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一空間目⑧
「あ、っ、うあぁ…っ」
決して俺の体重は軽くない。
むしろ見た目通り一般男性よりも体重は重いほうだと自覚しているくらいだ。
「ひ、ゃ…っ、うぁ、」
それなのに神田さんは糸も容易く俺の両足首を掴んで、神田さんが居る方に引き寄せてくる。
ゆっくり、ズルズル、ズルズルと…。
ブラックホールに引き摺られる可哀想な子羊のような、凶悪な幽霊に引き摺られる無力な子供のような心境だ。それでもどうにか神田さんから逃れようと、綺麗な床に爪を立てて抵抗を試みるのだが、そんな些細な抵抗で神田さんに勝てるわけもなく、俺は空しくも完全に捕まってしまった。
「……っ、」
「逃げんな」
「ひっ、」
うつ伏せから強引に仰向けの体勢に変えられる。
「(…ま、マウントポジション…っ!?)」
しかもその上、俺の上に跨ってきたのだ。
腰を両足で抱え込むように固定してきたため、これでは簡単に逃げられそうにない。
…な、何?俺、殴られんの!?
ちょっと口答えして、ヨーグルトぶつけただけじゃんっ。そこまで怒らなくていいじゃんっ。
この状態では否が応でも目の前の悪魔もとい、神田さんと目が合ってしまう。
「………」
そして目を合わせてちょっと驚いた。てっきりまだ不気味な笑顔を浮かべているのかと思っていたのだが、神田さんは意外にも無表情。これでは彼が何を考えているのかが分かり難いではないか。
どうやってこの状況を打破すべきなのか必死に頭を動かしている最中だった。
「…お前さ、」
……神田さんが表情を変えないまま、口を開いたのは。
「いい性格してるじゃねーか」
そして彼の口から出た言葉の続きがこれだった。
彼の表情同様に、非常に判別し難いものだ。
褒められているのか、それとも喧嘩腰の台詞なのか。まぁ、訊くまでもない。後者に決まっている。
「…謝罪の言葉ばかり口にするより、よほどお前らしさが出てる」
「……え?」
だが予想とは違った。
彼の台詞の真意は後者だとてっきり思っていたのだが、どうやら前者の方だったらしい。
「今度からは今みたいに話せよ」
「…え、?」
「俺はこっちのほうが好きだ」
「…っ、」
そう言ってふわりと笑った神田さん。
その表情はテレビでさえも見たこともない優しい顔で、俺の心臓は馬鹿みたいに煩くなった。
「……っ、」
いやいや、落ち着け俺っ。落ち着け心臓っ。
男相手、しかも性格に難有りな神田皇紀なんかに反応するなっ。
「な、何を言ってるんですか…?」
それにこの人は何を言っているんだ。
「今のように話せ」?
「こっちのほうが好き」?
う、嘘を吐くな!そんな優しいこと言っておきながら、油断させた後に、俺を殴るんだろ!?そうでなければ、馬乗りになっている意味が分からないじゃないか。
…そうだ。絶対にそうに決まっている。
「……嘘吐き…」
「…あ?」
どうせいつも最後に酷いことをするんだ。
だって今まで皆そうだったじゃないか…。お母さんもお父さんも弟も友達も。皆一緒。きっと神田さんも同じだ。甘い台詞を吐いて優しくしておきながら、最後に俺を苛めるんだ。
「…やさしく…、」
「………」
「優しく、しないでよ…」
それならいっそ、最初から構わないで欲しい。俺に淡い期待を抱かせないで欲しい。
俺が気に入らないなら、嫌いなら最初から無視してくれた方が余計な期待しなくて済むじゃんか。
相手は手を煩わせないでラッキー。
俺も嫌な思いしないでラッキー。
ほら?お互い良いこと尽くめだ。
別に一人で居るのはもう慣れたよ。ちょっと辛い時もあるけど、痛いことされるよりは全然マシだから。
「………、」
…あ、やばい。
何か自分で言ってて悲しくなってきた。
でも絶対に人前で泣くもんか。
泣いたらかえって相手を喜ばせてしまうことを俺は知っている。だって俺の弟がそうだったから。
そう思いながら、鼻を啜った後だった。
「……お前、馬鹿だろ」
ずっと反応なしだった神田さんが深い溜息を吐いたのは……。
まさかそんな台詞が返ってくるとは思っていなかった俺はむかついたのと同様に少し驚いた。
「…なっ、?」
「本当、馬鹿」
「ば、馬鹿じゃないです…っ」
「…苛められてたのか?」
「………っ、」
「隠さなくていい。大体分かる」
「…た、他人のあんたに何が分かるって言うんですか…?」
「別に。なんとなく」
「………」
だめだ。
何だこれ…。完全に神田さんのペースに流されているじゃないか。
「“優しくしないで”?……はっ、俺のような奴にそういうこと言ったらどう反応されるか分かってるだろ」
「……な、に…、」
「そんなこと言われたら余計に甘やかしたくなるじゃねーか」
グワシッと大きな掌で頭を掴まれた。
てっきり殴られるのかと身構えていたのだが、俺の予想と反して、次の瞬間髪の毛を掻き混ぜられた。
「……っ、」
節くれだった無骨な手が繰り出す、少し乱暴で慣れていない動き。
だけどその不器用な手の動きに俺は、彼の優しさは本物だと感じた。
……そして同時に。
「ぅ、っ…」
俺の涙腺が崩壊した瞬間でもあった。
「ぅっ、ひっく…ッ、」
顔は未だヨーグルト塗れ。
その上、涙でグシャグシャになった俺の顔はとても見れたものではないだろう。
「はは、ぶさいくな面」
案の定笑われてしまった。
うるさいっ。そんなことわざわざ言われなくても分かってるよ。美形の神田さんに言われたら余計傷付くじゃないか!
「そんなに泣くんじゃねーよ」
それを泣かした張本人がそれを言うか?
こっちだって泣きたくて泣いてるんじゃないよ。人前で泣くって結構恥ずかしいんだぞ。泣き止めるならとっくに泣き止んでるよ!それに「泣くな」とか言われると、余計に涙が出てくるだろっ。
ああ、もう!ほら、そういうところだよ!
頭撫でんな!あまり優しくするな!
本気で涙止まらなくなるから。
「ほら、風呂入るぞ」
風呂に入る原因を作ったのはどこのどいつだ。
まあ、確かに俺もその原因の一人かもしれないけど…。
大体風呂は二人では入れないだろ。
俺はな、今泣くので精一杯なんだ。ちょっと空気読んで、先に風呂に入って来てくれよ。というか俺の上から退いてくれ。泣いてる所見られるの本気で恥ずかしいからさ。
「普通俺にヨーグルト投げるか?」
それだって先にぶっ掛けてきたのは神田さんだよ。
本当に何を思って投げてきたんだ?
「お前は食べ物で遊ぶな、粗末にするなというのを教わらなかったのか?」
「…その言葉、そっくりお返しします…」
あ、思わず声に出してしまった…。
「確かにそうだな」
しかし反抗的な俺の台詞に、神田さんは怒るどころか、さも楽しそうに笑った。俺も思わずその笑顔につられ、泣きながら笑ってしまった。
「ま、今から食えば問題ねーだろ」
「……へ…?」
どうやってですか?
その真意を訊ねる前に、急に近付いてきた神田さんの端正な顔。
「ちょ、…ぇ…っ?」
ペロッ。
抵抗する暇などなかった。
ほんの一瞬だったから。
でも確かにそんな音が聞こえてきた気がした。いや、実際は音なんてしていないかもしれないけれど。
柔らかくて生暖かい神田さんの舌が俺の頬を舐めたのだ。
「甘酸っぱい」
そう言って満足そうに舌舐めずりする神田さんの驚きの行動に、びっくりのあまり涙が止まった。
「……へ?」
舐めた?
え?ちょっ、待って。今、舐めたよね?
俺の勘違いや見間違いではなく、確実に俺の頬に舌を這わせたよな?
……その現実がやっと理解出来た俺はというと。
「ぎゃ、ギャー…っ!」
上に乗っている神田さんを蹴飛ばす勢いで暴れた。
「色気のねえ声」
しかし神田さんはというと俺の上から転げ落ちるどころか、余計に足に力を入れて俺の身体をガッチリとホールドした。
ちょっ、ちょっと!離せよ!退け!
俺に色気なんてあってたまるか。俺には食い気だけで十分だ。
それに何が「甘酸っぱい」だ。あんたの言動の方がよっぽど甘酸っぱいよ!こんな過激でデンジャラスなシチュエーション、ギャルゲーでも中々見つからないよっ(あ、でも男同士ならBLゲーになるのか?俺したことないからよく分からないけれど)。
「ちょっ、本当に……離して…っ」
「やだ」
「…な、何で……、?」
「お前が嫌がってるところ見るの楽しいから」
「……っ、」
ああ、なるほどな。分かったぞ。
こいつ根は優しいんだろうけど、それと同じ以上に意地悪なんだ。あんたの言動に感動して泣いてしまった俺の涙を返せっ。
「本当、勘弁してください…」
俺たちは二人きりのようで二人きりじゃないんだよ。この一部始終は監視カメラの向こうの人たちに丸見えなんだぞ。万が一にも誤解されてしまったらどうする。神田さんだってそれは嫌だろ?男でしかもデブと熱愛報道なんて…。
それに俺だって勘違いされたくないんだよ。
もしカメラの向こうの人たちが神田さんの大ファンだったらどうする?逆上されて、刺されちゃうかもしれないだろ!?
「ど、退いてください…っ」
「食べ物を粗末にするといけないんだろ?」
「そ、それはそうですけど…、もう…どうしようもないじゃないですか…」
「だから食っただけだろうが。暴れんな。食わせろ」
「は…ぁ?」
再び近付いてきた神田さんの顔を俺は押し返した。
何考えてるんだ、この人は。わざわざ俺の頬に付いたヨーグルトなんて舐める必要ないだろ。いくら俺が太ってたって、俺の肉は食えないぞ。
「そ、そんなにいうなら床に落ちてるの舐めればいいじゃないですか…っ」
これ。俺なりの精一杯の抵抗であり反抗。
こう言えば、素直に止めてくれると思ったんだけど、やっぱり神田さんは普通とは少し違った。
「はっ、俺に床に這い蹲って舐めろと?」
「………」
「やり方分からねえな?手本見せろよ」
「ちょっ、うわ…っ!?」
俺の上からやっと退いてくれたかと思えば、神田さんは今度は俺の身体をうつ伏せの状態にし、更に俺に膝を付かせ、四つん這いの格好にした。そして神田さんはというと、背後から俺の腰を抱きかかえている感じ。
……え?何かこの体勢エロいと思ってしまったのは俺だけ?
「や、やめっ」
いや、本当に勘弁してください。
冗談なしでカメラの向こうの人たちに誤解されちゃうって。それにこの体勢、屈辱的で嫌だ。
「おら、舐めろ」
「い、嫌です…っ」
「あ?お前が俺に這い蹲って舐めろって言ったんだろ?」
「俺は、そんなことまで言ってないですよ…!」
とんだ語弊だ。何処でそこまで俺の台詞と食い違った。
くそー。泣いて弱った所なんて見せてしまったから、神田さんの変なスイッチが入ってしまったじゃないか。何してるんだよ、数分前の俺!
背後で楽しそうにニヤニヤ悪どい笑いを浮かべている神田さんの姿を容易に想像と出来てしまう。
テレビの中で爽やかな笑みを浮かべていた神田さんを忘れてしまいそうだ。
「離して、ください」
「それなら早く俺がお前にぶっ掛けた白濁液を舐め取れ」
「…は、ぁ?」
何ですか、その意味ありな言い回しは。
わざとでしょ。セクハラでしょ。これっ。
俺が童貞で、キスすら未体験だということを知ってからかっているのか。冗談にしても笑えないぞ。
童貞は童貞なりのプライドがあるんだから、多少なりとも腹が立つんだかならな。
それにそんなこと言われても俺男だから、「ドキッ」とか「キャッ」とか一切思わないからな。
「変な言い方しないでください…。たかがヨーグルトでしょ」
「チッ、少しはいい反応しろよ。俺がつまらねえだろ」
「男の俺にそんな反応期待するのが間違いです…っ」
もういいから、本当に離せって。
片足を動かして神田さんの太腿を蹴れば、背後から喉で笑った声が聞こえた気がした。
「本当にお前いいな。面白い」
「………」
褒められているのかこれは?
…どちらにしても天下の神田さんに褒められたのは素晴らしいことだろう。
…全然嬉しくないけど。
「お前を苛めてた奴の気持ちが俺には分かるぜ」
「…ちょっ、やめ…、!?」
「苛めたくなるんだよ、お前って」
「…っ、」
背後から、ぶにっと余分な腹の肉を掴まれてしまい、俺の身体は大袈裟なほどに跳ね上がった。今の動きはコイキングにも勝る跳ね方だと我ながら思う。
だって。それほどまでにびっくりしたから。
「あー、柔らけー」
「ひ、っ」
「掴み心地いいな」
「ん、っ、ちょ…、や、やめ…ッ」
暴力振るわれる意外、他人に身体を触られた記憶がない俺は、過剰なほど身体が敏感に反応してしまった。
怖くなった俺は、全身の力を右足に込めて、背後に居る神田さんを思い切り蹴り上げた。
さすがにここまで力一杯蹴られると思っていなかったのだろう。俺の腰を掴んでいた神田さんの拘束は解け、俺はその隙に震える足を無理やり立たせて、ユニットバスルームへと駆け込もうとした。
「……あ…、」
だけど急いでいた俺は一度行った過ちを忘れていたわけで。学習能力が低い俺は、再びヨーグルトの滑りに足を取られて、派手に転んでしまったのだった。
「……ぅ」
背後でさも楽しそうに笑う神田さん。
無関心な両親と暴力的な弟が居る実家と、愉快犯で意地悪な俺様神田さんが居るこの部屋のどちらが逃げ場所に相応しいのか少し迷ったのは言うまでもないだろう……。
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