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第2話 恋の始まり

 翌朝、目が覚める。ベッドの上に一人。いつものこと。何も違わない。  起きて洗面所で顔を洗う。前髪を掻き上げると、黒い眼が鏡に映った。  『綺麗』――そう言ったシャルルの甘い顔を思い出す。心臓がどくんと跳ね、顔が熱くなる。  馬鹿じゃないのか。あんなガキに、と一つ舌打ちをする。  俺はいつもドアの外に置かれている朝刊を取りに、玄関のドアを開けた。が、ごつんと何かに当たって半分しか開かない。訝しげに外を覗き見ると、そこには昨夜追い出したはずのシャルルが座り込んで眠っていた。 「何やってんだ、お前!」  あまりのことに朝から大声を出してしまう。 「……あ、おはようございます」  軽く尻の汚れを叩いて立ち上がると、昨日初めて会った時と変わらない微笑みを浮かべた。 「お前、もしかして昨日の夜から……」 「はい。結局クロードさんのタルト、食べられませんでしたから」 「……お前、馬鹿なのか?」  怪訝な顔をしただろう俺を見て、シャルルはあははと無邪気に笑った。 「まあ……入れば」 「はい、お邪魔します」  自分で追い出しておいて招き入れるなんて、俺の方が馬鹿なのかもしれない。そう思うと溜息が漏れる。  しかし、俺はその時少しだけ、いつもの相手とは違う感じを持ってしまっていた。何かを、期待するような。 「作ってる間、暇だろうから寝てろよ」 「見てたら駄目ですか? どんな風に作るのか気になるんです」 「いいけど……変な奴だな、お前」  冷蔵庫と棚から材料を取り出す。生憎林檎はなかったので、洋梨の砂糖漬けを代用する。  調理方法は昨晩とほぼ変わらない。型に入れ冷蔵庫に寝かせていた土台に、洋梨の砂糖漬けをのっけていく。あとはオーブンに入れて焼き上がるのを待つだけだ。 「凄い」  タルトが焼き上がるのを、オーブンを覗き込みながら言う。 「お前、あんま顔近づけんな。危ねえから」  しかしシャルルは子供みたいにオーブンから離れなかった。確かに、色づいていくさまは見ていて面白いものだと思うが。  しばらくして焼き加減を見る。ちょうど良い頃合いだ。オーブンからタルトを取り出すと、洋梨の甘い香りが部屋中に広がった。 「まあまあかな」  家にある材料と道具でこれなら良い方だろう。我ながら上手くできた。 「クロードさんって、魔法使いみたいですね」  なんて、笑顔でそんなことを真面目に言ってしまうこいつは、相当な馬鹿なのか、何も難しく考えていない天然なのか、どっちかだ。それに、彼の台詞を馬鹿にするよりも、喜ばれていることが嬉しいという気持ちになった。 「紅茶淹れるから、ベッドに座ってな」  俺の家にはテーブルはあるが椅子はない。部屋が狭いのもあるが、要するにベッドを中心に考えられた部屋だからだ。客をもてなすことなどない。  シャルルはベッドに腰掛けて部屋の中を見回す。目に映るのは白い壁ばかりだろう。  俺はタルトを二つに切り分け、ケトルを火にかけて、ティーバッグをポットに入れる。 「この人は?」  壁に一枚だけ貼られた写真。黒に赤のフリルがついたドレスを着た女。 「……母親」  派手で自由奔放、自分の好きなことをやって生きている母親。地味で誠実、五体満足以外誇れるものがない父親。金は無いが、笑顔の絶えない家庭だった。 「綺麗な人ですね。クロードさんとよく似ています」 「……目は父親譲りだけど」  全部母親に似ればよかった。せめて茶色なら、いつまでも引きずらずに済んだ。  敬虔な信徒の父親にホモセクシュールだと告白して、「神よ、赦したまえ」と嘆かれたあの日から、俺は人を愛することすら罪なのだという荷を背負わされた。原罪の象徴は、その父と同じ黒い目。  父親はそれ以来、俺を可哀相な生き物でも見るような目を向けるようになった。母親は、理解してくれたのに。耐えられなくなって逃げるように家を飛び出してから、一度も会っていない。 「お湯沸いてますよ」  大きな音を立てているケトルを見て、慌てて火を止め、ティーポットにお湯を注ぐ。ティーカップとタルトを二つずつテーブルに並べ、シャルルの隣に腰を下ろした。 「お前が食べたかった味じゃねえけど」  彼に皿を渡し、カップに紅茶を注ぐ。 「本当はタルトが食べたかったわけじゃありません」 「は?」 「あの後、クロードさんがドアの向こうで泣いているのがわかったから、離れられなかったんです」  俺を気遣うような視線を向けたシャルルの笑顔に、心音が速くなるのを感じた。長く止まっていた何かが、もう俺の意識と関係の無いところで動き始めている。 「いただきます」  シャルルはタルトを手で掴んで口に放り込んだ。一応紳士だから気を遣ってフォークを用意したが、意外にも豪快に食べる。 「美味しい!」 「……そりゃ良かった。何ならもう一個食べてもいいぜ」  俺は紅茶に口を付け、彼の前に皿を動かす。喜んでくれたことが嬉しいだなんて伝わらないように、できるだけ無表情を試みる。 「じゃあ今度は味わって食べます」  フォークを手に取ると、一口サイズに切り分けながらゆっくりと食べ始める。 「お前、なんか美味そうに食べるな」 「美味しいからですよ。ほら」  唐突に一口サイズのタルトをフォークに刺して差し出してきた。今までだったら絶対に馬鹿にした行動だと思ったところだが、どうしてかその誘いに乗ってしまい、俺はそれを口に運んだ。 「本当に美味しいでしょう?」 「……まあまあな」  俺の答えを聞いて、シャルルはまたにこにこしながら食べ始めた。  実際味なんて、よく分からなかった。十代の恋人達がやるような真似をして恥ずかしくなったから。 「お前って何歳?」 「十九です。クロードさんは?」 「二十八」  十代の恋人……確かにこいつはそうかもな。というか、十近くも年下なのか。改めて歳の差を再認識する。  ふと見るとシャルルはタルトを食べ終わっていた。 「クロードさん、今日お仕事は?」 「昨日で辞めた」 「……僕にタルトを出したせいですか?」 「自惚れるな。元々辞めるつもりだった。お高く止まった奴らに嫌気がさしたんだ」  色んなところを転々としてきた。今までと何も変わらない。これからも、多分。 「僕の家に来てくれませんか。絵を見て欲しいんです」 「俺、そういうのよくわかんねえよ」 「構いません。見て欲しいだけですから」  真剣な表情でそう言った彼に、俺は思わず頷いてしまった。

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