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一章 望降ち -壱夜 あきのたの-

 時は少々遡り、僕が大学へ進学して一月が経とうとしていた頃。  世の中はゴールデンウィークを間近に控えて浮き足立っていたが、僕は新しい環境、主に大学の大きな図書館の存在に浮き足立っていた。大学の講義はもちろん興味深かったが、身近に現れた新しい宝箱は僕の心をつかんで放さなかった。  何事もなければ四年は通えるのだから急ぐ必要もなかったのだが、その時の僕はやはり浮かれていて連日図書館に通い詰めていた。新しい出会いに浮かれた同級生と浮かれる対象が違っただけだ。  連休中は家庭教師のアルバイトも休み。狙っていたシリーズ物を読破しようと本棚を物色していた時である。  平均身長の僕でもギリギリ届くかどうかという、天井近くまである本棚の上から2段目を見上げ、僕は背伸びをする労力と踏み台を探して持って来る労力を天秤にかけていた。  ふと、ほとんど睨んでいた目当ての本が目の前で棚から引き抜かれる。  自分の思案と現状を整理していたら、かけられた声が自分に向けられたものだと理解するまでに少々時間がかかってしまい、相手に大変不安そうな顔をさせてしまった。 「えっと……コレで、よかった?」  身長や体格にこだわりも劣等感も抱いたことはないけれど、高い所に手が届くのはやはり便利だな。僕がそんな事を思いながら隣に立って本を差し出している男の顔を見上げると、やわらかい逆光の中で首を傾げる男の髪が揺れた。  たまに色とりどりの頭の集団がいるけれど、彼の髪は磨き上げた栗の皮のような色をしていた。金や茶に染めている学生は多いが、赤が混じったようなその色はすこし珍しかった。 「ああ、合っています。ついでに、その隣の三冊も取ってもらえると助かるんですが」 「あ、うん。わかった」  これ幸いと頼んだら、親切な彼は嫌な顔一つせずに一冊ずつ丁寧に本棚から下ろしてくれた。軽めの辞書並に厚さと重さがあるので、その判断は正しい。  自分の手の中の重みに早く読みたいという欲を刺激されながらも頭を下げる。 「ありがとう。助かりました」 「あ、の!これからっ、その、時間……あるかな」 「……はい?」  礼を言って立ち去ろうとしたら、腕を掴んで引き止められたので面食らった。慌てた様に非礼を詫びても、僕の腕を掴んだ手は力を抜いただけで放そうとはしない。  室内であるのに薄い色の入ったサングラスとしていて視線はうかがい難いが、緊張を表す様に唇は引き結ばれていた。 「近くに、静かでコーヒーがおいしくて、本読むのにピッタリな喫茶店があるんだ。ケーキとかお菓子も少しだけどあってさ、マスターがまた良い人でホント、おすすめ・・・な、ので、行って、みませんか」  早口にまくしたてたかと思うと、最後は尻窄みに提案された。  一刻も早く手の中の本を読みたかったが、今は講義を終えたおやつ時。読み始める前に何か食べておいた方が後々を考えるといいかもしれない。  読んでいる間は空腹も忘れるが、問題は読み終わった後だ。何度か動けなくなった苦い経験がある。  黙って考えていたら、掴まれていた腕が解放された。顔を上げてみると、わかり易く眉尻を下げて俯いているのが目に入った。折角親切にしてもらったのに悪いことをした。 「あの、そこは軽食も摂れますか」 「!うん!サンドイッチも美味しいよ!でも一番のオススメは裏メニューの焼きおにぎり!」  僕が問うと、勢い良く顔を上げて力説される。一応図書館内であるので声を落とすよう注意すると慌てて口を手で塞いだ。子どもみたいだ。 「じゃあこれ、借りて来ちゃおう。半分持つよ」  さっきまで耳を垂れて落ち込む子犬のようだったのに、僕から本を奪って(半分と言ったのに全部持って行かれた)カウンターを目指す後ろ姿には、ちぎれそうな程嬉々として揺れるしっぽが見えるようだった。  その後、アパートと大学の中間くらいという素晴らしい立地の、裏メニューの焼きおにぎりが絶品な喫茶店で共に食事を摂った。余りの美味しさにろくに会話もせず食べ終えると、読書の邪魔になると立ち去ろうとした恩人の名前も知らないことを思い出し、今更な自己紹介をしたあの日から、小野将宗と出会ったあの日から、一年と少しの時が経っていた。  そうか、小野と会ってから一年以上経っていたのか。  もう一年なのか、まだ一年なのか、判断しかねるなとあの日二人で来て以来常連となっている喫茶店で一人、コーヒーをすする。  一年も経てば、流石の僕にも数人の友人ができた。決して多くはない彼ら彼女らは、会えば挨拶を交わし話をするが、学外で会うことはそれほど多くない。  飲み会や学生らしい遊びに数えられる程度に誘ってはくれる。だが、僕が許容できる範囲を見極めてくれているようで不快な思いをした覚えはほとんどない。  本の虫だ変人だと揶揄されることもあるが、だからこそ議論が面白いと言ってくれる有難い存在だ。この距離感が、ちょうど良かった。  そんな、広くはないが充実した交友関係の中、小野は異彩を放つ存在だ。  学部は同じだが専攻の違う彼は何くれと僕を構う。食事や睡眠が疎かになっていると苦言を呈して世話を焼く。時には課題がわからない終わらないと泣きついて来ることもあった。かと思えば、何をするでもなく隣に来て時間を共有して去って行く。  会えば話す、という友人がほとんどの中、小野は僕を探して、見つけて、駆け寄って来る。言い方は悪いかもしれないが、犬に懐かれたような気分だった。懐かれているのだと、思っていた。  だが、実際は明確な好意を持っての行動だったらしい。  僕は日本文学を中心に様々な本を読む。文化としての男色の知識はあったし、偏見も嫌悪も抱いてはいないつもりだ。思想も恋愛も性癖も、内容は個人の自由である。  だが、知識はあってもまさか当事者になるとは思っていなかったので驚いた。自身がそういった目で見られることを想定して生きてこなかったので、どうしたらいいのかわからない。  性的マイノリティに偏見も嫌悪もなく、小野も無理に事を運ぼうとはしないから強く拒絶することも出来ずに、驚きと困惑が僕の中で渦巻いていた。  あの告白から一夜明けた今日、小野からの連絡はまだない。  すっかり冷めたコーヒーを胃に流し込んで席を立つ。すっかり顔なじみのマスターに声をかけ、会計を済ませると目の前に小さな紙袋を置かれた。  顔を上げてマスターをうかがう。 「持って行ってください。腹が空いている時にあれこれ考えても、ろくなことにはなりません」  紙袋の中を覗くと、アルミホイルに包まれたまるっこい三角が三つ。コーヒー一杯でいつもの読書もせず居座っていたから、気を遣ってくれたのかもしれない。 「ありがとうございます」  口数の少ないマスターのありがたい言葉と、冷めても美味しい好物の焼きおにぎりを抱えて僕は家路についた。  風呂上がり、就寝までにもう少しレポートを進めておくかと資料を物色していると、呼び鈴が鳴った。来客の心当たりはあったので、確かめることもせずに鍵とドアを開ける。 「コンバンワ」  案の定、そこには小野の姿があった。まだ熱の残る頬に夜風が気持ちいいけれど、薄手の七分丈からのぞく彼の手は少し肌寒そうに見える。 「……こんばんは」 「今、誰が来たか確認しないで開けなかった?チェーンもかけろって言ってるのにまたしてなかっただろ……不用心だなぁ」 「大きなお世話だ。普段は忘れなければ確認もチェーンもしてる。女子じゃあるまいし呆れられる謂れはない」 「呆れてるんじゃなくて心配してんの!それに、草町はそこらの女子よりかわい」 「帰れ」 「ごめんなさい冗談です!もう少しお話させてください!」  余りにも小野が必死なので、閉めようとしたドアをもう一度開く。閉め出されなかったことに安心したような小野と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。  若干慌てた様に、がさごそと肩に提げたショルダーバックの中を漁り始める。いくらもしないうちに目当てのものを見つけて、小野は僕の目の前にソレを掲げた。 「コレ。百人一首買って来た。百枚あるから、一枚ずつ持ってくれば何日通ったかわかる、よね……?あれ、絵が描いてあるのとないのが」  先ほど買ってきましたと言わんばかりの新品の包装を解きながら、彼は首を傾げた。自分で買ったものが何なのかわかっていないらしい。 「百人一首のカルタだろう?それ。読み札と取り札だよ。下の句の文字しか書かれてない方が取り札。四月にデモンストレーションやっただろう」 「え、そうなの?あの時はiPodだったから……あとで調べよう。ん?てことは二百枚あるのか。えーと……どっちがいい?」 「……僕は取り札の方でいい。小野は読み札の方で百人一首覚えたらどうだ?」 「……うん、わかった」  数秒僕の顔を見た小野は、取り札の一番上の一枚を取って僕に差し出した。僕が受け取るのを見届けて、ほぅと息をつく。 「……よかった、受け取ってくれるんだ」  安心したような、申し訳無さそうな呟きだった。  受け取った一枚目に視線を固定したまま、僕は今日一日、本も読まずに考えていたことを思い返す。顔を見て話せる程自信を持てはしなかったけれど、それでも僕の今の正直な気持ちを伝えておくべきだと思った。 「僕なりの、誠意のつもりだ。昨日、小野が言った事を冗談や気の迷いだとは思ってない。男同士だからとか、そういう常識のために捨てられる程度の気持ちじゃないから僕に話してくれて、こうして気持ちを証明しようとしてくれてるんだと、思う」  小野が、少し驚いているのが気配で伝わって来る。やっぱり、目を見て話すべきだろうか。彼がそうしてくれたように。 「正直、小野を友達以上には見られないと思う。でも、小野は宗貞みたいに百夜通うって言い切った。だったら、僕も吉子の様に待てるだけ待つべきだと思った。僕は小野と対等でいたい。僕の都合で小野の気持ちを蔑ろにするのは、違うと思う。……上手く伝えられなくてすまん」  自分の中で消化しきれていない気持ちをなんとか言葉にしようとしたけれど、伝わっただろうか。いつもの様に、いつも以上にまっすぐに僕の目を見て話を聞いてくれた小野は、笑って言った。 「ううん。充分だよ」  昨日から固い表情ばかり見ていたから、小野の笑顔をなんだか久しぶりに見た気がする。なんだか安心して、手の中の札を握りしめた。  僕の緊張が解けたのを察したのか、殊更冗談めかして顔を覗き込まれる。 「……捨てないでね?」 「それはフリか?」 「いえ!断じて!ほんとマジで捨てないでくださいレジ袋につっこんどくんでも何でもいいんで!」 「……ふ、わかったよ」  冗談に冗談で返したのに、本気で焦って懇願する様がおかしくて、小さく笑いが漏れる。くすくす笑っていると、真剣な声音で名前を呼ばれた。 「……草町」 「ん?あ、悪かったな、こんなところで。上がってくか?お茶でも……」 「好きだよ」  思わず息を呑んで小野の顔を凝視した。  穏やかに、優しげに、色素の薄い目を細めて笑っている小野と視線が絡む。一瞬「愛おしそうに」という形容が脳を霞めて、言葉が出て来ない。 「今日はもう遅いから帰る。ちゃんと髪乾かして、風邪ひくなよ。おやすみ」 「あ、うん……おやすみ」  彼はすぐにニコっと笑って、僕が首にかけていたタオルで僕の頭をわしわしと拭いた。またね、と手を振って去って行く小野を呆然と見送る。  小野の微笑みが、網膜に焼き付いたみたいに消えない。彼は感情がすぐに顔に出るから色んな表情をたくさん見て来たと思っていたのに、昨日から知らない顔ばかりされる。戸惑ってばかりで調子が狂う。 「……もう、今日は寝よう」  ひとりごちてドアを閉め、施錠してチェーンをかける。レポートに集中できる気がしない。  それどころか、寝られるかどうかも少し不安になる程度には脳内がパニックだった。

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