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一章 望降ち -玖夜 はなのいろは-

 午前四時になるかどうか、空がほんの少し白み始めた頃に「ぎ、ギリギリセーフ……?」と駆け込んで来た小野を、読書しながら待っていた僕は十分程気付かないまま放置した。  呼び鈴とメールに気付かず、焦れた小野が電話をかけたために「失敗」は免れたが、理由を聞いた彼は「本に夢中でシカトされたなんて」としばらく拗ねていた。  そんな週末が明けて七月に入り、一層暑くて眩しい日差しの中を歩く。  暑いのも嫌だが、僕はクーラーの冷気の方が苦手なので夏の講義は本当に苦行だ。なぜそんな殺人的な設定温度にするのか理解できない。おかげで夏でも薄手の上着を持ち歩くハメになる。女子じゃないんだからと友人に呆れられたこともあるが知るか。寒いものは寒い。 「くっさまーち君っ」 「げ」 「げって!ひっどいなぁ。そのカワイーお顔に『嫌なヤツに遭った』って書いてあんだから、せめて口には出さないでよ」  名前を呼ばれたからと顔を上げるんじゃなかったと思ってしまった。失礼なことを言っているのはわかっているが、苦手なものは苦手だから仕方ない。 「……おはようございます。有川先輩」  月曜の一限という、人気はないが面白い講義を終えて移動のために学内を歩いていたら面倒な人に捕まった。師事している教授のゼミ生である有川先輩の趣味は、僕をからかって遊ぶことである。大変不本意だが。 「ね、ね、今日の昼ヒマ?一緒にどーお?」 「……嫌なヤツだと思われてるのわかってるのに、先輩もよく誘いますね」 「てへ!」 「キモチワルイです」 「きゃー!辛辣!」  先輩はけらけらと笑いながらついて来る。来るなと言おうが嫌だと言おうが、僕の言う事を聞かないのはわかっているので、無理に反論しないで好きにさせるのが一番被害が少なくて済む。ここ一年程の付き合いで得た経験からくる対応であるが、半分無視しているようなものなのに何が面白いのかこの人は僕に構う。 「教授が面白い論文貸してくれたんだ。定家についてなんだけど、なかなか面白い視点で書かれていてね。これは是非とも草町君にも読んでもらって議論しなければと思ったわけだよ」 「うぐ」 「ね、興味あるだろう?面白いよー?教授と俺のオススメだよー?」  件の論文と思しき紙の束を僕の目の前でバタつかせながら、有川先輩はニヤニヤと楽しそうだ。不本意ながらとても気になる。そしてそれを見透かして、確実に食いつくと確信している顔が悔しい。正直に言おう、読みたい。普段どれだけ表情筋をまともに動かしていなかろうと、今の欲求が表情に出ているのは自覚できた。 「俺と一緒に昼食を摂ってくれるなら、貸してあげる。読み終わって食べ終わったら、休み時間いっぱい議論しようじゃないか」  こんなんでも一応僕の耳にも入るくらいにモテるらしいし、実際交友関係は広いのだからわざわざ僕なんかを誘わなくても良いものを。この、「お前は俺の手の平の上で踊るしかないのさ」と言わんばかりの、僕で遊んで楽しんでますと書いてある顔が気に食わない。でも。 「ねぇ、草町真君。俺は知っているよ?キミは俺が人間としては苦手だろうけど、俺との議論、結構気に入っているだろう」  そう、有川先輩がどんなに人間的にいけ好かなくても、賢い人であることは確かなのだ。からかわれさえしなければ、彼との会話や議論は大変に勉強になる。  簡単に言ってしまえば尊敬しているのだ。認めたくはない程度にやっぱり人として苦手だし、僕の感情をわかった上で構って来るから始末に負えないけれど。  認めてしまうのはとんでもなく癪で、見透かされているのもその行動が先輩の言葉を肯定することもわかっているが、それでも僕は彼の手から夢の詰まった紙の束をひったくった。 「素直でよろしい。いやー夕方の教授との議論が面白くなりそうだ。あの人を言い負かせられるとはまだ思ってないけど、手札は多いに越したことないしね。草町君は俺にはない感性の持ち主だから、話していてとても得した気分になるよ」 「はい?」  後半、なんだかサラッと珍しく褒められた気がするが、問題は前半だ。 「教授と、話すんですか」 「ん?そうだよ?これ、週明けに感想と考察を聞かせてねって先週末借りたんだもん」 「……」 「んー?なーに?草町君も来る?教授は構わないと思うよ」  ニヤニヤニコニコと、心底楽しそうな顔と声が癇に障る。暗にむしろ来いと言っているのがわかる。僕だって行きたい。 「……すみません。今日は、アルバイトがあるので」 「あ、そうなの?ざーんねん」  有川先輩は声だけは軽く、それでも少し残念そうな顔をした。しかし、すぐに笑って僕の髪をかき混ぜる。 「ま、また時間のある時にね。教授だってキミの意見聞きたいだろうし。今日の成果についてはまた話してあげるよ。実りある報告のためにも、今日のお昼に学食、忘れないでね」 「……はい」  頭の上を行ったり来たりする腕を払いのけたら、二限の始まりを告げる鐘が鳴った。一瞬固まって、先輩に挨拶もせずに踵を返して走り出す。 「転ぶなよー!」  二限は空きなのか休講なのかは知らないが、背中にかけられた余裕綽々な声にいつか絶対言い負かしてやると心に決めた。  二限の講義を終えて、論文に目を通しながら学食へ向かう。どうせ読み終わってからでないと話せないのだからと、足取りはゆっくり、人にぶつからない様に。  教授と有川先輩の推薦なのでアタリであろうとは思っていたが、これは期待以上に面白い。 「い!?」  ページをめくろうと薄いコピー用紙に指をかけた時、どん!と腰に衝撃が走った。何事かと振り向くと、そこにはまぶしく白い歯を覗かせた笑顔。  まぶし過ぎて、顔をそらしてそのまま歩き去ってしまいたかった。 「草町先パイこんちは!読みながら歩くの危ないっすよ?これから飯っすよね!一緒に学食行きましょー!」  嗚呼、まぶしい。今日も晴れているけれど、まだ梅雨明けはしてなかったはずだ。なのになんだ、この真夏の太陽は。笑顔もまぶしいけれど、一緒に食事をすると言うまで放さないと言わんばかりに腰に抱きつかれているので暑苦しい。 「……文月君、放してくれ。暑い。それから、悪いが先約がある。昼食は他を当たってくれ」 「えー!草町先パイに昼メシの約束取り付けるとかドコのツワモノっすか!小野サンっすか?」  素直に拘束を解いて、まぶしい後輩、文月君は不思議そうに首を傾げた。  僕に対する評価にいささか不本意なものが含まれている気がするが、それにしても最初に出て来る名前がなぜ専攻の違う小野であるのか。 「なんでそこで小野が出てくるんだ。有川先輩だ」 「あー有川の旦那っすか。後ろ姿がふわふわしてたから小野サンと会うのかと思いました」 「ふ、ふわふわ?」 「つーか!旦那とメシならオレも混ぜてほしいっす!」  文月君は右手をビシっと上げて挙手し、同席を求める。  有川先輩は否とは言わないだろう。この文学部学生らしからぬ、底抜けに明るい後輩は先輩のお気に入りの一人だ。  ちなみに、僕と文月君は有川先輩が長を務める文学同好会「あきづき」の会員である。  どちらも有川先輩が引きずり込んだようなものだが、文月君に関してはつい二ヶ月程前に入らないかと声をかけられ「喜んで!」と即答していたので、僕と同列に扱うのは間違っているかもしれない。僕は去年、二週間渋って結局根負けした。  優秀で有能で、人気もあるが一癖も二癖もあるあの有川業史という人物を、怖がる事も僕の様に苦手に思うこともなく単にスゲー人と懐いているのが文月秀という後輩だ。そこを有川先輩も気に入ったのだろうし、僕も器の大きさであると思っている。  さしあたって、一部で悪魔と呼ばれることもあるらしい有川先輩を旦那などとあだ名で呼ぶのはこの小柄で元気な後輩くらいだ。  混ぜてまぜてと喚く文月君の頭を鷲掴んでぐるぐると軽く回しながら論文に目を戻して読んでいたら、背後から声をかけられた。 「なーに二人で楽しそうなことしてんの?昼休み終わっちゃうだろが」 「あ!有川の旦那!オレも昼メシ一緒さしてください!」 「おーいいぞー。でも急がないと食う時間がないぞー」 「やった!オレ席とってきます!」  了承を得るや、文月君は学食へ駆けていく。いやはや、元気な後輩である。 「ぶっ……子どもの成長を見守る親戚のおじさんみたいな顔になってるよ、草町君」  吹き出しながら有川先輩に指摘され、努めて無表情を取り繕って文面へと三度視線を落とす。 「真面目に講義を受ける草町君のことだから読み終わってないだろうとは思ってたけど、話す時間ある?」 「昼休みが終わる頃には読み終わります。でも僕は三限入れてないので一コマ分語り合えますよ」  視線は論文に固定したまま、僕も学食へ足を向ける。僕の半歩後ろを歩きながら、先輩が苦笑しているのが気配で伝わって来る。 「草町君と語り合えるのは嬉しいけど、俺の都合は?」 「僕は有川先輩と話していて二限に遅刻しました。僕の意見が聞きたいとおっしゃってくれたのは有川先輩ですので、一コマくらい自主休講しても大丈夫だと思います」 「珍しい屁理屈だね……そんな怒ってる?遅刻させちゃったの」 「いえ、全く」 「ま、次は休講らしいからいいんだけどね」 「ちっ」 「ぶっ……くくく……ごめんて、食後のコーヒー奢るから機嫌直してよ」  意趣返しが不発に終わり、僕は返事もせずに歩きながら論文を読み続ける。間もなく学食が近付き、文月君がぶんぶんと手を振っているのが視界の隅に入った。  三限に抜けられない必修が入っていたらしい文月君に文句を言われながらも、昼休みは平和に過ぎていく。僕が論文片手に冷や奴をつつき、有川先輩がパスタを器用にフォークにまきつけ、文月君がカツ丼をかき込むテラスは、真夏の炎天下ではないから快適である。 ふと、口一杯に頬張っていた文月君が何かを見つけた。 「ぶぁ!ぼおばーん!」 「つっきー、つっきー、出てる出てる。色んなモノ出てるから!汚い!」 「……」  言いたい事は有川先輩が言ってくれたので、僕は自分の残り少ない食事と論文を守る事に専念する。有川先輩に口の中のものを飲込むまで口を開くなと厳命された文月君は、立ち上がってもぐもぐと咀嚼しながら手を振る。  視線の先を追うと、帽子を目深に被って薄く色の入ったサングラスをかけた長身の男が大量の本を抱えて歩いていた。男はこちらに気付いたようで近付いて来る。 「あれ、小野クン?つっきーよくわかったね」 「……ん、っはーうまかった!ごちそうさまでした!小野サンは外ではだいたいあんな感じに不審者っすよ?大勢に囲まれて埋もれてる旦那より見つけやすいっす」 「だいたい不審者ってひどくない!?」 「俺は埋もれているのか……」  先輩二人をほぼ同時に落ち込ませた文月君は、やはり大物かもしれない。 「あ。やっべ、三限!次の教室遠いンすよねー。んじゃ、先パイ方、また明日!」  文句を言いつつも大物・文月君は快活に笑い、荷物と食器を持って去って行った。その背中に向かって、賞讃と別れの意味を込めて手を振る。  つん、と服の裾を引かれて振り返ると、テーブルに抱えていた本を置いた小野が隣に座って僕の服を摘んでいる。 「オレ、そんなに不審者かなぁ」 「……まぁな」 「うぅ……マジか」 「なんというか……子どもを近づけたくない感じだな」 「そんなに!?」  小野はごつくはないがそこそこ身長が高い。ついでに前髪も長い。表情が見えない大男に見下ろされて威圧感を感じる人は少なくないだろう。  素直な感想と一般論のつもりだったが、思いの外衝撃が大きかったらしい。小野はしおしおと頭を垂れた。 「そんな気にしてるんなら帽子とグラサン外せばいいじゃん。タッパあるし、髪も目も綺麗なんだから隠さない方がモテるんじゃない?タッパあるし。それともモテ過ぎて困るの?」  文月君に「埋もれてる」と言われたのを引きずっているらしい先輩は、身長について二度言及した。有川先輩だって小さいわけじゃない。僕と小野の間に立ったら綺麗な階段になる。つまりは平均以上だ。 「いや、オレだって好きでこんなカッコしてるわけじゃないんすよ」 「じゃあ何?やっぱモテ過ぎ防止?」 「そんなんじゃないっすよ!つかオレそんな言われる程モテませんし!」 「えー?そうかなぁ」 「そうです!そもそもアンタ言う程身長変わんないでしょーが!」  先輩の小野いじりは興味がなかったので、僕は食事と論文に集中することにした。  昼食の最後の一口を食べ終え、論文の最後の一行に目を通して、お茶を飲んで一息つくと、小野が抱えて来てテーブルに置いた本の山が目に入った。有川先輩との話の途中だろうが、小野をからかって遊んでいるだけなので遠慮なく話しかける。 「小野、この本の山どうしたんだ?……日仏辞書?」 「へ?あぁ、二限の先生に資料室まで運んでって頼まれちゃって」 「頼まれごとの途中にこんなところで油売っていていいのか」 「や、まぁ、急ぎでは、ないし……」  小野は何故か有川先輩の様子をうかがう。先輩と言えばくすくすと楽しそうに笑っている。 「いいよいいよ、先に用事を済ませておいで。俺は草町君にコーヒー奢る約束してるし、論文談義は小野クンが戻って来てからにしてあげる」 「?何故小野を待つんです?」  僕が食事と論文を片付けている間に話がよくわからない方へ行ったらしい。小野が週末の話を持ち出す。 「こないだ話したろ?オレのレポートのテーマ百人一首なんだよ。定家の話だったらなんか参考になるかと思って。オレも次は講義ないし」  そういえば、そんな話をしたからあれを貸したんだったか。 「半端な知識しかない人の疑問質問に答えながら話すのも、新しい発見があるかもしれないだろ?」 「まぁ、それには同意しますが」 「ハンパって……」  好奇心をにじませた目をしながら、実に楽しそうに有川先輩が小野をダシにしようと持ちかけて来た。乗ってみせると、小野が肩を落とす。 「専門に学んでる者と比べちゃいけないよー?俺らの話聞くのはいいけど、知らない単語いっぱい飛び交うだろうから覚悟してね。そういえば、小野クンて専攻どこだっけ?日仏辞書ってことはフランス?」 「あ、はい。オレ、じーさんがフランス人なんで。日常会話は聞けるし話せるんですけど、読み書きとか難しい単語はまだまだで」 「え、そーだったの?そのわりに日本人!って名前じゃなかったっけ?」 「はい、そーだったんです。名前はそのフランス人のじーさんの趣味です」 「へー。じゃあ、その髪と目って自前?目はともかく、髪は綺麗に染めてるのかと思ってた」 「よく言われます。まぁ、見た目はキレーなんでしょうけど、色薄いから太陽に弱くて大変すよ。夏とか晴れた日は昼間外に出る時にグラサンないとまぶし過ぎてキツいし、帽子被ってなくて倒れたことあるし」 「あ、それで不審者なんだ」 「だから不審者言わんでください!……草町?どした?」  名前を呼ばれて、ハッと意識を現実に戻す。知らない事を短時間にたくさん目の前に列挙されて放心してしまった。 「いや……おじいさんがフランス人とか、知らなかったから。驚いた」 「え、話してなかったっけ?」 「あれー?二人は大の仲良しなのかと思ってたけど、そうでもないのかな?」  有川先輩がくすくす笑いながらからかってくる。 「バカ言わないでください。オレたちは仲良しです!クォーターとか見た目とか関係なく一緒にいる仲なんです!」  小野は、先輩の言葉にむっとしたかと思うと僕の肩を抱いて高らかに宣言してみせた。有川先輩は爆笑しているが、僕は小野の行動にも言葉の内容にも呆気にとられてぽかんと口を開けていることしかできない。 「コレ、置いてきます!先に始めないでくださいよ!」  小野は嘘も冗談も言ってないとばかりに憤慨しながら辞書を抱えて小走りに去って行った。有川先輩はふるふる震えながら笑っている。  この人はどうも笑いの沸点が低い気がする。それも僕や小野をからかっている時が顕著だ。見知らぬ誰かに囲まれている時はデキル先輩然としているのに。  先輩は笑い過ぎて涙をにじませた目で僕を見ながらのたもうた。 「ふっくく……あ、愛されてる、ねぇ?」 「……なんですか、それ」  有川先輩の物言いに呆れながら、当たらずしも遠からずなのかと頭の隅で此処にはいない小野に問う。  またしても小野の知らない一面を知ることができたことを喜べばいいのか、知らない事がまだまだある事実を悲しめばいいのか。そもそも何故そんなことを考えなければいけないのだろう。  これから試験やレポートに追われるというのに、脳内を勝手に小野が占領していく。感情に振り回されて成績の心配をする日が来ようとは思わなかった。  ニヤニヤとこちらをうかがう有川先輩に、約束のコーヒーを奢ってもらうために立ち上がりながら僕はため息を吐いた。  三限の時間丸々有川先輩と小野と話し込み、四限の講義を受けてから図書館に寄って試験勉強をしていたらメールが届いた。マナーモードにしていた携帯のランプがチカチカと明滅する。 from:藤崎崇子 件名:今日の授業時間について 本文:こんにちは。今日は部活が早上がりなので早めに帰ります。    母が夕飯を一緒にと言っています。六時半頃来て頂けますか?  崇子さんからのこうしたメールは珍しくはない。食費は浮くし、普段の不摂生を心配されているのも知っているので、ほとんど断らずに受け入れている。 to:藤崎崇子 件名:Re:今日の授業時間について 本文:こんにちは。    わかりました。六時半頃うかがいます。    夕飯もありがたく御馳走になります。お母さんにもよろしくお伝えください。    日は長くなってきましたが、気を付けて帰ってください。    では、また後ほど。  メールの返信をして荷物をまとめていると、メールの着信があった。さっきの返信だろうかと携帯を開く。 from:小野将宗 件名:無題 本文:おつかれ!今日は有川サンとの話に混ぜてくれてありがとう。    とっても勉強になりました!レポート頑張ります(>o<)    草町は、もう講義終わって図書館?    今日ってバイトだったよね。がんばって!(・v・´)bb    帰り、何時頃になるかわかる?    だいたいでいいので、教えてください(・w・)  小野のメールは、所々顔文字が使われていて賑やかだ。  女子高生とのメールで句読点しか飛び交わないことの方が珍しいのかもしれないが、崇子さんに関しては目上への、一応とはいえ「先生」への礼儀からくる事務的なやりとりだからだろう。あまり想像できないが、友達とのメールはもっと可愛らしいのかもしれない。本人に聞かれたら怒られそうな認識である。  崇子さんの、きっちりと結い上げられた髪とまっすぐに伸びた姿勢を思い出す。僕の教え子は「イマドキの女子高生」らしからぬ、芯を持った女の子だ。周りに流される事なく、自分の意志で生きているように見える。  僕より若いのにずっとしっかり者だ。少し、背伸びをしている様にも思うけれど。以前、たまたま小野と崇子さんと駅で出くわしたことがあった。小野も「ずいぶんしっかりした子だね」と感心していた。  そういえば、あの時も小野はサングラスをかけていて、彼女に草町君にこんな不審者みたいな知り合いがいるのは意外でした、なんて言われて落ち込んでいた。容姿を気に病んではいないのだろうけれど、いちいち説明するのは大変そうだなと想像する。 to:小野将宗 件名:Re: 本文:お疲れ。僕も楽しかった。ありがとう。    今日は崇子さんが早めに帰宅するそうなので、早めに行って夕飯を御馳走になる。    帰宅は十時半頃だと思う。  返信したことを確認して席を立つ。  歩きながら、握った携帯を眺めてみる。今夜も、来るのだろう。昨日までの小野の顔を思い出したら、眉間に皺が寄った。  小野の声も、表情も、知らない色がたくさんあった。家族や体質のことだって、今日初めて知った。きっと僕が知らない彼の情報はまだまだたくさんある。  僕は小野のことをほとんど知らないのに、彼は僕のことをどれだけ知っていて「好き」だなんて言うんだろう。  いつか何かで読んだ、一目惚れについての考察を思い出す。  ――顔しか知らないのに好きになれたのだから、それは運命なのだ――  きちんとは覚えていないけれど、確かそんな感じの話だった。そんなものだろうか。  知らないのに好きになれるものなのか。それとも、知りたいと思うことが特別であるということなのか。  今まで、色んな本を読んだ。恋の話もたくさん。それでも、それは本の中の話であって実感を伴うことはない。恋も愛も、自分以外の誰かの話だ。  小野に聞いたら、なんと答えるのだろう。聞いてみたい気もするけれど、僕が聞くのは酷なような気もする。知りたいような、知らなくても良いような。知識欲は強い方だと思っていたけれど、コレばかりは勝手が違った。自分一人で完結できない。 「……難しい」  僕の独り言が、暮れ始めた街の片隅に落ちていった。 「で、それを何故わたしに聞くんです?」 「いくら崇子さんがキャピキャピの女子高生じゃなくても、年頃の女の子なんだから色恋のこと聞くなら最適かと思って」 「……言いたい事は色々ありますけど、とりあえずキャピキャピは死語だと思います」 「死語もそろそろ死語だな。変わっていくことが悪い事だとは言わないけど、綺麗な日本語が消えていく様は切ないものがある」  おばさんが出してくれたお茶をすする。普段ブラックコーヒーで痛めつけられている胃に、ロイヤルミルクティーの優しさが染みた。  僕の斜向いにあるベットに座って同じく紅茶をすする崇子さんはジト目で僕を睨んでいる。歳下の、しかも教え子に呆れを含んだ目で見られるのは少々いたたまれない。何故こんな話の流れになってしまったのか。  藤崎家で少し早めの夕飯を御馳走になった。今日はサバの味噌煮、わかめと油揚げのみそ汁、キュウリの浅漬けと揚げ出し豆腐。  食事を終えて崇子さんの質問に答えたり合間合間に持参した本を読み進めたりして一時間程経った頃、ドアがノックされておばさんがクッキーと紅茶を持ってきてくれた。家庭教師を始めて一年と少しの間に恒例となった、紅茶一杯分の休憩時間である。  一度伸びをしてからベットに腰掛けカップに手を伸ばす崇子さんを眺めながら、彼女のメールの文面を思い出した。 「つかぬことを聞いてもいいだろうか」 「?珍しいですね、草町君がわたしに聞きたい事があるなんて。どうぞ?」 「崇子さんは、好きな人にメールを送る時には絵文字や顔文字を使うのか?」 「ぶっ……っごほっけほっ……、は、はい?」 「むせ返る程おかしな質問だったかな。大丈夫?」 「どうも……どうしたんですか?もしかして夕飯に何か盛られてたんですか?」  僕が差し出したボックスティッシュから二枚程ティッシュを引き抜いて口元を拭いながら、崇子さんが不審そうな顔を隠しもせずに問うた。母親をまず疑うとは、この娘も動揺しているのだろうか。 「違うよ。おばさんの料理は今日も美味しかった。そうじゃなくて、僕と崇子さんとのメールのやりとりには句読点しか行き来がないだろう?それは一応目上の者に対する礼儀を重んじてくれているんだと思ってるよ。でも崇子さんも女子高生なわけだし、友達や好きな人へメールを送る時はもう少し違った文面になるのかと、ふと疑問に思った」 「……草町君も、友達には顔文字使ったりするんですか?」 「いいや?僕は誰に対しても句読点しか使わない。顔文字の入ったメールをもらうこともあるけど、自分では使いこなせる気がしないし。メールの文化としては興味深いんだけれど」  うっすら眉間に皺を寄せながら、崇子さんは椅子に座る僕を見上げてしばらく考えているようだったが、やがて僕の質問に答えてくれた。 「友達には、顔文字くらいは使います。たまにですけど。絵文字はあまり好きじゃないです」 「そうなんだ。ごめん、あんまり崇子さんが顔文字使ったりするの想像できなかった」 「なんですかそれ。失礼ですね」 「すみません」  やっぱり怒られてしまった。素直に謝ると、崇子さんに伏し目がちに質問される。 「好きな人、にも?」 「うん?」 「草町君は、好きな人に送るメールも他の人に送る時となんにも変わりませんか?」  意外な質問に、すぐに答えられなかった。一年以上の付き合いだけれど、話すのは勉強のことか、本の事か、まれに互いの学校についてがほとんどだったので彼女は僕個人には然程興味がないのだと思っていた。  沈黙が降りる。聡明でまっすぐな教え子に中途半端な答えを返すことはしたくなかったけれど、僕自身の中に答えのないことなので仕様がない。 「申し訳ないけれど、好きな人というのがいたことがないから、その質問には答えかねる」 「そう、なんですか……」  俯きがちに紅茶を飲む崇子さんを見ていたら、答えをもらえる気がして問いが口をついて出た。 「崇子さん。好きって、どんな気持ちなんだ?恋とか愛って、どんなもの?」  聞いてから、しくじったと思った。崇子さんは黙ってしまったが、言いたい事は顔に書いてある。お前は小学生か、と。  先ほどよりも少し長い沈黙の後、先ほどの問答を経て話題をわかり易く逸らしてしまったが故に、崇子さんに余計に呆れられる運びとなったわけである。 「……そろそろ勉強に戻りましょうか、先生」 「ああ、そうだな」  すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干して、崇子さんが立ち上がる。  崇子さんは、勉強を教わる時は僕を先生と呼ぶ。公私をきちんと分けられるし、切り替えも早い。僕は彼女のそういうところを尊敬しているし、今回は助けられた。さっきの質問といい、情けない限りである。 「……草町君」 「崇子さん?」  彼女は勉強机の椅子の横に立って伏し目がちに、それでも声だけははっきりと、まっすぐに言葉を紡ぐ。 「好きとか、恋とか愛とか、どんなものかなんて、きっと答えなんかないですよ。人それぞれ違うと思います。いろんな好きがあっていいと、思います」  こちらを見ようとしないのは、気恥ずかしいからだろうか。わたしは何も言ってない、とばかりに席に着いてテキストに向かう彼女には悪いけれど、一言だけは言わせてもらわなければ。 「うん、そうだね。……ありがとう」  崇子さんの眉間にうっすら皺が寄ったような気がしたが、恐らく羞恥と戦っているだろう表情は殊更俯いてテキストに向かう彼女の、珍しく降ろしてある長い髪に隠れてしまった。勉学に励む教え子に倣って、僕も会話を切り上げて文庫本をめくる。  決めつける必要はない。僕は僕の気持ちと、小野の気持ちとに向き合って、僕なりの答えを出せば良い。そう思ったら大分楽になった。  午後十時、アルバイトを終えて帰路についた僕はアパートの最寄り駅に降り立つ。  ひゅうと夜風に吹かれて腕をさすった。昼間は夏の陽気とはいえ、七月頭の夜は日によってはまだ冷える。薄手の上着を着て来てよかった。  駅から家への帰り道の途中にあるコンビニが、夜中の街中に一際明るく存在を主張している。何か買っておかないと困るものはあっただろうかと家に残っている食材やら消耗品を思い出していると、ふと見慣れたスクーターが目に留まった。見間違いかと思って近寄って見ると、やはり友人の愛車である。 「え?」 「ん?」  案の定、聞き慣れた声が聞こえて顔を上げると、自動ドアの前で見知った顔の男が立ちつくしていた。 「やっぱり小野のスクーターだったか」 「へ?あれ……えっと、早かったね?」  頭の上に疑問符をいくつも飛ばしている小野は、昼間と違って帽子もサングラスもしておらず、ただの若者だった。  全く意識していなかったが、確かに今までも帽子やサングラスをしているのは昼間の明るい時間だったような気がする。身体的な問題だったとは思いもしなかった。 「崇子さんの宿題も自習も早めに済んだからな。小野の方こそ、うちに来るならもう少し遅くてもよかったんじゃないか?」 「え!?えーと、うん、まぁ……そうなんだけど」  小野は随分と歯切れが悪い。ごにょごにょと気まずそうに言い訳を探しているようだったが、やがて開き直ったのか、へらと笑った。 「へへ。なんでもない。でも早く来てよかった。いっしょ帰ろ」  彼は機嫌良くハンドルにコンビニの袋を提げてスクーターのロックを外した。エンジンをかけずに歩き出す。その隣を歩きながら、僕は気になったことをいくつか聞いてみることにした。 「小野、昼間の太陽光は駄目なのに、コンビニは平気なのか?」 「うん?あーコンビニねーあっかるいよねー。特に夜。ホントなんでそんなにってくらい電気使ってるよね」 「でも、さっきサングラスしてなかっただろう」 「うん、まぁね。コンビニで買物する数分くらいなら我慢出来ない程じゃないし、グラサンで夜のコンビニ入って無駄に店員さんに警戒されるのもさせるのもアレだし。鞄から出すの面倒だったのもあるけど」  言いながら、小野が僕の顔を覗き込む。二、三度瞬きをしたかと思うと、けらけらと笑い出した。 「そんなに気にしなくていーよ。草町が気付かないくらい大したもんじゃないんだから。グラサンも帽子も、夏の昼間とかじゃないならなくても平気っちゃあ平気なんだよ。あった方が楽な時が多いから普段からしてるだけ。……変かな」 「変ではないし、楽ならしてればいいだろ。他人の目を気にして無理する事はない」 「……うん」  光の加減で色を変える小野の目はとても綺麗だと思う。サングラスで隠れてしまうのは少しもったいない気もするが、僕が口を挟める事でもない。 「それに悪い事ばっかじゃないよ。草町と違って夜目利くし」 「僕だって見えないわけじゃない」 「でもはっきり見えないとこの方が多いだろ?暗いとこで迷子になったら呼んでね、絶対見つけるから」  僕の目は真っ黒だ。俗にいう鳥目の気もある。だが、都会は夜でも街灯やコンビニが其処かしこにあって明るいし、問題はない。問題はないが、夜目が利く人が近くにいるというのは少し安心するかもしれない。  街灯や民家の灯り、もしかしたら僕を気遣って付けられたスクーターのヘッドライトに淡く照らされて、カサカサとかすかに音をたてながら揺れるコンビニ袋に目をやる。 「何買ったんだ?」 「これ?夜食。朝早いのは慣れたけど、腹減るのはどうしようもなくてさ」  明日、というか、明朝仕事なのか。 「こんな時間に出歩いていていいのか?早朝っていうか夜中からだろ、仕事」 「へーきへーき。草町送ったら帰って寝直すし。さっきまで寝てたし。明日は二限からだし」  小野がへらへら笑う。睡眠時間を削って僕に会いに来て、仕事に行って、事故にでも遭ったらどうするんだろう。考えてしまったら夢見が悪くて仕方ない。  そうこうしているうちに家に着く。小野が駐輪場にスクーターを停めている間に階段を上ろうと足をかけたが、自分の荷物が目に留まって立ち止まった。そのまま小野に声をかける。 「小野、サバの味噌煮は好きか」 「え、なに?好きだけど、どうしたの?」 「揚げ出し豆腐は」 「あー学食にもあるけど、アレ、あっためて出してくれればいいのにね。オレ、冷たくていつもがっかりする」 「キュウリの浅漬けは」 「うん……なんなの?さっきから」  スクーターに鍵をかけた小野が近寄って来る。ガサ、と小野の目の前に先ほど貰い受けたありがたい袋を掲げる。 「藤崎のおばさんが作ってくれた今日の夕飯はサバの味噌煮と揚げ出し豆腐とキュウリの浅漬けと、あとみそ汁だった。そしてここに、作り過ぎちゃったから持って行ってとご厚意でいただいたみそ汁以外のそれらがある。ついでとばかりにスイカも入れてくださった」  実際は、おそらく最初から僕に持たせるつもりで作ったと思しき量だった。まぁいつものことであるが大変ありがたく、気を遣わせてしまって申し訳ない限りである。  小野はぱちくりと長い前髪の奥で瞬きした。 「今日はうちに泊まって、仕事の前に食べて行け。半分やる」 「は」 「これから帰ったら寝るのが遅くなるだろう」 「え、や、はい!?」 「今日はベッドも使って良い。さっき買ったのは朝食にしろ」 「クサマチサン!?」  つい先日の肉じゃがのように、今までにもこうして頂いたものを分けた事がある。図書館へ行くのにスクーターに乗せてもらっている礼の代わりでもあるし、おばさんが感想を聞かせてほしいと小野の分を持たせてくれることだってあった。泊まるのだって初めてではない。 「何が不満だ。ちゃんと揚げ出し豆腐もあたため直してやる」 「えっ、あ、ありがと……って、そうじゃなくって!」  小野の睡眠時間を少しでも長く、と気を遣ったつもりが、思わぬ反論を受けた。反論とも言えない疑問や否定の単語ばかりだったけれど。 「だから、今日はうちに」 「それ!それですよ、なんでそうなんの!?」  もう一度説明しようとしたら遮られた。夜中なのを考慮して小声になる程度には落ち着いているようだが、眉間に皺を寄せてワケがわからないと訴えてくる。 「何か問題があるのか?ここから小野の家までの移動時間が勿体ないだろう。職場だってここからそう遠くない」 「問題大有りだよ!?草町、オレが一週間も言ってること忘れた!?」  百夜通いのことだろうか。怪訝に思って片眉を上げた僕を見て、小野はもう!全然わかってない!と頭を抱えた。なんだか困っているというより呆れているようにも見える。失礼な男だなと思っていると、小野が鞄を漁り始めた。目当てのものを見つけると、ビシ!と効果音が付きそうな勢いで僕の目前へ差出す。 「好きだよ」  顔をくしゃくしゃにして、差出される今日の分の告白。なんで伝わらないんだと、苦しげな視線に責められているようだ。  何も言えないまま九枚目の札を受け取とろうと手を伸ばすと、僕の右手に小野の左手が置かれた。握る事もなく、ただ触れているその手が、かすかに震えている。 「オレ、好きな人と同じ部屋でぐっすり眠って休めるほど子どもじゃないよ」  彼の震えが移ったのか、僕も動揺してはっきりものが言えない。 「い、今までだって、何度か泊まった事、あるだろ」 「今までだって、平気じゃなかったよ。ドキドキして、嬉しくて、苦しくて……でも、友達だから平気なフリして。寝たふりして全然寝れなかったことだってある」  彼の言葉に僕は目を見開く事しか出来ない。そんなことを、させていたのか。 「今は、まだ、友達だけど。オレ、草町に自分の気持ち言ったよ?知っててそんなこと言うのは、ひどいよ」  痛切な小野の声に、泣くのかと左手を伸ばしかける。頬に触れる直前これもひどいことなのかと思ってしまったらもう動けなかった。何も言えず、何もできずに、ただ突っ立っている事しかできない。  しばらくすると、俯いていた小野が僕の手をぎゅ、と握ってから放し、顔を上げた。眉尻を下げた、困ったような笑顔。その表情の裏に、たった今垣間見せた感情を全部隠してしまう。 「ごめん。オレの方がひどいこと言ってる。忘れて?今日は帰るよ。ありがとう」  小野がきびすを返し、さっき停めたばかりのスクーターのエンジンをかける。 「お、の……」 「また明日ね、草町。おやすみ」  なんとか声を絞り出して名前を呼んだが、彼は笑って別れを告げるとヘルメットを被ってスクーターに跨がる。少しだけでも料理を持って行けとか、引き止める事もできたはずなのに、何も言えずに固まっている間に小野は行ってしまった。  鳥目の僕はテールランプの小さな点を追っていても、暗さに負けてすぐに小野を見失う。  家の前にいるのに迷子になった気分だ。 「……呼んだら、見つけてくれるのか」  呟いて、何を馬鹿なと頭を振る。階段を上り、自室の鍵を開けて中に入る。冷蔵庫にもらった料理を入れ、本のせいで重量のある鞄を降ろす。電気も付けずにベッドに身を沈めた。 「……つかれた」  小野の悲痛な顔が頭を過る。忘れろなんて、よくも簡単に言ってくれたものだ。  寝返りを打ってロフトのある高い天井を見上げ、崇子さんに言われたことを思い出す。  自分と小野の気持ちに向き合って答えを探そうと思った矢先であるのに、彼の気持ちが思っていた以上に大きくて僕の中でどう処理して良いのかわからない。  人の気持ちに向き合うことはこんなに大変だったのか。いかに自分が今まで人と深く関わってこなかったのかを思い知らされる。 「こいは、ひとりではできない」  いつ読んだか知れない、ありふれた言葉がこぼれる。  自分の気持ちは見えなくて、見えてきた小野の気持ちは大きくて手に余る。僕が感情に疎いばかりに、これからも彼を傷つけることがあるのだろうなと思ったら気が塞いだ。僕が気付かなかっただけで、今までだってたくさん傷つけていたのだと思うと余計だ。  知らず、ため息が落ちる。 「はぁ……むつかしい」  静かな街の灯りが、遮光カーテンに遮られて柔く部屋に降り注いでいた。

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