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序章

「ね、百夜通ったら、オレのになってくれる?」  背後から聞こえた言葉を理解出来ず、僕は寄りかかっていたベッドから背を浮かせて振り返った。そこにはベッドにうつ伏せに寝そべって僕の本を読む友人がいる。  彼の長い前髪に隠れて表情までは窺えなかった。まっ黒で癖の強い僕の髪とは違い、彼のそれはまっすぐで明るい色をしている。  僕らの共通点はほぼなくて、「前髪が長い」ことくらいだ。僕は不精で伸ばしっぱなしだが、彼はきちんと手入れをしていてうなじの辺りはすっきりしている。  レポートを書くために分かりやすい資料をくれとせがまれて、大学の友人である小野を一人暮らしのアパートへ招いたのは一時間程前だ。  梅雨らしからぬ晴れ間が続いている、気の早い学生たちが期末レポートや試験の〆切、日程を確認したり、早くも追われたりし始める頃。静かな土曜日の昼下がり、部屋には扇風機の音と、時折本のページをめくる音が落ちていた。本を日焼けから守る為の遮光カーテンがふわりと揺れて、コップの中で小さくなった氷がカランと音をたてる。  目線は文字から離れないから独り言かと思ったが、不意にこちらを見た小野と目が合う。  切れ長だがいつも穏やかな印象を与える彼の目が、知らない色をしている。光の加減で色を変える少し薄い色の瞳を見慣れたと思っていたのに、こんな色もするのか。  言ってることもわからないが、その意図もまた理解しかねて問い返す。 「……なんだって?」 「コレ。百夜通い。小野小町のトコに百日通ったムネサダみたいに、草町のトコに百日通えたらオレの気持ちを受け入れてください」 「えーと……?」  読んでいたらしいページを開いて示される。何度読んだか知れない、百人一首に選ばれた歌人たちの、平安の世の恋を描いた物語。高校生の頃に見つけて、恋と、当時の人の生き様を描く内容に惹かれて、折りをみて読み返している一冊である。  もう少し本を読んだ方が良い語彙力であるとは思っていたが、小野と話していて日本語が通じないと思ったのは初めてだ。 「小野、ちゃんとそれ最後まで読んだか?レポート書くならもう少し難しいものも読まないといけないけど、興味を持つとっかかりになればとわかり易いものを選んで貸したつもりなんだが」 「あ、そうなの?だからかー、わかりやすかった。昔の人の恋ってむずかしいな」  感想が小学生みたいだ。彼はちゃんとレポートを仕上げられるんだろうか。 「うーん……日付が変わる前、だと厳しそうだから、夜が明ける前までには会いに来るよ、毎日。百日通うからオレのになって、草町」  体を起こしてベッドを下りた小野は僕の隣に胡座をかいて、まっすぐ僕の目を見て言った。柔らかく目を細めて笑っている顔が一番印象に残っているのに、今は若干かたい気がする。 「小野って、思ってたより重い男だったんだな」 「重くたってなんだって、草町がオレの事好きになってくれるなら百日だって千日だって通うよ」  冗談に冗談で返そうと思ったのに、核心部分の単語を口にされては流せない。  僕に、小野を好きになれって言ってるのか。 「ほ、本気……?」 「本気」  目が、そらせなかった。  小野はもとから人の目を見て話をする。語彙が足りない気はあるが、理解力がないわけじゃない。噛み砕いて説明すればちゃんと理解する。  目を見て、相手の話を理解しようと心を砕いて聞いているのがわかる。相手の目を見て話す様は、解ってもらおうと足りない言葉を補っているように見える。  だが、今の小野の目はいつもと少し違う。僕の言葉を理解しようとしているのではなく、僕の心の一番奥を見透かすような目だ。少し、怖い、と思った。  一番大事なところを聞けないまま、問答を続ける。 「百夜って……」 「えーと、三ヶ月ちょい?」 「……その間、僕に毎晩小野が来るの待てって?」 「うん。今は電車もバスもある。牛車で橋を渡って落ちるなんてことないよ」 「僕に三ヶ月半外泊するなと」 「遅くなるならスクーターで迎えに行くよ。ココまで送る」 「あと一ヶ月もしたら夏休みだぞ。……旅行とか」 「は、行かないでほしい。つか旅行行くの?草町、出不精なのに」  言われて、確かに旅行の可能性はとても低いな、と思い直す。夏休み中に出掛けるとしたら、図書館か行きつけの近所のカフェくらいだ。親が放任なので帰省しろとうるさく言われることもない。 「百夜通いの結末、知ってて言ってるのか。結ばれたわけじゃないんだぞ」 「うん。でも今は平成だよ。帝のお傍でなきゃ夢が叶えられないの!とかもないだろ?昔無理だったことでも、今ならできる」 「小野は僕を女官にしたいのか」 「違うよ、オレの恋人になってほしいの」  遠回りして、脱線して、話題をそらしたつもりなのにあっさりと核心に戻って来る。小野に会話で主導権を握られて取り返せない日が来るとは、正直思っていなかった。 「ね、それとも、オレをおいて親が連れて来た初対面のお見合い相手の女の子をお嫁にもらっちゃう?」  その方が現実味がある普通の話であるはずなのに、雨の日のダンボールに入った捨て犬みたいな目で見られたら謂れのない罪悪感に苛まれる。  僕の両親が見合い話なんて持って来るとは思えないし、僕だって見知らぬ相手と将来を誓う未来なんて想像できない。だからと言って小野の話を飲めるわけでもない。  だって、小野は僕にとって。 「オレたちは友達だよ」  そう、友達だ。 「百日通いきるまではね。でも、百日通えたら受け入れてほしい」  こんなに切なそうな人の表情を、僕はこれまでの二十年弱の人生で見た事がなかった。失うことへの恐怖と、手放したくないと縋る熱情で、凍えそうで、熱い。  僕も小野も男だろう、まだ初夏なのに頭が沸いたのか?今すぐ冷水浴びて冷やしてこい。そう言って切り捨ててもいいはずなのに、彼の恐怖が僕に伝播したのか、それを許さない。  拒絶したら、もう二度と小野が僕の隣で笑う事はないのではないかという危惧が僕の行動を制限する。  そう、恐らくこれは、友を失うかもしれない恐怖だ。 「……僕は、小野とはずっと友達でいるんだと思ってた」 「うん。オレもその方がいいと思ってた。でも、何にも言わないまま、しないまま終わりたくない」 「小、野……?」  伸ばされた手が、僕の少し伸びた前髪の先に触れる。恐る恐る、という言葉をこんなに身近に感じた事はなかった。 「草町が、好きだよ」 「、僕は」 「オレのになってって言ったけど、答えが『イエス』じゃなくてもいいよ。百日通ってもやっぱり友達だったらそれでいい。オレはずっと草町の友達でいる。ただ……オレの気持ちを知っててほしい。……ワガママで、ごめんな」  小野が笑う。口ではごめんと言っているのに、申し訳ないというよりは悲しそうに、泣くのを我慢しているように見えた。  受け入れなくてもいい、知ってくれるだけでいいと言うくせに、瞳からのぞく心が突き放さないでとぐずっている。泣きそうな顔で笑うなと怒鳴りつけたい。  友達でいると言ったけれど、彼は拒絶された相手に無邪気に近寄って行ける程に図太い人間だっただろうか。ぎこちなく笑って、少しずつ離れていく様が見えるようだ。ひどい脅迫があったものである。  友達に好きだと言われて、バッサリ切って捨てることもできなくて。 「本当に、わがまま……」  泣きたいのは、僕の方だ。

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