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第3話 シャルルの絵

 アパートの前に停めてあった車に乗り込み、市街を少し入った場所にある画廊の前で車は停まった。看板には『ロトレック・パリ画廊』とある。 「ここの三階が住居になっているんです」  どうぞ、と丁寧にドアを開けて招き入れる。一階と二階はホールになっていて白い壁だけが広がっていた。 「ここが僕の住まいです」  階段を三階まで登ると一変して普通の部屋が広がっていた。広いリビング、ソファ・テーブル・マット、部屋は見えるだけでも二つ、キッチンは俺の部屋の二倍くらいある。 「キッチンの奥に僕の寝室があります」 「こっちの二つは?」 「客間です」  キッチンの奥を覗いてみると、確かに部屋があった。そしてすぐそばにはシャワールームらしきものがある。しかしなぜこんな奥まった場所を自分の部屋にしたのだろう。  ふと振り返るとシャルルが紐を引っ張って梯子を降ろしていた。 「この上がアトリエです。先にどうぞ」  もしかしたら、絵を描いてすぐに眠れるように、という考えなのか。だとしたら、意外にも怠惰なのかもしれない。  言われるまま梯子を上る。瞬間、目に色が飛び込んで来た。  赤、黄、緑。色とりどりの絵の具が壁や床に飛び散っている。原色が多いせいか、目が痛い。床には黒いペンキがべっとりとこびりついていた。 「何なんだよ、これ……」 「僕の心です」  答えになっていないが、しかしこれがアートで彼自身の心を表現したものだとしたら、随分と激しい気性の持ち主だということになる。いつも笑顔の彼を見る限り、そんな風には少しも見えない。  シャルルは壁に立て掛けていた、布を掛けられた絵を持ってきた。随分と大きい。 「これは、先週描いたものです」  見せられた絵は、全体的に真っ黒で、真ん中に赤い傷口のような線が入ったものだった。 「どう思いますか」 「どうって……なんか、痛い」  感想というより感覚をそのまま言葉にすることしか出来なかった。こいつはこんな毒々しい絵ばかり描くのだろうか。あまり良い心地のしない絵だ。  シャルルは笑って、その絵を元の場所に戻す。 「よかった、伝わった」  一言そう言うと、奥の部屋に行ってしまう。しばらくして戻って来た彼の手には、白いキャンパスと筆と絵の具があった。 「壁に添って立ってもらえますか」 「何で?」 「そこの壁にお願いします」  質問をかわされた。仕方なく壁にもたれ掛かって立ってみる。いつの間にかシャルルはキャンパスの前に立って筆を構えていた。 「お前、それは……」 「動かないで下さい」  描く気だ。絵を見るだけじゃねえのかよ。予想外のことに動揺するが、知ってか知らずか、シャルルはそのまま絵の具をパレットに出し始める。  そうして俺とキャンパスに視線を動かしながら、筆を動かした。人に自分の絵を描かれるのは初めてだから、少し緊張する。一体どんな絵を描かれるのかも分からない。  恐らく二時間近くそうしていたと思う。足は痺れてくるし、同じポーズのまま動かないでいるなんて苦痛以外の何ものでもなかった。  しかし、俺(とキャンパス)に向ける真剣な眼差しを真正面から受けては、逃げることも出来ない。  ……いや、逆だ。俺が彼から目を離さなかったんだ。熱っぽい視線を向けながら、ただじっと見つめていた。 「できました」  満足そうに微笑んで、シャルルは絵を持って俺に駆け寄って来た。凝り固まった体を解すように、大きく伸びをして彼の絵を覗き込む。 「……これ、俺?」 「はい」  それはよく分からない絵だった。黒っぽい緑の空間に白い人影が立っている。それが俺、らしい。その俺と思しき人物の回りだけ少し光っているように見える。また、その足元から白い線が真っ直ぐに画面に迫ってくるように伸びていた。 「題名は?」 「『運命の道』です」  余計に訳が分からない。まず、こんな人間の形をしているだけの曖昧な絵なら、俺が立っていなくったって描けたんじゃないか?  気を使ってポーズを崩さないようにした俺の努力は生憎無駄だったようだ。 「貰ってくれますか」  拒絶を恐れるような目で聞くなよ。お前が言わなくても、貰って帰るつもりだった。訳の分からない絵でも、お前が描いた俺の絵なのだから。そう、心の中で呟く。 「ああ」  俺の返事を聞いたシャルルは、少し顔を紅潮させ「はは」と声を上げて笑った。もし今俺と彼の間に絵が無かったなら、俺は衝動的に抱きしめていたかもしれない。  もう、俺は駄目そうだ。九つも歳の離れたこの男に生き方を変えられてしまいそうになっている。俺の片想いの恋愛なんか二度としないための呪文は、全く効かなかったようだ。

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