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一章 望降ち -拾夜 これやこの-
翌日の講義を終えて、クラブ棟の奥へ向かう。「あきづき」の部室は辺鄙という形容が似合う程奥にある。移動が面倒な時もあるが、静かでいい所だ。
有川先輩が創設し、長を務める文芸同好会「あきづき」は、基本的にはいたって緩いサークルである。火・木・土曜日が基本的な活動日とされているが、活動内容も厳密には定められていない。日本文学のあれこれについていつまでも終わらない議論が始まったり、創作活動に励んだり、ただのお茶会になったりする日もある。
如何せん有川先輩が目をつけたメンバーによる有川先輩が絶対ルールなサークルである。会長の強制招集・号令がない限りは参加も活動内容も自由だ。
メンバーは両手の指で数えられる程度の人数で、毎回顔を出すのは有川先輩と文月君くらいである。僕はだいたい週に一度行くかどうかの参加頻度だが、何くれと顔を出す人も多いらしく、割り当てられた部屋へ行けば半数前後に出迎えられる。
「う?草町先パイ!おつかれーっす!今日は早いっすね」
……のだが、珍しくも部室のドアを開けて出迎えてくれたのは文月君ただ一人だった。
「文月君だけか。珍しいな」
「そすか?有川の旦那もさっきまでいたんすけどね。なんか呼び出しくらってどっか行っちゃいました」
文月君は持ち込んだらしいチョコ菓子をパクつきながら分厚い本をめくっていた。荷物を置いて、部屋の隅に数枚重ねてある座布団の一枚を掴んで彼の斜め向かいに落ち着く。
「あきづき」の部室は有川先輩の趣味で畳にちゃぶ台である。長方形の大きめなちゃぶ台が真ん中に鎮座していて、部屋の隅には予備の丸いちゃぶ台が立てかけてある。クッションや座椅子など、それぞれに座りやすいものを持ち込んでいる人もいる。
文月君は入部早々に持ち込んだ、ゲームセンターで獲ったらしい茶色い大きな楕円形の動物(名前は忘れた)の人形の上であぐらをかいている。たまにメモを取りながらめくっている本は和歌の本だった。恐らく、先週有川先輩から出された宿題のための勉強だろう。真面目な子である。
「あーもーわっかんねー!」
自分の鞄から読みかけの本を出して読んでいると、眉間に皺を寄せて資料を睨んでいた文月君が叫んでちゃぶ台に突っ伏した。バンダナで覆われた額を何度か机にぐりぐり押し付けたかと思うと、ガバッと顔を上げて僕に問う。
「コーヒー飲みますか?」
「ああ、もらう」
「はいっす!」
文月君はいそいそと立ち上がり、慣れた手つきでお湯を沸かし始めた。電気ケトル、茶葉と急須、インスタントコーヒー、紅茶のティーバック、部員それぞれが持ち込んだマグカップや湯のみ等々、簡易ではあるが、部室はいつでもお茶会ができるような状態だ。
いくらもしないうちに、僕のシンプルなマグカップと、文月君の取っ手がパンダになっているカップにコーヒーがなみなみと注がれてやってくる。
「はい、どうぞ。草町先パイ、なんか悩み事でもあるんすか?」
「ありがと、う……?」
「どういたしまして。で?」
唐突な問いの意図を掴みかねて、文字を追っていた目線を文月君へ移す。彼はちゃぶ台に頬杖をついて僕を見ている。勉強はひとまず諦めたらしい。
「何の話だ?」
「あれ、ちがいました?なーんかいつもと違う気ぃしたんすけど?」
「別に何も……」
そういえば、少し前に崇子さんにも指摘されたことを思い出した。
「ホントーに、なーんもない、ですか?」
「……疲れては、いる、かもしれない。けど、有川先輩の宿題とか試験とか、色んな要因が重なってるだけだと」
「そんなん気にして顔色変わる程草町先パイのひょーじょーきんは柔くないと思うっす」
「……」
あんまりな言い様に流石に言葉が出ない。適当な判断とも言えるが、会ってから二ヶ月半の後輩にそこまで言い切られるとは思わなかった。
「そんなに、顔に出てるだろうか」
「なんだ、自覚あんじゃないすか」
「自覚というか、先日指摘された」
「オレのカン、ビンゴっすね!で、何があったんすか?話くらい聞きますよ!」
好奇心半分、心配半分の顔で文月君が問う。
コーヒーをすすってどう回避しようか考えたが、文月君の視線が話してくれないなら有川先輩を巻き込むぞと言っている気がする。恐らく気のせいだろう。しかし、このままでは先輩にまで事情を話せと言われる日も遠くないのかもしれない。遊ばれる可能性のある先輩に話すくらいなら、素直な意見が聞けそうな文月君に相談する方がずっといい。
ずっといいが、なんと話したものだろう。
「あー……、友達だと思ってた人に、言いよられてる?何か違うな。告白された、だけじゃないし……説明が難しい」
「草町先パイとコイバナする日が来るとは思わなかったです。なんかカンドー」
真剣に考えて話そうと思ったのに、文月君が真面目な顔のままそんなことを言うから帰ろうかと思った。すません!続けてください!とすぐさま謝られた。
「……人の感情は、理解がむずかしいと最近よく思う」
「何をそんな当たり前のことを」
「普通なら当たり前のことでも、僕は対人関係において経験が浅いからどうしたらいいかわからない」
「それ友達少ないって聞こえます」
「実際少ない。不便もしてない」
「ぼっち予備軍がいる!」
「むしろ一人の方が楽だ」
文月君がむっとした。でも仕方が無い。僕はそういう人間だ。
彼が黙ってしまったので、僕も視線を外してコーヒーをすすった。自分の鞄が目に留まる。中には、昨日までに受け取った九枚の札。
小野は今までと変わらない友達の日常を繰り返しながら、夜になると僕のところにやってきて百人一首の取り札を一枚渡し、好きだよと一言告げて帰っていく。
毎日、毎日。
好きと言う以外には今までと何も変わらない日々である。
慣れてきた気もするが、やっぱり小野の真意は理解できない。わかり易いと思っていた小野が、存外感情を隠すのが上手いと思い知ったのはつい昨日のことである。あんな激情に、僕は全く気付かなかった。
手は一向に出してこない。友達としてのスキンシップはしても、あまり大げさなものはなくなった。彼の中でスキンシップの度合いのどこに境界線があるのかを計りかねている。僕から触れる事なんて今までだってそうあることでは無かったけれど、どこまで踏み込んだら傷つけるのかわからない。
昨日のような顔は、あまり見たくないと思った。
「友達って、なんだろうな……」
文月君へ向けて言ったというより、独り言がこぼれた。こぼれた言葉を、文月君が拾う。
「それ、友達だと思ってるから困ってんのとはなんか違くないすか」
「違う?」
「『友達』に付きまとわれて困ってんのかと思ったんすけど、ケッコーまんざらでもない感じ
っすか?」
「相手の行動の理由と、僕がどこまで踏み込んでいいのかを考えているだけだ。気持ちは目に見えないから、目に見える所から想像するしかない」
「まーそりゃそうっすけど。ん?その言い方だと、目に見える行動が不満なんすか?」
「不満?」
「さっきの、『友達じゃヤだ』って聞こえました。もっと近くまで行きたいのにー来ていいのにーみたいな?」
「……は?」
自分でもわかるくらい眉間に皺が寄った。
文月君に話した情報が少な過ぎるからか、話がかみ合っていない気がする。
行きたいとか来ていいとかってなんだ。遠いのを不満に思ってると言いたいのか。来てほしいみたいな、なんだか何かを期待しているような物言いになっているのが解せない。僕が何を期待してるって言うんだ。
「んな恐い顔しないでくださいよ。人の感情はムツカシーとか言ってないで自分の感情がどーなってんのか考える方が先っぽいすね」
文月君がやれやれと肩をすくめた。自分の感情を把握しきれていない自覚はあったので反論できない。
これ以上話すと墓穴を掘りそうだ。コーヒーをすすって少しずつ日が傾き始めた空を窓越しに睨む様に眺める。
「ま、いーじゃないすか!命短し恋せよ乙女!」
「……僕は乙女じゃない」
自分の感情にもちゃんと向き合うつもりだ。けれど、小野に時々熱いくらいに見つめられているのに気付いてしまった。視線が気になって、思考がまとまらない。
小野はいつから、あんな目で僕を見ていたのだろうか。
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