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◇ 序幕 ◇
それは、峰岸諒一(みねぎしりょういち)にとって見慣れた光景だった。
多対一だというのに殴られるのをものともせず、諒一に絡んできた他校の生徒を次々と地面に這わせる男の名を、諒一はよく知っている。
松井一哉(まついかずや)。同じ高校の同級生だ。脱色して色素の抜けた髪と、片耳だけに幾つも光るピアス。男にしては可愛らしい顔付きながらも、学校創立以来の問題児と教師たちの間で噂されている、諒一の親友だった。
百七十六センチの諒一とさして変わらぬ躰付きながら、一哉の運動能力は諒一とは比べ物にならないほど高い。たいして時間もかからず、三人の他校生は地面に蹲って呻き声を上げていた。
諒一が三人の男たちに絡まれたのは、今から十分ほど前の事である。暴力で脅し金銭を要求する、所謂カツアゲというものだ。諒一が稀にこういった連中に絡まれるのは、中学の頃からだった。
身長はそこそこあるものの、細身なうえに黒髪に眼鏡という真面目そうな外見がどうやらターゲットにされやすいという事に諒一自身も気付いている。それに、家庭環境も。
確かに諒一の家は一般家庭と比べると裕福であったかもしれない。だが、この他校生たちが諒一の父親が警察官僚である事を知っているかどうかは疑問だった。そして、諒一が一哉の親友であるという事も彼らは知らなかっただろう。
ともあれ諒一が財布を出さずに済んだのは間違いのないところである。殴られて切れた口の端を制服の袖で拭う一哉に、諒一は素直に礼を述べた。
「ありがとう一哉。助かった」
「あぁん? 別にただの憂さ晴らしだし」
「相変わらず素直じゃないね。そういう時は普通、どういたしましてって言うんだよ?」
「アホくさ」
吐き捨てるように言って、一哉は他校生の手によって放り投げられていた諒一の鞄を投げて寄越した。
このところ、一哉の様子が微妙に変わった事に諒一は気付いている。なんというか、何をしていても上の空というか、張り合いがないのだ。
その原因は、やはり母親の再婚に起因しているのだろうかと諒一は思っている。
一哉の家は母子家庭だ。諒一と一哉の付き合いはかれこれ幼稚園の頃からだが、その頃にはもう、一哉に父親はいなかった。
さっさと歩きだしてしまう一哉の隣に並びながら、諒一は問いかける。
「顔合わせ、どうだった?」
「別にどうって事もねぇよ。兄貴が…二人出来るくらいか」
「お兄さん? 幾つの?」
三十九。と、そう言った一哉の言葉に諒一は驚きを隠せなかった。母親の年齢と同じだったからだ。諒一と一哉の母親も、年が同じである。
連れ子同士の再婚とはいえ、自分と同じ年齢の子供がいる相手と一哉の母親は再婚するというのだろうか。
「嘘だろう?」
「いやまあ、おふくろは喜んでるし別にいいんだけどな」
一哉は母親の再婚相手の事に関して、あまり諒一に話したがらなかった。それまで隠し事などされた事もない諒一にとってそれは、少しだけ寂しくもある。
諒一にとって一哉は、物心ついた頃からいつでも一緒にいる親友であると同時に、強くて頼りがいのある姿が憧れのヒーローのようなものだ。いつも一哉は、諒一を守ってくれた。
十七歳にもなって口に出す事はさすがになくなったが、諒一は昔よく一哉にそんな事を言っていた気がする。
不意に懐かしい事を思い出してしまって、諒一は思わず笑ってしまった。口に出さずとも、今でも一哉はこうして守ってくれるのだから、やはり諒一のヒーローなのだろう。
「何ひとりで笑ってんだよ気持ち悪ぃな」
「いや、昔の事を思い出してさ」
「あぁん? 何だよ昔って」
「一哉は俺のヒーローだって話。昔よくしてたなって思って」
こんな事を今更言ったなら馬鹿にされるだろうかと思いながらも諒一が口にすれば、一哉は一瞬にして無表情になった。そして唐突に冷たく告げたのである。
それは、諒一にとって信じられない…いや、信じたくない一言。
「悪ぃ。俺、もうお前とは関わりたくねぇわ。今後一切連絡してくんな」
一哉の言葉に、諒一は思わず立ち竦んでしまった。それほどまでに衝撃的だったのだ。
だが、一哉はそんな諒一を振り返る事もなく、あっさりと手を振って歩き去ってしまう。声をかける事さえ出来なかった。追いかけて腕を掴むことさえも、諒一は出来なかったのだ。
その後、一哉の名前が辰巳一哉(たつみかずや)という名に変わった事を諒一は知った。
そして辰巳というのが、この付近に縄張りを持つ極道の家の名だという事を、諒一は知っていたのである。
学校に行けば一哉の姿は変わらずそこにあった。それでも、諒一には一哉を問い詰める事が出来なかったのだ。だってそれは、一哉の優しさだったから。
警察官僚の息子である諒一と、再婚とはいえ極道の家の息子となった一哉が、一緒にいれば問題が起きかねないという事を、二人は理解していたのである。
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