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一章 望降ち -廿漆夜 みかのはら-

 崇子さんの期末試験とその後の復習を終えた、自分の試験期間直前の金曜日。試験前ということでアルバイトの休みをもらった僕は、自室でレポートを仕上げていた。  僕の試験期間と崇子さんの部活の合宿の日取りが被ったので、丁度いいからとアルバイトはこれから二週間程休みだ。  夏休みに入って部活動の時間が朝からだったり昼からだったりになるらしく、休みの間に夏休み中のスケジュールを組んでもらうことになっている。お盆は家族で田舎へも行くので、後半に比重がかかった短期集中で組む事になりそうだと言っていた。 「……んぅ」  普段の読み書きがアナログ派なせいで、いつまでも慣れないタイピング作業を終えて伸びをした。あとは学校で出力して提出すればレポート関係は終了だ。肩が凝った。目が疲れた。 「弾丸温泉旅行……」  ノートパソコンの終了処理をしながら呟く。魅力的な響きだが移動が面倒だから絶対にしないな、と独り言はため息に変わる。  せめて今日は湯船にちゃんと湯をはって肩まで浸かろうと決意する。水道代を考えてなかなか湯をはることはしないけれど、やはりシャワーでは疲れがとれない。  ぴんぽーん。と、呼び鈴が鳴った。 「……客?」  まだ夕方だが、試験勉強にシフトチェンジする前に風呂に入ろうと立ち上がった所で呼び鈴が鳴った。二、三回腕を回して肩をほぐしながら玄関へ向かって、覗き穴へ顔を近づける。 「いーれーてー!」 「小野?」  覗いた先で、小野が両手に荷物を提げて笑っていた。上機嫌だ。昨日会った時はテスト前で大分グロッキーな顔をしていたのに、同じ人間とは思えない。追い込まれて壊れたのだろうか。少々不安になりながらドアを開けた。 「どうした。頭でも沸いたのか。それとも試験前に留年でも決まったのか」 「何その物騒な発想!?」 「昨日とあんまり顔が違うから、とうとう壊れたのかと」 「えぇ~……ちょっと嬉しいことがあっただけだよ。ね、夕飯食べた?」  開口一番の物言いに面食らった様だが、すぐに嬉しそうな声音に戻った。そういえば学食で昼食を摂ってから麦茶しか口にしていない。試験勉強を始める前に何か食べた方がいいか。 「まだだ。確か、送ってもらった素麺がまだたくさん……」 「これ、一緒に食べよ」 「……は?」  小野が左手で持っていた包みを掲げる。風呂敷に包まれた平べったいそれを目の前に差出されて、つい勢いで受け取ってしまった。状況を把握しようとしているうちにおじゃまします、と断りをいれた小野が隣をすり抜ける様に部屋へ上がり込む。片手でドアを閉めて振り返ると、「ちょっと冷蔵庫借りるね」と右手に持っていた箱を詰めていた。 「おい、これは」 「寿司」 「すし?」 「寿司。伯父さんが奢ってくれたんだ。外暑かったけど、できたて包んでもらったし、保冷剤もたくさん入れてもらったから。早く食べよ」  風呂敷の中身を問うと、簡潔な答えが返って来る。鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌な小野は勝手知ったる他人の家、と小皿やら箸やらコップに麦茶やらを手早く準備している。 「穴子多めに入れてもらったからたくさん食えよ。あ、あとワサビ少なめにしてもらったから安心して!」 「あ、あぁ……ありがとう?」  状況はよくわからないが、奢ってもらったお裾分け、といったところだろうか。寿司なら店で食べてくればいいものを、わざわざ僕の部屋まで持って来るに至った経緯を聞きたい。のだが、あまりにも喜色満面なものだから水をさせないまま定位置に着く。  僕の手から包みを受け取った小野は風呂敷から丸い盆を取り出す。蓋を開けると様々なにぎり寿司が所狭しと、しかし少しだけ片側に寄って並んでいた。  スクーターでよくぞここまで崩さずに運んだものである。 「いただきます!」 「……いただきます」  小野がペチンと両手を合わせた音で、食べきれるのかという思案から思考を現実に戻して僕も挨拶をする。目の前のパクパクと美味そうにマグロを頬張る、細身だが背の高い大男を眺め、まぁなんとかなるだろうと僕も箸に手を伸ばした。  他愛のない会話を交わしながら少しずつ盆の底を開拓していく。会話と言っても、機嫌のいい小野がほぼ一方的に楽しそうにあれこれ話しているから僕はたまに相槌を打つ程度だ。  配達中に見かけた猫の親子がカラスと喧嘩していたとか、最近ようやく配達の途中で会う犬と仲良くなったとか、土砂降りの中満身創痍の濡れ鼠で事務所に戻ったら大笑いされたとか、講義中の教室に蜂が入って来て騒ぎになったとか、日常のあれこれを聞きながら小野の上機嫌の理由を探していたのだが、なかなかそれらしい話にはならない。  単純に寿司を奢ってもらえて嬉しかったのだろうかと思い始める頃には、盆の上は8割方片付いていた。もっと食べられなくはないが、これ以上食べて満腹になって眠くなっても困る。 「腹いっぱい?」  小野に顔を覗き込まれて驚く。口に出してはいなかったと思うのだが、よく気のつく男だ。 「……あぁ。ごちそうさまでした。おじさんにもよろしく伝えてくれ」 「うん。あ、残ったの、夜食にしていいからね」 「は?小野が奢ってもらったんだろう。僕はもう充分いただいた」 「まーまー、そういわず食べてよ。草町に食べてほしーってオレのワガママだから気にしないでさ」  ニコニコと楽しそうに笑いながら、立ち上がってキッチンに向かうと皿を手に戻って来た。残った寿司を皿に並べ始めたので、本当に置いて行く気らしい。相手が親戚だからと言っても、奢ってもらったものを嬉々として他人に寄越すのは小野らしくない気がする。  考えても考えても理由に行き着かないので、降参して直接聞いてみることにした。 「何がそんなに嬉しいんだ?」  僕の問いにパチクリと瞬きをした目元は「なに?」と言っているが、口はだらしなく緩んでいる。ハッキリ言おう。間抜け面だ。 「来週から試験なの、わかってるか?顔緩みきってるけど、大丈夫なんだろうな」 「え、そんな緩んでる?」  自覚もなかったのか。 「試験勉強は一応やってるし、レポートも土日で仕上げられるトコまできたし、大丈夫だよ。ちょっと食休みの間勉強するけど、今日は草町とゆっくりするって決めてたからいーの」  試験前最後の息抜きと言った所だろうか、と思っていたら先ほど冷蔵庫に納められた箱の正体が明かされる。 「ケーキもあるんだ。も少ししたら食べよ」 「ケーキ?」 「マスター自家製チーズケーキだよ。草町好きでしょ?」  確かに、マスターのチーズケーキは好きだ。甘さがくどくないから食べられる。  そんな話を小野としたのはいつだったのかもう覚えていないけれど、聞いたらいつ頃だよとさらっと答えそうな顔で言われて、何故だかわからないが苛立ちを覚えた。  少し前に抱いた疑問が、少しだけ違う感情を伴って甦る。  小野はどこまで僕のことを知っているんだろう。  マスターのチーズケーキが好きだ。寿司だったら穴子が。ワサビは少なめで、出来るならワサビ醤油で食べたい。こんな細々した事を、いちいち覚えているんだろうか。表情で空腹が満たされたかどうかがわかるくらい、僕を理解していると?  僕は小野が嬉しい理由ひとつ満足に推量れはしないのに。 「なんか、怒ってる……?」 「っ、……その、僕の事ならなんでも知ってるみたいな顔、やめてくれ」  見抜かれたことに苛立ちがいや増して吐き捨てた。これではただの八つ当たりだ。驚いた様に見開かれた目を見ていられなくて、俯いて視線を逸らす。  情けなさに歯噛みしていると、頭の上に重みを感じて思考が一時停止した。何が、と思う間もなくわしゃわしゃと髪をかき混ぜられる。 「お、の……なに、を」 「なんでもは、知らないよ」  優しい声音にハッとして固まる。髪をかき混ぜていた大きな手が、今度はぽん、ぽん、と赤子をあやす様に頭を撫でる。 「なんでもは知らない。でも、知りたいと思うよ。草町が好きなものも嫌いなものも、知りたいし覚えてたい。そんで、草町の世界を少しでも好きなものでいっぱいにしたい」  ベタかな、と照れくさそうに笑うのを視界の端で見つけた。八つ当たりしたのに、優しい声で宥められて毒気が抜かれてしまった。 「知りたいから、よく見てるのか」 「うーん、まぁ、そうと言えばそうだけど……勝手に目が追ってるからなー。あんまり意識したことないや」  僕が落ち着いたのがわかったのか、小野の手が離れていく。小さく謝ったけれど、小野は笑みを深くするだけで何も言わなかった。 「それで、何がそんなに嬉しかったんだ」 「ん?ソコに戻んの?」 「なんだか不公平だ。小野は僕のことを知り過ぎてる。僕だけ小野を知らなさ過ぎるのは、なんだか癪だ」 「シャクって」 「いいから答えろ」 「うぇー……?」  悔しいのと興味とで食い下がってみる。同じだけとは言わない。けれど、友達を大事に思う分くらいは、僕も小野のことが知りたい。  言わないつもりだったんだけどなー、などと逃げようとするのをジト目で睨んだ。言えない様な理由で喜ぶってどういう状況だと訝しんでいると、しぶしぶといった体で、バツが悪そうに明後日の方を見ながら白状した。 「誕生日、だから」  一瞬理解できずに「は?」と口に出してしまった。誕生日?  耐えきれないと言う風に小野がごろんと寝転がって頭を抱える。 「……誰の?」 「……オレの」 「……今日?」 「うん、今日」  しばし、沈黙が流れる。  誕生日だから、おじさんが寿司を奢ってくれて、ケーキを自分で買ってきたのか。自分用のバースデーケーキなら、自分の好きなケーキにすればよかったのに。小野はそんなにマスターのチーズケーキが好きだったろうか。 「浮かれる程嬉しかったのに、寿司、僕がもらってよかったのか?」 「うん、なんか、その反応は予想してた……」 「あ、もしかして、ケーキはマスターから……?」 「イヤ、おまけでクッキー付けてくれたりはしたけどね?そうじゃなくてね?」  わかる様な、わからないような。嬉しいのはわかるけれど、寿司やクッキーであんなに幸せそうな顔になるだろうか。 「あぁ、もう。わかってなさそうだから恥ずかしいの我慢して言うけど!誕生日に、草町とご飯食べて、ケーキ食べられるのが嬉しかったんだよ。そっちが誕生日って知らなくても、特別な日に好きな人といられるだけで舞い上がっちゃう悲しいイキモノになっちゃうんだよ、恋してると」  恋、という単語に少しばかり怯んだ。未知の感情が絡んでくるなら、僕に推量れなかったのも頷ける。こういう納得の仕方はいけないのかもしれないけれど。 「そういう、ものか」 「そういうもんです」  僕が望んだから、顔を赤くしてまで答えてくれたのだ。もう少し言い様はないかと言葉を探すが、こういう話題になると僕の脳はとたんに仕事をサボリ始める。下手なことを言って怒らせることもしばしばで、今日くらいは穏便に、と思ったら何も言えなくなってしまった。 「なんか、言うことあるんじゃないですか」 「え」  ごろごろと羞恥に耐えていた小野が起き上がり、恨みがましくこちらを睨めつける。自ら沈黙を選んだ矢先に言葉を求められて動揺しながら言葉を探す。 「え、と……」 「うん、わかんないのね。そこまでイジワルは言わない。つか言えない。言ってほしーのオレだし」  顔ごと視線を外して呆れ半分、哀愁半分のため息を吐かれる。吐いて、顔を上げた小野は人差し指をピンと立てて顔の横まで持って来て、大真面目な顔で言った。 「ヒント。オレ、今日たんじょーび」  喜んでいた理由だけ聞いて、祝っていなかったことを思い出す。 「あ、そうだ。誕生日、おめでとう」 「……うん、ありがと」  答えは正しかったようで、小野が今日一番嬉しそうに笑った。こんな一言でそんな顔するなんて、寿司を奢ってもらった時どんな顔をしたんだろう。呆気にとられて二の句が告げない僕をおいて、彼はどこまでも楽しそうだ。 「へへ、サイコーの誕生日だ」  幸せなんてものは、もっと別のところにたくさんある、気は確かかと問いつめそうになるのを必死で耐える。  僕の誕生日ではないのに寿司もケーキもごちそうになって、僕は「おめでとう」の一言だけ、などというのはどうにも間違っている気がしてならない。今回ばかりは小野が喜んでいるからそれでいい、というわけにもいかないだろう。 「欲しいものとか、ないのか」  小野の思考を読むのは困難であると、ここ一ヶ月弱で何度思ったかしれないので単刀直入に問うた。 「……なんか、くれんの?」  そう言って笑った顔が、何故か気に食わなかった。 「さっきの『おめでとう』だけで充分だよ。スゲー嬉しかった」  小野は笑っている。嬉しそうに。けれど、別に期待してないよと言われたようで、腹が立つ。小野はいつもいつも僕を想って色々とするのに、僕は小野のために何もしてはいけないのか。そんな道理があってたまるか。  そう思うけれど、あげられるものなんてほとんどないのが現実だ。蔵書を譲っても、心底喜んではもらえないだろう。金をかけようにも、小野がどんなもので喜ぶのかわからない。  わからないから、小野はそんな顔で笑うのか。  握りしめた拳を睨んでいたら、ふと、皺の刻まれた優しい面差しを思い出した。僕が誰かに何かをして、本当に喜んでもらえた数少ない記憶。  立ち上がり、ベッド脇のラックの上にあるメモ帳に懐かしく思い出される単語を書き付ける。数枚同じものを書いて破り取った。 「ん」 「え、何?ホントになんかくれんの?」  控えめに出された手の平に押し付ける。今思いつく中でのとっておきだ。これ以上のものはあげられない。 「肩たたき券……?」  だから、そんな驚きと疑問符に彩られた顔をされても撤回はしない。流石に挫けそうだが気力でなんとか耐える。大丈夫だ、自分の腕を信じろ。 「レポートと試験に追われて固まった肩をほぐしてやる。僕の肩たたきは祖父のお墨付きだ」 「あ、そうなの……」 「信じてない顔だな」 「え!?そんなことないよ、ちょっとドヤ顔かわいいなって」 「よし、歯を食いしばれ」 「ごめんなさい!拳は顔じゃなくて肩に!」  わざとらしく指を鳴らしてみせたら、渡した紙のうちの一枚を差出された。 「……今使うのか」 「うん?だって誕生日今日だし。なんか三枚ももらっちゃったし。もったいないけど、使わないのはそれこそだし」  だめ?と聞かれても、いつ使うかは小野が決めることだ。深く考えていなかったから、期限も書かなかった。  そわそわと視線が泳いでいる。こんなのでも一応喜んでもらえた、のだろうか。僕が言うのもなんだけれど、安上がりな男だ。  いいよ、と呟いて券を受け取ると、壁を背にして座っている小野の隣に膝立ちになって背を向ける様に促す。素直に座り直した背中は、見覚えのある曲がったものではなく、広くてまっすぐで若々しく、新鮮さを覚えた。 「では」 「よろしくお願いします」  誰かの肩に触れるのは正月に祖父母に顔を見せに行った時以来だ。祖父は何くれと理由を見付けて僕に肩を解させる。正月は決まってお年玉をやるからだ。大学生になったし別に要らないと言ったら拗ねられた。その事を話すと、祖母に呆れて笑われ、母に呆れ半分に叱られた。今思い出しても大変不本意である。  別に理由なんか要らないのだ。祖父母の所に行く時は大概本があるとソレばかり読んで全く話さないからと書籍関連の一切を持って行くことを禁じられるから暇なのである。家事や雑用を手伝い、相手をすることが嫌なわけではないけれど、手持ち無沙汰感は否めない。  だから、祖父が望むなら理由も報酬もなく肩たたきくらいする。金で釣らなくても頼むよの一言でよかった。それを聞いて呆れたのは父だ。そういうことは本人に言ってやれと。行く先々で呆れられるのを見た歳の離れた弟にまで笑われた。  そんなある意味散々な正月を思い出しながら、小野の肩を叩いたり揉んだり好き勝手していた僕の意識を彼の声が引き戻す。 「あー……やばい、かも」 「小野?どうし、ぅわ」  小野の体が傾いで僕の方へ体重がかかった。不意だった事もあると思う。だが僕は鍛えているわけじゃない。一日の大半を室内で過ごし、運動なんて登下校の徒歩くらいでろくにしていない。はっきり言って貧弱の部類である。僕よりも十キロくらい重いだろう小野を支えられるわけもなかった。  一応踏ん張ったのだが、意識の無い人間は重い。数秒耐えたが支え続けることはできなくてあえなく尻餅をついた。 「寝た……?」  僕にもたれる小野からは静かな寝息が漏れている。覗き込むと前髪に隠れながらもあどけない寝顔が見えた。  膝立ちをしていたところに寄りかかられて、ぺたんと所謂女の子座りのようになってしまったので、いくらもしないうちに僕の足が悲鳴を上げ始めた。つくづくひ弱な体にため息を吐きながら、小野が倒れて頭を打たないように支えつつ小野の下でもぞもぞと負担の少ない体勢を探す。  足の間に小野が座って僕が背もたれになり、後ろに手をついて支える、みたいな形になってから、なんで僕が小野の椅子にならなきゃいけないんだと思い至る。が、別にいいか、誕生日だし、と思い直した。本格的に疲れたら放り出そう。  抜け出すのも面倒になってそのままため息を吐いた。顎のすぐ下に小野の頭があるから、髪が当たってくすぐったい。左手の位置を調整してから、右手で顎と首周りをくすぐる栗色の髪に触れてみる。地毛だというその髪はさらさらと僕の指を受け流して絡まることはない。  真っ黒で少しクセのある自分の髪とは違う指通りが面白くて、できることもないし、と彼の髪を弄り続けた。指に巻き付けてみたり、わしゃわしゃと側頭部を撫でてみたり。調子に乗って左手が疲れるくらい遊んでいたのに小野が起きる様子はない。  支える手を交換して、左手で頬に触れてみる。体勢のせいで死角になっている目に指を突っ込んだら大変だから少し慎重になった。つん、と頬をつついて、ふに、と摘んでみた。思いの外伸びる。 「んぅ……」  小野が呻いたので反射で指を引っ込める。しかし、すぐに静かな寝息が戻って来た。  ふと、瞼で閉ざされている小野の琥珀色の目を思い出す。たまに緑に見えると指摘したら、「ヘーゼルって言うんだって。普段は淡褐色で、光の加減で色が変わる目。ま、自分じゃ見えないんだけどね」と笑った。  蛍光灯は付けっぱなしだ。眠っているのに眩しくはないのかと、手の平で両目を覆ってみた。すると、手の平を何かが掠めて、ソレが睫毛だと気付いて手をどける。 「起きたか?」 「ん……」  僕の質問に答えたのか呻いたのか、判断のつかない声が返される。  しばらく放っておいたら、勢い良く起き上がって振り返り、そのまま後ずさって背後にあったロフトへ続くハシゴにぶつかった。 「痛そうだな」 「うん……おかげで、目が覚めた……」  小野が体を丸めて痛みに耐えながら涙目で答えた。僕の顔と床や壁とを忙しなく視線で行き来しているのを、胡座をかいて眺める。小野が離れた瞬間に体の前面に涼しい風を感じて、夏の夜に男二人でくっついて何をしてたんだと自分に呆れた。 「なんか、ごめん……まさか気持ちよくなって寝落ちるとは思わなかった」  何故か小野が正座している。俯き加減の表情は真顔だけれど、顔色が赤くなったり青くなったりしている。脳内で戦争でもしているのだろうか。 「まあ驚いたけど。寝る程気持ち良くできたなら贈った甲斐があったな」  素直な感想をもらす。僕の手を殊の外気に入っている祖父でさえ、うとうとすることはあっても寝入ることはなかった。祖父以外に腕を披露することはまずなかったけれど、小野には有効だったようだ。  祖父は僕を仕込むのに手を抜かなかった。それこそ小学生の頃から、会う度にひたすら肩を叩いたり揉んだりさせられ続けた。  初めては……確か、そうだ、学校の宿題で敬老の日に何かしなくてはいけなくて。思い浮かばなかったから、適当にノートの切れ端に書いたそれを渡したのだった。  なってないと怒られて、それから会いに行く度に。最初は力が弱過ぎて、手の平全体を使えだとか、場所が違うとか、成長するにしたがって強すぎればいいってもんじゃないと文句を言われた。祖父が満足いく「肩たたき」が出来るようになったのは中学に上がった頃だ。  懐かしく思い出していたら、正座のままの小野が上目遣いに提案してきた。 「……オレも、肩もんであげようか。草町ほど上手くはないと思うけど」 「ああ、悪い。僕、するのはいいけどされるのは駄目なんだ。痛くて気持ちいい所じゃない」 「あ、そうなの……」  そう言った小野の顔は、今日で一番悲しそうだった。

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