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一空間目⑦

「あ、ありがとうございます…」 一応お礼の言葉も忘れずに。 しかし俺のその言葉に反応することもなく、神田さんは再び黙々と飯を平らげていく。 「………」 いったいどうしたものか。 別に嫌いな部類に入るわけでもないが、朝っぱらから二つも食べるほど、ヨーグルトが好きなわけではない。だけど折角貰った以上美味しく食べるのが礼儀というものだ。多少無理してでも食べるべきだろう。 「(でも一口目に感じるあの青臭さは、どうしても好きになれないんだよなぁ)」 二口目からはそこまで気にならなくなるけれど。どっちかというと、昨夜出たプリンの方が欲しかったなんて失礼なことを思いながら、俺も神田さん同様に朝食を口に運んだ。 そして飯を完食させて箸を置き、代わりに透明色の小さいスプーンを手に取る。アルミ素質のような蓋をベリッと剥がせば、ヨーグルト独特の香りが鼻を擽る。 「………」 いつの間にか神田さんも完食させていたようで、ジッとこちらを見てくる。何とも感情を読みづらい表情だ。何を思ってこっちを見てくるのだろう。別に神田さんが見ていない内にヨーグルト一個を捨ててしまおうとか、残してしまおうとか思っていないぞ。貰ったからには、美味しく食べさせてもらうつもりだ。だからお願いだから、あまりこっちを見ないで欲しい。 そんなに見られると穴が開きそうだ。……ストレスで、胃に。 ふぅと、ばれないように小さく息を吐き、スプーンでヨーグルトを掬い、口に運ぶ。 「…ん、」 あれ? 思った以上に青臭さが気にならなかった。 「(むしろ…甘酸っぱくて美味しい…)」 久しぶりに食べたから忘れていたけれど、ヨーグルトはこんなに甘酸っぱくて美味しい食べ物だったのか。 あまりの甘酸っぱさに頬がジーンと痺れ、このまま頬が落ちてしまうのではないかと思ったくらいだ。いや、大袈裟な表現ではなく、本当に。 一口目に続き、二口、三口と夢中になってパクパクと食べていれば、今までずっと黙っていた神田さんから「おい」と声を掛けられた。 「は、はい?」 「…美味いか?」 「あ、はいっ。すごく美味しいです」 「そうか」 「…えっと、あ、ありがとうございます」 そしてプリンの方が良かったなんて思っていてすみませんでした。思った以上にヨーグルトも美味しいです。という心の声は伏せて、素直に二度目のお礼を述べた。 「美味しい…」 うん。これなら余裕で二個くらいペロリと食べられそうだ。神田さんから貰ったほうのヨーグルトに四回目のスプーンを入れようとしたその瞬間だった。 俺が動かしたスプーンはヨーグルトを掬うことが出来ずに、結果的に空振りという結果になってしまった。 何故そんなことになったのか。 ……その原因はというと。 「ちょ、…か、神田さん…?」 俺がスプーンで掬う前に、神田さんがヨーグルトの容器を取り上げたからだ。 「……?」 …え、何?いったい何がしたいの? クエスチョンマークを頭上に浮かべ、神田さんの様子を伺っているときだった。声を上げることも、抵抗する間もなく、まだ半分以上も中身の入っているヨーグルトの容器を俺の顔面目掛けて神田さんは投げてきたのだ。 ベッシャッと音を立てて紙素材で出来たヨーグルトの容器が床に落ちた音が聞こえてきた。 ……それと同時に、ドロッとした液体が額から頬、そして首筋にまで垂れ落ちてくる何とも言えない感触に俺は眉を顰めた。 「………は?」 神田さんの突然の行動に唖然となり、ポカンと口を開けていたら、その微かな隙間から甘酸っぱい味が口内へと侵入してくる。青臭いような、お世辞にも良い匂いとは言えない液体が顔中に付着しているこの状況に、俺はどう対応すればいいのか。 昨日掛けられた冷水といい、神田さんは人に液体をぶっ掛けるのが好きなのだろうか。それは変な趣味をしている人だ。神田さんがどんな趣味性癖の持ち主なのかは知らないが、それを俺に実践しないで欲しい。 大変迷惑だ 「……何するんですか?」 自分でも驚くぐらい低い声が出てしまった。 多分、自分が思っている以上に俺は腹を立てているのだろう。そりゃ、そうだ。いきなりヨーグルトをぶっ掛けられて腹を立てない人なんて居るわけがない。 その相手が有名人である神田さんでもだ。 手の甲で顔に付着しているヨーグルトを拭う。 だけどそんなことをしても全て拭い取れるわけもなく。 「……タオル」 どこにあるんだ?ヨーグルトのせいで薄目を開けるのでやっとだ。このまま立ち上がったら危ない上に、床を汚してしまいそうで上手く動けない。 だが事の原因である神田さんが気を利かしてタオルを持って来てくれるわけがない。ちょっと嫌だったのだが、止むを得ない。服の袖や襟元を使って付着したヨーグルトを取ってしまおう。 そして粗方拭い取って、目をちゃんと開けられるようになって気が付いた。 ……真剣な顔をして、神田さんがこちらを見ていることに。 「…な、何ですか…?」 「………」 謝罪の言葉でも言ってもらえるのかと少し期待したのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。それならいったい何なんだ?…あまり見ないで欲しい。 「神田さん…?」 「………」 「…?」 「……ないな」 「え?」 ………何が? 「間抜け面」 「……は?」 「エロさの欠片もねぇ」 「…え?」 …え、エロ? 何が?俺の聞き間違い? というか、なぜ何の罪もない被害者である俺が罵倒されなくてはいけないんだ。元から間抜け面している俺にヨーグルトなんて掛ければ、間抜け面に更に拍車が掛かるだけなんていうのはする前から分かっていたはずだ。 「…昨夜のは一時の気の迷いか」 「……ちょ、神田さん…?」 頼むからもう少し言葉のキャッチボールをしてください。確かに俺は人見知りも激しいし、口下手だし、面白くもなんともないかもしれないけれど、最低限の会話くらいきちんとしてくれないと困る。 しかし意味の分からない発言をしたきり、神田さんは何も言葉を発さないどころか、俺にはもう用がないとばかりに席を立ってしまった。 「………」 一人ポツンと席に残された俺。 しかも顔はヨーグルトだらけの上に、垂れ落ちたせいで着ていた洋服さえも汚れてしまった。 …何故何もしていない俺がこんな目に。 今ならばシンデレラの気持ちが俺にも少し分かるような気がする。 「………」 いけしゃあしゃあと鞄なんか漁りやがって。そのむかつく程に広く逞しい背中に、もう一つあるヨーグルトをぶっ掛けてやろうか。いや、待てよ。背中に掛けるだけでは俺の気が済まない。俺がやられたようにその美形なお顔にぶちまけてやろうか。 「(…まあ、そう頭の中で思うだけで、俺にはそれを実行する勇気などないんだけど…)」 ああ!でもやっぱりムカムカする! 理不尽だ!横暴だ!野蛮人だ! フリだとしても謝罪の言葉を掛けてくれるわけでもなく、「間抜けな面」だと罵りやがって。どうせ俺は間抜けな面をしてるよ。ヨーグルトなんか顔に掛けなくたって、それは素面を見れば分かるだろうが。 くそー、ヨーグルトの青臭いにおいで気持ち悪くなってきた。 「……はぁ」 ……そうだよ。 苛々したってもうどうしようもないじゃないか。文句を言ったって仕方がないことだし、仕返しする度胸もないし、早く洗い落してこよう。 そう思って、席を立った時だった。 「おい」 「…ぶっ…!?」 背後から声を掛けられて反射的に振り返れば、再び顔面に何かを投げつけられた。 しかしそれは先程とは全く違う感触。 柔らかくいい匂い。 「…タオル?」 そう。投げられた物。それは柔らかいタオルだった。 「…風呂、入ってこい」 「え…?」 「……さっきは悪かったな」 「あ、…いえ」 天変地異の前触れか? 神田さんが謝ってくれた…だと?わずか一日しか一緒に暮らして居なかったけれど、彼の横暴さはもう身に染みるほど分かっている。それなのに自分の非を認識して謝ってくれるなんて。おもわずびっくりして「あ、…いえ」しか言えなかったじゃないか。謝ってくれるなら謝ってくれるで、前もって知らせて欲しかった。そしたら「許すか馬鹿野郎!」とでも言い返すことが出来たかもしれないのに。 ……いや、出来ないと思うけれど。 大体謝るくらいなら、最初からこんなことしなければいいのに。本当にそうだよ。いったい何のためにこんなことをしたんだ?俺の間抜けな面を、より一層間抜けにしたかったのか?それとも俺の情けない面を見て笑いたかったのか?それに「一時の気の迷い」って何なんだよ…。食べ物で遊ぶなと小さい頃、この人は教わらなかったのだろうか…。 「…おい」 「…え…?」 頭の中で悶々とした思考を張り巡らせていたら再び声を掛けられた。 「何ボケッと突っ立ってんだ。早く行け」 優しい言葉を掛けてくれるわけでもなく、床まで汚れるだろうが、と冷たく言い放った神田さん(加害者)の台詞に、ブチッと大きい音を立てて自分の中の“何か”が切れた音が何処からか聞こえた気がした。 もう。 我慢の限界だ。 「……ふ、ふ…ふ、」 「は?…何?麩?」 「ふ、ふざけんな…!」 その怒声は自分が思った以上に大きい声で。 今まで大人しかった俺がこんな大声を出すとは思っていなかったのだろう。ましてや怒声なんて。神田さんは驚いているのか、新聞片手に、少し目を見開いている。 「な、何が床が汚れるだっ。その汚れる原因を作ったのは間違いなく神田さんだろうが。何で…そんなに俺に冷たく当たるんだよ…!」 床ではなく俺を見て見ろ。 神田さんのせいでヨーグルトで服も顔中もドロドロだろうが。お前が行った非だ。まず床ではなく、俺を労わるのが先だろ!何も悪いことをしていなのに、こんな目に遭わされている俺は惨め過ぎる。まずは俺を心配しろ。 ……あれ?何か論点が違ってきたような。 「訳分かんないよ!…俺、別に何も悪いことしてないのに。気に食わないから!?だから酷いことするの!?」 …だからこれも違うって。 これではただの癇癪を起した子供の八つ当たりではないか。 「俺が嫌いなら酷いことするんじゃなくて、もう相手にしないでよっ」 違う、違う。 少し落ち着けよ俺。これは神田さんに言うべき言葉ではないだろ…。動くな口。俺の意志と反して勝手に動くな。 「おいっ、落ち着け」 「……っ、」 落ち着かなくてはいけないことは重々分かっている。 だけどそれを他人に指摘されると、ムカッとしてしまうわけで。俺は反射的に、もう一つのヨーグルトの蓋を開けて、俺がやられたときのように、神田さんの整った顔目掛けてそれを投げつけた。 “どうだ、ざまあみろ!” その言葉は胸の中に止めておく。 もうここまで来たら自棄だ。言わなくていいことまで言い尽くして、そしてヨーグルトまでも顔面に投げ付けてやった。すっごく満足。 後悔もしていない。反省もしない。 だって俺は被害者なんだ。少しくらいやり返したって罰が当たるわけがない。…当たるわけがないんだ。 まさに今の俺は敵なし。 興奮状態でまともな思考回路が出来ているのかは不明だが、昂った気持ちは治まりようがない。 ……と、思っていたのだが。 神田さんの顔面投げ付けたヨーグルトの容器がべチャッと音を立てて床に落ちた音に少し正気に戻る。 「………」 そしていつもの俺に戻る決定的な切っ掛けはというと。 ヨーグルト塗れのせいで、最初は人物判断どころか、端正な顔立ちの持ち主ということすら分からなかったのだが。 そのヨーグルトも少し時間が経てば段々と下に垂れ落ちるわけで…。顔に掛かった液体の隙間から見えた、神田さんの恐いくらいの笑顔に、俺は正気に戻ったのである。 ……いや、戻らざるを得ないほどの恐怖を感じた。 「……ひっ、」 何で笑っていやがる。怒るわけでもなく、驚いているわけでもなく、この状況で何故憎たらしいほどいい笑顔を浮かべているんだ。その笑顔は今の状況に相応しくないだろ。怒られる以上に神田さんの笑顔に俺は恐怖した。 一瞬にして身体の血の気が引いたのが分かったくらいに。 「…お、おおお俺!ふ、風呂入って…きますっ」 三十六計逃げるに如かず。 昔の人はいい言葉を残したもんだ。 そう、これはただ風呂場に逃げるだけじゃない。そこに一時避難して、身の安全を確保しながら今後の対策を練るのだ。 だ、だって、神田さんも早く風呂に入って来いって言ってたしね(……今は神田さんの方がヨーグルト塗れになって汚れているけれど)。 「い、行ってきますっ」 そうと決まればダッシュだ。 神田さんが何も言わない今の内に逃げてしまおう。そう思って、足を一歩進めたのだが…。 「……ぁ、っ」 力が入り過ぎたせいか、はたまた床がヨーグルト塗れになって滑りやすくなっていたせいか(おそらく後者)、俺は足を滑らせ勢いよく転倒してしまった。 「…(さ、最悪だ…)」 恐怖と羞恥に耐え切れそうにない…。 穴があったら入りたい。いや穴がなければ自分で掘って隠れたいくらいだ。それが無理ならば顔を両手で隠して、ミノムシのように丸まって自分の姿を隠したい。…だが、人よりも横幅のある俺の身体は果たしてそれで隠れてくれるだろうか。 もういっそ一思いに殺してくれても構わないくらいだ。 …いや、でもヨーグルトに塗れて死ぬというのはなんともお間抜けな事件過ぎる。それだけは避けたい。最後の力を振り絞ってヨーグルトの滑りを気を付けながら立ち上がろうとしたのだが、それよりも先に両足を掴まれ、立ち上がることすら出来なくなった。 ………誰にだって? 「まぁ、待てよ」 この場に居るのは悪魔のような笑顔の持ち主の神田さんしか居ないだろ。

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