判断基準を口にしながら、四つ目の印を付けた誠一が更に首筋に噛みつく。 「あー、お前のこと浚って、監禁して、ずっと俺だけしか見られないように出来たらいいのによ」  さらりと恐ろしいことを言ってのける誠一だったが、対して幸輝は少しも嫌な気分にはならなかった。  束縛が強いのが、誠一の愛。つまり束縛が強ければ強い程、自分は愛されているのだと再確認することが出来るから。 「いいですよ。誠一さんが……っ……そうしたいのなら……ぁっ……」  鎖骨をなぞる舌の動きに翻弄されながらも、幸輝は監禁の承諾を渡す。しかい―――。 「……いや、やめとく」 「どう……して?」 「そんなことしたら、お前の色々な顔が見られなくなるだろ。必死に仕事と向き合ってる顔とか、俺が帰社した時に見せてくれる笑顔とか、飲み屋で楽しそうに飲む姿とか。そういった何気ない顔が、俺は好きなんだよ」 「せ、誠一さん……っ!」  当然のごとく紡がれた説明に、幸輝は思いきり胸を打ち抜かれる。 「ああ、勿論――――」  幸輝が顔を真っ赤にさせながら脱力しそうになっていると、突然、鎖骨を這っていた唇が胸元に落ちた。そして、既に隆起していた胸の飾りを甘噛みされる。 「ん……ぁっ!」  硬い歯で柔らかく噛まれると、甘酸っぱい痺れが瞬時に背筋から脳に伝わった。途端に腰が疼き、下腹部が熱くなる。  全身へのキスで敏感になっていたところに、突然強い刺激を与えられればこうなるもの仕方がない。幸輝も頭では納得していたが、せめて一言欲しかったと唇を尖らせた。 「その顔も、な」  恰も予測していたかのように言われたところでやっと、幸輝は自分が乗せられたことを悟る。 「誠一さん……ずるいです……」 「悪い悪い。……さて、前はあらかた終わったし、次は背中な」  最後に一つ、胸の中央に赤を落とされた後、幸輝は子供のように両脇を抱えられ、そのまま俯せに転がされる。 「背中って、まだ……続けるんですか?」 「当たり前だろ。何だよ、その不服そうな顔は」 「だって、もうそろそろ……」  早く誠一と繋がりたい。目だけで訴えると、甘い溜息を返された。 「分かったよ。そのままでちょっと待ってろ」  やっと一つになれる。待ちに待った瞬間の到来に、幸輝は胸を弾ませた。  幸輝の背後で、服の生地が擦れる音がする。多分、誠一が服を脱いでいるのだ。久しぶりの誠一の裸を見たい欲に駆られたが、そのままで待っていろと言われたのを思い出してじっと我慢する。 「幸輝、少し腰上げられるか?」 「はい……」  言われた通り、幸輝は両肘を支えに腰を上げる。するとすぐに誠一の手が、僅かに硬くなり始めた幸輝の性器をゆるゆると扱き始めた。 「んっ」  待ち侘びた快楽の始まりに、身体を震わせる。それから程なくして臀部に指の感触が触れた。暫くの間、しなやかな動きで臀部全体を撫で回していたが、充分に肌の質感を堪能すると、目的の場所である双丘の割れ目を指先でグッと開く。 「いい眺め。お前ってどこもかしこも綺麗だけど、まさかココまで綺麗だとは思わなかった」 「や……そんなとこ見ないで下さい……」  誠一が喋る度、有り得ない場所に息が吹き掛かる。恥ずかしさのあまり思わず逃げようとしたが、次の瞬間、幸輝の身にもっと有り得ないことが起こった。  誠一を受け入れる場所に、ぬるりと湿った感触が滑ったのだ。  生温かな『ソレ』の感触は、ついさっきまで幸輝の身体中を舐め回したものと同じ。  そう、つまり誠一の舌、だ。 「せ、誠一さんっ?」 「ん?」 「な、何してるんです、そ、そんなところ、な、舐め……」  頭が現実を認めたくないのか、事実を言葉にすら出来ない。 「風呂入ったんだろ? ならいいじゃねぇか」 「それとこれとは――っ……ゃ……あっ!」  反論しようとしたところで、入口を這っていた舌が僅かに奥へと潜る。たったそれだけで全身の力が抜け、身体を支えていた肘が崩れた。必然的に上半身はベッドに沈み、腰がより高く上がってしまう。その体勢が誠一にとって好都合だったのか、蕾を攻める舌の動きはより顕著になった。  固く閉じた蕾を舌先で押し開かれ、たっぷりの唾液で濡らされる。まるで子猫がミルクを飲む時みたいに、ピチャピチャと音を立てながら中も外もお構いなしに舐められると、逃げようという意思すら浮かばないほど頭が真っ白になった。 「やっ……ぁ、あっ……んぁっ……」  迫る快楽に抵抗出来ず指を握り締めると、シーツに荒い波が出来る。しかし誠一から与えられる快楽は、それだけでは終わらなかった。  怪しく濡れた蕾に、長い指が滑り込む。充分に濡らされた中は、誠一の長い指を待ち望んでいたかのように飲み込んだ。 「ふ……くっ、ん……ッ……あぁっ」 「お前の中、すげぇ熱い。この中に入ったら、気持ち良いだろうな」  巧みな指使いで前と後ろを嬲りながら、誠一が魅入られた声で呟く。以前、性感帯を見つけているからか、誠一の指先は的確に幸輝の欲が高ぶる場所を刺激した。 「いい、です……よ……っ……早く、中に……来て」  これ以上待つことなんて出来ないと懇願すると、背後で影が大きく動いた。直に指が抜かれ、代わりに硬いものが入口へと触れる。 「入れるぞ」  短く告げられた言葉の後、熱く高ぶった肉塊の先端が入口をグッと押し広げた。人間の防御本能なのか、普段他者の手によって開かれることがない場所は、反射的に入口を閉じようとする。けれど突き進む肉塊の力の方が、圧倒的に強かった。  一気に最奥まで貫かれ、強烈な快感が込み上げる。あまりの衝撃にじっとしていられなかった幸輝は、思いきり背中を弓なりに反らした。 「あぁっ!」  見開いた二つの瞳から、快楽から生まれた涙が零れる。  高く上げた声に、喉の奥がチリチリと焼けて痛んだ。 「幸輝……幸輝っ……」  緩い抽挿を繰り返していた誠一が、上半身を折り曲げる。すると自然に反らした幸輝の背中に口付ける形となって、誠一はそのまま白い背中に花を散らした。 「愛してる、幸輝……頼むから、もう絶対……どこにも行かないでくれよ」  誠一が幸輝の背中に唇を這わせながら、切ない言葉を吐き出す。  それは今まで聞いたことのない、誠一の弱音だった。  きっと快楽に囚われた本能が、言わせているのだろう。不意を打つ形で知った誠一の本心に、幸輝は心が満たされた。 「誠一さん、好き……すきっ……大好き……です」  もう貴方以外、誰もいらない。幸輝が思ったままを口にした時、秘奥を いた誠一の肉塊が大きく弾けた。 「くっ……っ……」 「ゃっ、あ、あっ、ん、ああぁぁっ!」  熱い白濁液が腹の中へ注ぎ込まれると同時に前部の刺激を執拗にされ、幸輝もほぼ同時に果てる。  中から全てを出し切る間、幸輝の全身は痙攣が止まらなかった。  両膝も勝手に震え出し、今にも崩れそうになる。今、誠一と繋がっていなかったら、幸輝の身体は呆気なくベッドに倒れ込んでしまっていただろう。 「幸輝……大丈夫か? 悪い、病み上がりなのに無理させちまって」  幸輝の身体に負担が掛からないよう、ゆっくりと誠一が中から出ていく。ズルリと艶めかしい音を立てて肉塊が抜けた後は、無意識の内に入口がひくついた。  身体中が誠一で満たされて、心は幸せでいっぱいだった。しかし、それ以上に身体にのしかかる疲労が激しくて、幸輝は気持ちと裏腹に何も言葉を返すことが出来なかった。  どうやら、まだ体力が戻りきっていなかったらしい。  衝動に任せて事を進めてしまったことを反省する。ただし、そこに後悔は欠片もない。 「辛かったら横になれ。水、持ってきてやろうか?」  退院初日に無理をさせすぎてしまったことを謝りながら、誠一が甲斐甲斐しく動き回る。  幸輝の身体を抱き上げて横に寝かし、身体中の汗をタオルで拭く。その都度心配そうに覗き込んで来る誠一に柔らかな視線を返しながら、幸輝は疲労が落ち着くのを待つ。  それから十分程経った頃だろうか、幸輝の隣に肘をついて横になった誠一が、静かに問い掛けて来た。 「なぁ、幸輝……休んだままで聞いてくれればいいだが……」 「はい……?」 「もし、お前が許せるなら、一度、母親に会ってみたらどうだ?」 「亜希……さんに?」  誠一の突然の提案に、幸輝は驚きを隠せなかった。 「ああ。今回の一件では八雲さん一家には、随分助けられただろ? その礼も兼ねて、会ってみないかと思ってな」  確かに今回の一件で、玲二は長年勤めた東岡の事務所を辞めた。その後、運良く玲二は他の政治家事務所から声を掛けられ、すぐに再就職先が決まったが、それでも議員となる将来が遠退いたのには変わりない。  そんな決断をさせた玲二の為にも、そして玲二の決断を快く受け入れた亜希の為にも、彼等が望んでいるであろう幸輝と亜希の対面を叶えてやる。それで恩返しをしたらどうかと、誠一は言った。 「亜希さんと……会う……」  考えもしなかったことを言われ、幸輝は強い困惑を表情に出した。 「お前が戸惑う気持ちは分かるよ。でも、俺は今回が良い機会だと思う。もしお前が一人で怖いっていうなら、俺が隣にいてやるから」  誠一の長い指で、髪の毛を梳かれる。その心地良さに瞳を閉じながら、幸輝は考えた。  亜希が今でも幸輝を想ってくれていることは、この前のことで十分理解した。きっと誠一の言う通り、亜希は幸輝と会えるとなったら喜んでくれるだろう。  あとは、幸輝の気持ち次第。 「誠一さん……」  静かに考えを巡らせていた幸輝が、そっと目を開けて誠一へと腕を伸ばす。 「ん?」  誠一は躊躇いなく、幸輝の手を取った。 「会って……みます。亜希さんと……」 「そうか」  幸輝の決断に、誠一は穏やかに微笑んだ。 「でも、きっと緊張すると思うので、一緒に行って貰ってもいいですか?」 「ああ、勿論だ。ずっと隣にいて、支えてやるから」 「はい、お願いします」  二人で額を合わせ、微笑み合う。  その後は示し合せることなく、お互いの唇を重ねた。 

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