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一章 望降ち -参拾玖夜 あさぢふの-
試験も残り一つ二つとなった七月の末、僕は図書館で論述の参考になりそうな本を数冊見繕い、窓の傍の明るい席で読みふけっていた。
北側の採光は目に優しく、時間に寄って明る過ぎたり夏の日差しで暑さを感じたりすることもなく、快適なまま一冊目を読み終えようとしていた。
ふと、本に影がさして顔を上げる。向いの席に小野が荷物を下ろして席に着くところだった。窓を背にしてノートを広げたところで、僕が見ているのに気付いた小野が小声で言った。
「ごめん、ジャマ?」
「いや」
「まだ読んでるだろ?ここで勉強してるから、帰る時に声かけて。マスターんとこ寄ってこ」
「わかった」
ここ二週間弱のテスト期間、小野もアルバイトの休みをもらったからとしょっちゅう図書館で勉強したり、帰りにカフェに寄って休憩したりして帰り道を共に歩いた。
少ないがいくつか同じ講義を取ってもいたし、専攻が違う相手の知識をレポートや論述の一助としたりしていたので、教え合ったり共に勉強に励んだりするのは期末の恒例となりつつある。
毎日小野が僕の家に来る今、共に過ごす時間はこれまでよりもずっと長かった。ほとんど毎日の様に夕飯を一緒に食べて、帰り際に「好き」と一緒に札を置いて行く日々。小野が「なんかすごくマジメな学生してる気がする……オレにとっていまだかつてない良い成績が見える」とかなんとか言っていたのは、試験を半分消化した頃だったろうか。
二冊目を三分の一程読んだところで、軽い空腹を覚えて本を閉じる。太陽が傾き始めたのか、外はそれほど眩しくはなさそうだ。読み終えた一冊を元の場所に戻し、読み切れなかった分を小脇に抱えて小野に声をかけた。
「小野。借りて来る」
「あ、うん、わかった」
うーん、と伸びをしている小野を置いて貸出し手続きをしてもらいにカウンターへ向かう。
眼鏡をかけた司書とはもう顔なじみだ。年老いて一部の学生に図書館の主と呼ばれている彼は、僕に気付くと声もなく微笑んでゆっくりと立ち上がる。動きはゆっくりだが、丁寧という言葉を体現しているかのように仕事は的確だ。
「試験勉強は捗っとるかね」
「はい、おかげさまで」
「そうだな、あれと……あれもかな。ほい、間に合いそうなら読んでおきんさい」
「いつもありがとうございます、本庄さん」
こうして、僕が借りた本を見て傾向が似ていたり、参考になりそうだったりする他の本のタイトルのメモをもらうのも、もう何度目になるだろう。達筆な、時代を生きて来た深みのある文字が踊るメモを受けとる。
何度か学食で鉢合わせて食事をしながら話を聞かせてもらったこともあった。何を聞いても答えが返ってくる。表現するなら、師匠とか生字引とか、そんな感じの人だ。
そうこうしているうちに、帰り支度を終えた小野が追いついてくる。
「お待たせ。あ、本庄さん、こんにちは」
「おぅ、マサ坊。留年はするなよ」
「しませんよ!フフフ、今回は成績表が楽しみです」
「ほうけ。真の字に足向けて寝られんなぁ」
「どういう意味ですか。まぁそうですけど」
本庄さんに挨拶をした小野は笑って二言三言会話する。僕を探して図書館に通ううちに仲良くなったらしい。ではまた、と挨拶して小野と連れ立って図書館を出る。とたんに熱気に包まれて、ひんやりしていた肌に夏の空気が染みていく。
スクーターを取りに駐輪場へ向かいながら、小野が思いついた様に声をあげた。
「あ、そーだ。草町さ、今度本庄さんに肩たたきしてあげたら?きっと喜ぶよ」
「本庄さんに?」
「いつもお世話になってるーって言ってたじゃん。本庄さんは本庄さんで、面白い若者だーとか言って好きで世話焼いてるっぽいけどさ。おじーちゃん孝行みたいなのも、たまにはいいんじゃない?」
「そうだろうか」
「そうだよ!草町の肩たたきメッチャ気持ちよかったし。オレがもらった肩たたき券はあげないけどね、たとえ本庄さんでも!」
小野は最近、いつも上機嫌だ。
うっすらと夕暮れの気配が滲み始めた夏の空に栗色の髪が踊り、サングラスに遮られていない少し緑みを帯びた薄い瞳が細められる。夏の暑さすら笑い飛ばしてしまいそうなほど、声も仕草も楽しそうに弾む。
「あ、いけね。忘れてた。ありがとね、草町」
「ん?」
「手伝ってもらったレポート、良かったぞって褒められたんだ」
初夏、フランス文学と日本文学の比較と考察というレポートを書くにあたり、小野は僕に助力を求めた。文学作品を例に挙げ、その解説をした上で考察して全文フランス語でまとめるという、なかなかに大変な課題である。
長編の物語を読んでいる時間もまとめる力も無いと早々に判断した小野は、古くから伝わる詩歌をテーマに選んだ。百人一首からいくつか抜粋し、その意味やら背景やら、使えそうな話や参考文献の提供をしたのが僕だ。フランスの詩歌については、フランス人であるところのおじいさんに頼み込んだらしい。
僕たちの百夜通いが始まるきっかけとも言えるレポートだ。
「……よかったな」
「反応薄くね?」
「そうか?」
「んー、まあ、いつもこんなもんか。草町はいつもテンション変わんないなー」
ふふ、と小野が笑う。試験の結果にそれほど自信があるのか何なのか知らないが、穏やかに楽しそうにしている。こんな試験期間は初めてだ。
小野がどんなに楽しそうにしていても、やはり理由がわからない。小野の思考回路は複雑怪奇だ。たまに本人に確認を取るが、なるべく考えてから答え合わせをするようにしている。
「レポート、返ってくるの早いな」
「ん?返ってきてはないよ。さらっと読んだ教授が感想くれたんだ。昨日の昼だったかな」
「昨日?」
「うん、昨日。……どうかした?」
てっきり褒められたのは今日の話だと思っていたのに違うらしい。では今日の機嫌の良さはどうしてだろう。
「!……なんだ?」
「眉間。皺寄ってるよ」
「む」
あれこれ考えているうちに駐輪場に着いていて、スクーターのロックが外されるのを見るともなしに見ていたら眉間を人差し指で突かれた。うりうりと皺を伸ばされるのを払って自分の指先で揉む。
「なんか悩み事?」
「は?」
「や……ここんとこ、よく考え事してるなーって」
小野が毎日来るようになってから、やたらと悩み事があるのかと心配されることが増えた。今まで気に留めていなかったことを考えているのは事実だが、そんなに顔に出ているのか。
「今日はどうして機嫌がいいんだ」
「……うん?」
今日も今日とて解に行き着かなかった。素直に聞けばパチクリと瞬きを寄越される。欲しいのはそれじゃない。
「小野はいつも今日は何があった、これがどうだったと聞いてもいないのにあれこれ話すだろう。でも、その中にそこまでの上機嫌の理由を見つけられない。最近はほとんど毎日だ。今までの試験期間とは明らかに違う」
小野の試験期間の様子を見るのは三回目だが、前回前々回は会う度にどこか遠い目をしていて静かだった。今までの僕がいないところでの様子は知らないが、今回の様に毎日上機嫌、というわけではないはずだ。
「で、今日は何があったんだ?」
軽く首を傾げて小野の答えを待つ。待つのだが、小野はヘルメットを持ったまま固まっているようだ。おかしなことを言っただろうかと僕も目を瞬かせる。
「小野?」
「ふぇっ!?」
小野の目の前で片手を振ると変な声を出す。驚いてヘルメットを落としそうになったのを、慌てて持ち直して抱きしめた。
首の方からじわじわと顔が赤くなって、血液が巡っているのがよくわかる。僕の様な引きこもりの白さとは少し違うけれど、恐らく血筋故に元が白いので赤くなる様がわかりやすい。
「どうした、熱中症にでも……」
ガチャン。
急に背後で音がして振り向くと、学生が一人自転車に乗って去って行くのが見えた。日が落ち始めたので、残っていた学生たちもちらほらと帰宅を始めたようだ。
「……か、帰ろうか」
「え?あ、ああ」
小野の声に振り向くと、ヘルメットがあった場所に荷物を入れて、出したそれをハンドルに掛けた小野がスタンドを上げているところだった。歩き出すその背を追って横に並ぶ。
横顔をうかがえば、頬と耳の先がまだ赤い。
「小野、顔が」
「待って。ちょっとでいいから、すぐ落ち着くから。待ってくださいカンベンしてください」
前だけを睨むようにして唇を引き結んでいるのが見えて、黙るしかなくなってしまった。
夕飯は今日も焼きおにぎりかなと栄養面は無視して腹を満たすことだけ考えていると、小野がいつもの喫茶店の前を通り過ぎる。あれ、と思って声をかけようとしたが、僕が立ち止まったことにも気がついていないようで背中が遠のいて行く。まあいいか、と後を追うと眉間に皺を寄せて何かブツブツと呟いていた。
少しずつ藍を深めて行く空を眺めながら歩いているうちにアパートに着く。敷地に入るのに道を逸れると小野がそのまま歩いて行くので流石に引き止めた。うちに寄らないのは構わないが、このまま放っておいたら事故に遭いそうだ。
「小野、どこまで行くんだ。寄って行かないのか?」
「へっ?」
半袖のTシャツの裾を掴んで声をかけると、現実に帰って来たらしい小野がきょろきょろと周囲を見渡す。
「あれ?マスターんとこ……」
「とっくに通り過ぎた。本当に気付いてなかったのか」
「う、ごめん、自分のセカイ入ってたっぽい……」
落ち着いていた顔色にまた朱色がうっすらと戻ってくる。
心此処にあらずな様子が過ぎたので、普段なら小野がスクーターを停めている間に先に部屋へ向かう足を止めた。階段の下で小野の支度が整うのを待つ。僕が待っているのに気付いたのか、手早く鍵を掛けて荷物をまとめた小野が小走りに寄ってくる。
「おまた、せっ!?」
「は!?」
僕の目の前、特に障害物はない所で小野が躓いた。転びはしなかったが、自分でも驚いた顔で、危なかった……と呟いている。
「小野……本当に大丈夫か?」
「あ、うん。ごめん、多分だいじょうぶ……オハズカシイトコロを」
僕は人の顔色の変化に気付けないことが多々あるので、自己申告してもらわなければ体調不良を見逃す危険性がある。訝しむ視線を隠しもせず小野に向ける。
「ほ、ホントに大丈夫だから!」
「……無理はするなよ」
焦った様な物言いは引っかかるが、本人が大丈夫だと言うのだから信じるしかない。
部屋に入って窓を開けると、ぬるい風が頬をなでた。小野が二人分のコップに麦茶を用意してくれたのを片手にベッドに腰掛け、一心地着く。向かいの定位置に胡座をかいて同じく麦茶を飲む小野の顔色はいつもと同じに見える。
「で、何があったんだ?」
「おぅ!?えっ何、えっと、ん!?」
「……」
慌てように呆れてしまった。落ち着いたように見えたが早まったようだ。
「まだ質問の答えをもらっていない。話したくないなら無理にとは言わないから、夕飯食ったら帰って寝ろ。なんか変だぞ」
「あ、や、だいじょうぶ。ホントに。ちょっと、恥ずかしかっただけっていうか、なんていうか?」
小野はコップについた雫を弄りながら目を泳がせて、耳まで赤くしていた。そんなに恥ずかしいことを聞いただろうか。しばらく唸っていたが、やがて頬にコップを宛てがって火照ったそれを冷やしながら話し始めた。
「んーと……今までのテスト期間てさ、やっぱあんま会えなかったじゃん?教えてもらったりとかはしてたけど、それってほとんどテスト始まる前で、始まっちゃえば終わるまでほとんど会えないのがフツーみたいな。しかも、テスト終わったら夏休みとか春休みとかで、そのまましばらく会えなかったりで」
「……そうだったか?」
「そーだったよ。だからテスト期間て、結構寂しかったりしたんデスヨ」
そんな認識はしていなかった。少し拗ねた様な口ぶりで言われても困る。
「だからさ、今、テストだ何だって大変だけど毎日会えるのが嬉しいんだ。特に何もないよ。ただ草町といれて嬉しいだけ」
へらと笑って言われてとっさに言葉を返せない。こんな答えは露程も想定していなかった。
「で、草町が変て思って、理由が気になっちゃうくらいテンション上がりまくってて……て、ゆーのをね、草町に言われるまで気付かなくて、言われて気付いたっていうのがまた恥ずかしくて、自爆しました」
「そう、か……なんか、すまん」
赤面がぶり返している小野を見て、つられる様に顔に熱が集まってくるのをなんとか逃がそうとする。僕が照れる要素はなかったはずだ、落ち着け。腕で顔が赤いのを隠すようにして、そっぽを向いている小野には見られていないのが救いだった。
先日の誕生日にも思ったが、小野の幸せだとか嬉しいの基準だとかが低い気がしてならない。僕みたいな本の虫で面白みもない男といられるだけであんな顔になるなんておかしい。ここまで来ると慎ましいとかそういう話ではない。
「飯に、するか」
「あ、うん」
この面映い空気を払拭したくて立ち上がる。
料理の腕はドングリの背比べだから、どちらかに任せることもなく効率重視の共同作業だ。冷蔵庫の中身を確認し、然程時間も経たずに野菜炒めと素麺という、いかにも料理の知識も経験もない男子学生の夕飯ができあがる。食卓を囲んで手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす」
もぐもぐと咀嚼し、飲み込んで、また頬張る。何か足りない気がして顔を上げると、小野が静かに食事をしている。口に入れた分を飲み下してから、今度は話すために口を開ける。
「静かだな。今日は話す事ないのか?」
「ぶっ……、ふ、うっ」
小野が左手で口を押さえて咽せている。なんとか大災害は免れた様子の小野に、僕は無言でコップを近づけた。
「ふ、う……はぁ、はぁ。びっくりした」
「すまん」
「草町が謝る事じゃないよ」
コップが空になったので冷蔵庫から麦茶を持ってきて三度注ぐとなくなってしまった。また作り置きしておかなければ。小野がありがと、と言ってもう一口飲んだ。
「なんか、しゃべってた方がいい?」
「いや、別に無理に話せとは言わないが」
「……ちょっと、自分の浮かれっぷりが恥ずかしいのがなんとかなるまで、おとなしくしてます」
「そうか」
言って、またもそもそと食べ始めたのを見て僕も食事を再開する。小野がいるのに静かな食卓というのが新鮮だった。
小野が話さないと相槌を打つこともないので、食べる以外にすることがなくなって正面に座る小野を眺めた。細くて長い指が箸を操っている。小野が百円均一で買って来たそれは少し短くて扱い難そうだ。
「あの」
「ん?」
「……何?あんま見られてると食べ難いっていうか、顔熱いのなおんないんだけど」
居心地悪そうに文句を言われる。
「悪い。他にすることがなくて」
「イヤ、食べよーよ」
ガクリと項垂れたかと思うと、諦めたようにため息を吐かれた。食事を再開した小野が不格好な野菜を口に放り込む。
「箸の使い方、上手くなったな」
「へ?……ほう?」
咀嚼の合間に問い返される。箸を銜えたままで行儀が悪い。
「去年の今頃は見られたもんじゃなかっただろう」
「あーうん、そうだね。特訓したからね」
小野が箸の先を開いたり閉じたりしながら、懐かしそうに目を細める。「前どんな風に持ってたのか、もうわかんないや」と笑った。
学食で食事をした時に、箸の持ち方がおかしいと指摘したのは、確か去年の今頃だ。夏の暑い日、冷や奴が上手く食べられずにぐちゃぐちゃにしていた。
「なつかしーね」
「そうだな」
小野がひたすら話してそれに僕が相槌を打つ、といういつもの賑やかさのない、穏やかな空気の中での食事は珍しい。一人暮らしの僕の家での食事は、僕一人の静寂か、小野の声がするかの二択だったから。たまには、こういう時間も悪くない。
小野は騒がしいだけの人間ではないが、食事中はいつも楽しそうに話す。あたたかい家庭で育ったのだろうと想像できる。僕の家がそうではないとは言わないが、幼い頃から一人で食事をすることも多かった。
「草町も、なんかいーことあった?」
「?別に。……たまには、こういうのもいいなと思って」
「どーゆーの?」
「こういうの」
上手く説明できる自信がなかったので同じ言葉を重ねて、また一口食べる。
「……ま、いっか。なんか楽しそーだし」
咀嚼して飲込むまでを黙って見ていた小野が微笑んで食事を再開する。暮れて行く街に虫の音が響いて、控えめに部屋に入ってくる。静かだけれど一人ではなくて、誰かの体温が確かに傍にある。
食事を終える頃には、小野も大分いつもの調子を取り戻していた。食器を洗っていると背後からシャッとカーテンを閉める音がした。今日も晴れているから、ちらほらと星々も見え始めているだろう。
「草町、このあとは本読む?」
「ああ」
「……もうちょっといていい?」
「僕は構わない。……コーヒー飲むか?」
居間にいる小野と話しながら洗い物を済ませて麦茶のパックを入れたボトルに水を入れる。冷蔵庫にボトルを入れて居間の方へ顔を出して問うと、鞄からノートと筆記用具を出していた小野が振り向いて答えた。
「氷いっぱい入れてくれるなら」
「暑いからって冷たいものばかり飲むのはよくないぞ」
「そう言いながら、冷たいの入れてくれるくせに」
くすくす笑う声が嬉しそうに弾む。僕は冷たい方がいいと言われて熱いものを出すような天の邪鬼ではない。のだが。
「あ」
「どうした?」
「すまない、氷がなかった」
「え」
冷蔵庫を開けるが、たまに気まぐれでしか買わない牛乳も当然の様に無い。
「水道水の温いコーヒーとホットコーヒー、どっちがいい?」
我が家にはインスタントコーヒーしかないので、ある程度はお湯で作らないとどうしても融け残る。半分水道水で作って冷凍庫で冷やそうとしたこともあるが、存在を忘れて数日放置した。
「うう……ホットで」
「ん」
二人分のマグカップに水を入れてレンジにセットし、温めている間に製氷機に水を入れて冷凍庫に入れる。棚から目当ての瓶を出しているうちにレンジが水を温め終わったと主張した。できあがったお湯に日本の技術の賜物である魔法の黒い粉を入れて、コーヒーにする。
できたてを持って居間へ戻ると、小野が本を読んでいた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「随分古そうな本だな」
「これ?じーさんに借りた」
マグカップを渡して隣に腰を下ろすと、代わりに持っていた本を渡される。日焼けや表紙の傷みは見受けられるが、大切に読まれてきたのがわかる本だ。表紙は見覚えがあった。
「星の王子さま?」
「うん。じーさんにもレポート手伝ってもらったじゃん?勉強にもなるし、たまには本読めって押し付けられた。じーさんが産まれた時にじーさんのじーさんが買ってくれたんだって」
「へぇ……」
おじいさんの蔵書だというそれをめくると、なじみの無い文字が並んでいた。日本語訳されたものを初めて読んだのは中学生の時だ。有名な話だし、図書館に訳者の違うものもあったので何度か読んでいる。しかし外国語は受験に必要な英語力に毛が生えた程度なので、なんと書いてあるのかはわからない。
「なんて書いてあるんだ?」
「ん?」
「前に話せるって言ってただろう。読んだらどんな感じなんだ?」
「ああうん、まあ読めるけど……え、なに、音読?」
「うん」
「マジか」
興味本位だったが、本を返すと小野がパラパラとページをめくる。適当に開いて、一度こちらに視線を寄越す。ほんの少しの好奇心と期待をもって見つめ返すと、小野は小さく嘆息して、すうと息を吸った。
「――……」
聞こえてくる音に、呑まれた。
自分の呼吸音さえ煩わしくて、息を止めて集中する。どの場面で、どんなことを言っているのかはわからないのに、心を揺さぶられている。
優しく沁み入るように、鼓膜を撫でるのはいつも聞いている小野の声なのに、知らない人のもののようで、口元から目が離せなかった。
「……草町?」
名前を呼ばれて我に返り、ヒュッと息を吸った。不思議そうに僕を見る小野を、パチクリと瞬きをしながら見返す。
「すごいな。……別人みたいだ」
「……ありがと」
軽い放心状態の僕を見て、不思議そうにしていた小野が瞳に心配の色を混ぜる。何か、言わなくては。大丈夫だからそんな顔をするなと、ちょっと驚いただけだと。少しだけ。
「感動、しただけ……」
小野が目を見開いている。一瞬だけ、光の加減で綺麗な緑に見えた。
「なんて言ってたか、わかったの?」
「いや……」
「え、違うの?」
「ああ……」
ぼんやりと受け答えをしているうちに、視線が下りて行く。両手で持ったマグカップの中のコーヒーに、ぽちゃんと波紋が広がった。
「くっ、くさまち!?」
「え」
ほろりと、暖かいものが頬を伝う。熱がひいて、涙がこぼれたのだと理解した。
「えっ、お、オレっ?なんかした!?何!?」
「や……なんでもない。すぐ、とまる」
カップを置いて手の平で涙を拭う。あれ?止まらない。
「?なんだ、これ」
ずず、と鼻をすする。
「草町――」
視界がうっすら暗くなったかと思うと、一拍おいて控えめに頭を撫でられる。ゆっくり、真綿でくるむみたいな優しさでもって。目を閉じてしまいたくなるくらい、何か暖かくて安心できるものに包まれているように。
「だいじょうぶ?」
「ん」
どれくらいそうしていただろう。随分長く感じたけれど、ほんの一分足らずだったかもしれない。小野の声に返事をして、しっかりと顔を上げる。涙は止まっていた。
「すまない。僕にも、何故だかわからない」
「……いいよ。落ち着いたならそれで」
小野が微笑む。僕を安心させるためかもしれない。違うかもしれないけれど、心配させてしまった彼が笑ってくれて安堵した。
「大丈夫そうだし、やっぱりオレ帰るね」
「ごめん」
「謝んないでよ。泣かしちゃったの、オレなのに」
小野の方が泣きそうな顔でそんなことを言う。僕に背を向けて荷物をまとめ始めてしまって、言葉を探してはくはくと浅い呼吸をくり返す。
違う。小野のせいじゃない。なんと言えば伝わるだろう。
「泣きたかったわけじゃない。声が」
そうだ、知らない音を発する声が、新鮮で、優しく響いて、なんだか無性に。
「声が……音が、すきだと、おもった」
小野の気配が動かない。気を悪くしただろうかと涙の痕が残る手の甲に視線が落ちた。
落ちた先に、見慣れた緑の枠で囲われた流麗な文字が踊る。
「J'aime」
耳元で紡がれたそれに、脳が雁字搦めにされた。なんの命令も出してくれないから、動くことも、声を発することも、思考すらもままならない。
近かった体温が離れていっても僕は固まったままだった。
「……おやすみ。また明日」
別れの言葉を耳がかろうじて拾ったけれど、応えを返す事も、振り向くこともできずに手元の札を眺める。
――あさぢふの 小野の篠原 しのぶれど……
耐えることも忍ぶこともできなくらい、ただひたすらに恋しいと叫ぶうた。
キン、と耳鳴りがするくらい静かだったはずなのに、少しずつ大きく、ドクドクと心臓が血を送り出す音が耳の中で響き出す。
意味はわからないけれど、確かに「知って」いる単語の響きが、鼓動に混じって何度も身の内で木霊した。
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